情熱*ミドルスプリント

烏丸朝真

第1話 幼馴染は世話焼きである

 もう倒れて楽になりたい。なのに足が動かない。そんなとこからも出るのかと、肘の頭とからも汗が噴き出た。

 ようやく欲していた空気を胸に取り込めたのに、喉にキリキリとした痛みが走る。

 相変わらず、中距離800mは終わっても地獄が続く。それでも、文字通り「自分の全力を振り絞る」から嫌いじゃなかった。

 なのにその日ばかりは、妙だった。

 やりきった達成感も、走りきった充足感も、駆け終えた安心感もまるでない。

 ただただ息を吸うたびに、心に冷たい風が吹いて――。


「……と。……こと、ねえ、早く起きてよまこと

「……うん? おう?」


 柔らかい声が、耳を撫でた。

 さっきまで夢に入り込んでいた気がするのだが、どうもこのには弱い。

 どんなに深く眠っていようが、この聞き慣れた声に名前を呼ばれると、目が自然と冴えてしまう。

 むくり、とほとんど無意識に体が起き上がる。

 まだ霞む目でふっと横を見てみれば、寝床にしてる小上がりのへりに腰掛ける、赤い制服ブレザーに身を包んだ女の子。

 白いシャツの前立てやボタン周りにさえシワ一つなく、蝶結びにされたリボンタイは鏡合わせのような左右対称シンメトリーよそおいだけで、その几帳面きちょうめんさが見て取れた。


「………………おはよう、桜花おうか

「うん、おはよう誠」


 にっこりと、おだやかな頬笑みを返された。

 赤峰あかみね桜花おうか。お隣さんの同級生どうきゅうせいで、お互いのアルバムには、全ページに渡って必ず相手のかげうつっている。昔のことを思い返せば、桜花の姿は必ずある。

 ざっくばらんに言ってしまえば、桜花は俺、黒高くろたかまこと幼馴染おさななじみだ。

 明るい栗色のセミロングの髪はよくかれていて枝毛えだげや跳ねた毛もない。くりくりとした瞳は大きく健康的にうるんでいて、整った制服も相俟あいまって、まぶしいくらいの清潔感せいけつかんただよっていた。


「悪い、寝坊したか……?」

「ううん、7時だよ」

「しちじか……。…………7時!?」


 わずかに残っていた眠気が、どこかの彼方かなたに走っていった。

 壁に掛けた時計を見れば、長針は12の真ん中をかず、2にすら掛かっていなかった。――7時にもなってねえ……。


「ごめんね、私今日は日直にっちょくだから、ちょっと早く起こしちゃった」

「だったら別に起こさなくてもいいのによ……」

「でも起こさなかったら、誠ずっと寝ちゃうでしょ?」

「学校まで歩いて20分だろ? 朝飯食うのに15分で、朝のHRは8時半。だったら8時に起きても充分じゃねえか」

「それじゃあ5分遅刻しちゃうじゃない」


 桜花が俺の頭に手を伸ばし、跳ねた髪を手櫛てぐしで整えながら苦笑する。だけど髪質が硬い俺の寝癖は、何度直しても元に戻る。

 それでも諦めない桜花はもはや、もはや撫でつけるというか撫でこすると言うほど手を動かした。

 ……本当にマメな奴だなこいつは。


「誠、中学時代はしっかり朝早起きしてたのになあ……」

「部活やってたからな。だけど今の俺は帰宅部きたくぶだ。休めるときはきっちり休むんだよ」

「はぁ……先が思いやられるなあ。甚平じんべえくずしちゃって、あ、あせかいてるね。新学期しんがっき始まったばかりなのに、風邪かぜ引いちゃうよ?」


「な」――んで俺の先をお前が心配するのか、と言いかけた瞬間。

 寝間着ねまきの甚平をあっという間に脱がされた。上は下着も着けてなかったので、おかげ上半身じょうはんしん丸出しである。

 換気かんきのためか桜花が開けただろう窓から風が入ってくるが、まだ春先はるさき結構けっこう冷たい。むしろこの格好のせいで風邪を引きかねない。

 というか。


「いやおい桜花、待て、うら若き乙女おとめが男を脱がすのはどうかと思うんだが」

「もう私と誠の間にそんなのほぼないじゃない。タオルはタンスの中にあるよね? ついでに下着も出しといてあげるから着替えてね。制服は……あ! ネクタイヨレヨレじゃない。もー、シワ伸ばさないから……って、カバンに今日の時間割りいれてない! 机にもないし、学校に置きっ放しなんでしょ。ダメだよ、予習よしゅう復習ふくしゅうに必要でしょ? 放課後、ちゃんと持って帰ってもらうからね」

