第14話
「解かってもらいたいのは」ムスタファは言っていた。「報酬というのは、仕事に対する責任の大きさだ」
この場上手くやり込めたとしても、それで終わりじゃない。外ではムスタファが待っていて、ぼくに渡した前金以上の成果を期待している。逃げ出す選択肢は最初からなかったんだ。ぼくは自分に言い聞かせたが、脚の振るえは止まらなかった。
未だ現役のつもりらしいブレットだったが、足の運びはホログラムの自分に劣ってる。ぼくが下がったり回り込んだりするのを、ブレットは捉まえられない。どれだけ拳が速くたって、間合いに入らなければ無駄ってもの。
ブレットはぼくを追うのを諦め、自分の側のポールをぶん殴った。殴られたポールが軋みを立てて歪み、リングが大きく揺れる。どんな馬鹿力だよ。
「加減を忘れちまったな」
ブレットが呟きながら、もう一度ポールを殴る。すると、その弾みで対角線上のポールが地面から引っこ抜けて、リング全体が大きく傾いた。リングの持ち上がった方にいたぼくは、大きく浮かんだ。
浮かんだんだ。大袈裟に言ってるんじゃない。リングが揺れて、その反動でぼくは身長の倍以上を跳んでいる。意味が分からない。どうして、たかがパンチでリングが持ち上がる? ギミックか、演出か?
下ではブレットがにやけながら待ち構えてる。訳を考えるのは後だ。このまま重力に引っ張られたら、ぼくはいい的になる。照明を吊るしている骨組みが目前にあったので、ぼくはそれをよじ登った。
「降りてこいよ。小僧」
「どうやって?」
ぼくはリングを見下ろしながら叫ぶ。下までの距離は思いのほかあった。
「この場合はどうなるんだ? ぼくはリングアウトでもいいんだけど」
「それじゃ、観客が納得しない」
ぼくは鉄骨を慎重に渡ってライトに近づくと、手頃な太さの配線を引き抜いた。引き抜いたケーブルはライトの駆動部分に信号を送るものみたいで、鉄骨に沿って分配装置と繋がってる。接続部は太い。多少の衝撃でも外れないようにロックがかけられているって期待して良さそうだ。
ぼくはケーブルをしっかり握って、鉄骨から飛び降りた。あわよくばを狙ってブレットに蹴りを入れようとしてみるが、そんな攻撃当たるはずもない。垂れるケーブルにしがみついたぼくはリングの上に螺旋を描く。
ぐるぐる回りながら、ぼくはボクシングの正式なルールについて思い馳せる。レフェリーは何やってんだ。観客席とリング上と、交互に視界が移り変わる。観客席、それから、リング。レフェリーは実況席の側でぼくを見上げていた。
ブレットがすぐ側まで迫ってる。ぼくは慌ててケーブルから手を離し、眩暈のする頭でリングを這いずった。ブレットの一撃はかわせてけど、リングの外が哂いに包まれた。
「ちょこまかと」
「おかげでいい見世物になってるじゃないか」
ブレットは聞いちゃいなかった。上から垂れてるケーブルを掴んで、思い切り引っ張った。ぼくも観客たちも、頭上を見上げる。リングの上に架けられた照明が、鉄骨ごと落ちてきたんだ。遠巻きに観戦してる連中はブレットの底力に驚いてるけど、リングとその周りにいるぼくたちにとっては一大事だ。
観客やスタッフは逃げ出し、ぼくは誰もいなくなった観客席にダイブした。
ブレットは言う。「何もかもがめちゃくちゃだ」
大半はお前のせいだろう。
スポットライトが観客席を照らす。ぼくは人影や音響機器の間を通って光をかわした。スタッフもブレットも、ぼくのことを見失ってる。逃げ出す絶好の機会だ。ジョビーはどうしているだろうか。満身創痍なんだ。時間は充分以上に稼ぐべきだろう。
ぼくはブレットの背後を狙い、リングを周り込んだ。スポットライトの光線とブレットの視線をかわしながら進んでいると、途中で杖が転がっているのを見つけた。逃げた客の落し物だろうか。ぼくはそれを拾い、リングの側に戻った。
ブレットは、ぼくが逃げ出すつもりだと考えているんだろう。視線はスタジアムの出入口に向いていた。時折、リングの上にばら撒かれた瓦礫を拾って、闇雲に放り投げてる。ぼくはその隙にリングのロープを潜った。スポットライトがぼくに気づき、光線を浴びせる。ブレットが光線の先を振り返った。だけど、もう遅い。ぼくはブレットの頭目がけて、拾った杖を振り被っている。
ブレットには止められない。ぼくは勝利を確信した。
杖がブレットの鼻っ面に触れる。軟骨を圧し折り、鼻腔を破って血が噴出す……はずだったが、杖はブレットの鼻先に触れたまま勢いを失くし、杖を握るぼくの手には何の感触も残らなかった。