「お前は俺のオカンか……」


 桜花はこの通り、真面目まじめ世話せわき・優等生ゆうとうせいが三拍子揃っていて、不真面目ふまじめ適当てきとう面倒めんどうくさがりの三重苦さんじゅうくの俺に対しては容赦ようしゃがない。

 自分で言うのもじではあるが、俺はぶっちゃけずぼらである。部屋着へやぎ外着そとぎさえ区別くべつしない俺に対して、桜花はお節介せっかいにも世話せわを焼いてくる。

 タンスから、迷いなくタオルや下着を手に取り。

 クローゼットの中から制服せいふくのシャツを選びとり。

 もはや俺よりも部屋の中を桜花は把握はあくしている。

 俺としては甘える気はないのだが、些細ささいなことに気付く桜花は、俺が気付かぬところ、抜くところををサッとフォローしてくる。

 正直ありがたくはある。だが。


「ほら、背中向けて。いてあげるから」

「自分でやれるっての!」

「誠は適当にすませちゃうでしょ。私に任せなさい!」


 ちょっと、甲斐甲斐かいがいしすぎやないかとも思う。

 観念かんねんして、胡座あぐらをかいて背中を見せると、タオルをそっと当ててきた。

 背中を拭く力加減は丁度良く、敏感びんかん背筋せすじを触られているにも関わらず、他人にやらせている感覚がほとんどない。

 なんでこんなにコイツはこんなに世話が上手いのか。もしや俺が上手くさせてしまったのか。

 だとしたらなんとも不甲斐ない話である。思わず目元に手を当てたくなったが、丁度その時。


「もう、日焼けあと、無くなったね」

「え? ああ、そりゃあ陸上辞めて一年ちょっとだしな」


 そっと、肩の辺りを撫でられた。

 俺は元から地黒じぐろな方で、肌は素であさぐろい。日焼けが抜けても、あまり分からない方である。

 とはいえ、陸上をやっていた時はくっきりユニフォームの跡が残っていた。

 だが今では、すっかりそれも消えている。

「それがどうかしたのか?」と首を回したが、桜花の顔はギリギリ見えなかった。


「ううん、なんでもないよ──はい、拭き終わった。じゃあ私、下で待ってるから。制服に着替えて降りてきてね」

「……おう、まあなんだ、世話掛けた」

「どうしたのよあらたまって。いつものことなんだから、気にしないの。それじゃ」


 ニッコリ笑ったその無邪気むじゃきな顔は、親みたいな世話焼きっぷりとはかけ離れている。とし相応そうおうの、花が咲いたような可愛かわいらしい笑顔だ。

 桜花は軽く手を振って、タオルをもって部屋から出ていった。

 少し面倒だと思うことがあるが、それでもあの笑顔を見ると「桜花が幼馴染でよかった」と深く思える。

 ……もうすっかり、二度寝する気もなくなってしまった。忙しい朝に世話をしてくれたのだから、それには報わなきゃ男じゃあない。待たせるのも悪いし、さっさと着替えてしまおう。


「……うん?」


 立ち上がると、下半身にジトッとした感覚が。背中を拭いてもらったせいか、足にかいた汗が妙に気になった。


「……足も拭くか」


 洗濯物を増やすと、俺に似て物臭ものぐさな―いや、俺が似たのか―本当の母親にどやされる。どうせなら同じものを使ってしまおう。着替えずに、タオルを持って部屋を出た桜花を追った。まだ降りてはいないはず──


(ガチャ──)


「なあ桜花」

「ふわん!?」


 ドアを開ければ、

 数歩進んだところで、

 桜花が廊下で立ち止まって、

 ……タオルを胸に、抱えていた。


「…………足の汗、気になるから拭きたいんだけどよ……」

「────」


 無言。


「……使用しようちゅうなら、いいんだがぶぅ!?」

「ま、誠のバカ! ノックぐらいしてよ!?」


 タオルを、顔面に投げつけられた。さっきまで汗を拭いていたはずなのにあまり湿しめった感じはなく、汗の臭いより、桜花がかぐわせていた甘い香りが鼻奥に入り込んだ。

 タオルを剥げば、桜花の姿はどこへやら。あっという間に階段まで走ったようで、駆け降りる音が響いている。

 

「……部屋から出るのにノックはいらねえだろー……」


 届かぬ叫びツッコミだけが、廊下に寂しくこだました。

 ……真面目なんだけど、たまーによく分からないことするんだよな、桜花って。

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