ブレットは拳を構えてる。ぼくは咄嗟に退いた。相手にしていたのがホログラムの方なら、ぼくは出遅れ、重い一撃を貰っていただろう。ブレットから距離を取ったぼくは、手にしている杖とブレットを交互に見比べた。
「どうした、小僧」ブレットは言う。「ありえないって顔をして」
杖で殴られても動じないくらいブレットは頑丈だった。そんな話なら、ここまで驚きはしない。ぼくは全力だった。杖を振り被ったときも、振り下ろしたときも。なのに。なのに! 杖がブレットに触れた直後、それが突然、ぼくの腕は萎えた枝みたいに脱力したんだ。いざというときに、怖気づいたか? まさか。殺意はないが、ぼくは全力だった。なのに、突然だ。スポンジを殴ったみたいに、突然、ぼくが振り絞った力はどこかに霧散した。
「……あんた、何者だ?」
人間の皮を被った何かが超常現象を発揮した。そうとしか思えなかった。
「鍛え抜かれた身体には、どんな拳も通用しない。自分のパンチでは歯が立たないと思い知らされた対戦相手は戦意を喪失する」
ジョビーはそう言っていたな。それが、ブレットのスタイルだって。
「秘訣が知りたいか」ブレットは大胸筋を張り、堂々とぼくの方に歩み寄る。「それとも、知らない振りか?」
「知らないんだよ。知ってれば、さっさと逃げてた」
ブレットは笑う。「所詮は、使いっぱしりか」
ぼくの一撃を無力化した得体の知れない仕組みも気になるところだけど、何よりぼくが考えなくちゃならないのは、打つ手のないこの状況で自分は何をすればいいかってこと。
どうすればいい? どうすれば……。
気が散っていたぼくは、リングの隅に追い詰められていることに気づくのが遅れた。焦ったぼくは、ブレットとの距離を保つことばかりを考えて杖を闇雲に振り回した。だけど、それも悪手だった。振り回した杖をブレットに掴まれ、ぼくはまたも脱力する。立つ力さえも、杖を介してブレットに吸われているみたいだ。
膝を落としたぼくの顔面に、ブレットの膝が飛んできた。実際には顎に当たり、ぼくの頭は強い衝撃と共に上を向いた。
頭上を覆っていた鉄骨と照明が無くなり、空では星が瞬いているのが解る。眩暈と共に光の輪郭が歪んで、だんだん大きくなっているようにも見えるけど。
ブレットは倒れかけたぼくの頭を掴んで持ち上げた。
「まだ気を失うなよ。これからだ。これからなんだよ。小僧」
ブレットはぼくに顔を近づけて続けた。
「身に余る欲望を持つとどうなるか。お前の雇い主に見せつけるのさ」
ブレットの拳が、ぼくの頬を、腹を叩く。ブレットが腕を振り上げると、〈キューブ〉が淡い光を帯びているのが見えた。ぼくはあの光を知っている。
ニーナ・モロー。彼女が持っていた〈キューブ〉と同じ輝きだ。ニーナも、そうか。あいつもブレットの同類だ。……なるほど。
全身が弛緩したままのぼくは、どうすることもできない。殴られ、殴られ、殴られる。スタジアムのモニタはリング上を映し、マイクが拾った殴打音を側のスピーカーが流してる。一撃。また一撃。音は鳴る度に大きくなって、観客の興奮も高まっていく。一撃。更に一撃。音が砂嵐みたいに歪み始めた。
スタジアムがどよめく。ブレットの残虐性を恐れたわけじゃない。ぼくに同情しているのとも違う。観客の視線は……メインモニタにノイズが奔り、宇宙飛行士みたいな恰好の人物が現れた。顔面を覆う遮光バイザーには、卑猥な文字を模ったネオン管の灯りが映ってる。宇宙飛行士は指を鳴らした。スタジアムのスピーカーが音楽を鳴らす。
「なんだ。ブレット・ジョーンズ。チャンピオンともあろう男が、弱い者をいびるのか?」
場内が動揺する中、ぼくだけが安堵していた。声の主は……ジャックだ。
スタジアムのスピーカーから大音量のブーイングが鳴る。ブレットはぼくを放り捨てると、モニターの宇宙飛行士を無視して、自分の護衛に何やら指示を始めた。
「観客の前でそいつらに恥をかかせるのが、何かを誘き出すための見せしめだとしたら、誤算だったな」
その言葉を聞くと、ブレットはジャックに注目した。
「おかげで、お前はおれに、見つかった」
ジャックは笑う。音楽を鳴らしていたスピーカー。テレビ中継のスタッフがしていたイヤホン。観客が持っている携帯デバイスへと、ジャックの笑い声が拡散していった。
「近頃はお前の番組も、盛り上がりが欠けているらしいじゃないか」
揚々とジャックは話す。
「折角だ。ブレット・ジョーンズ。おれが直々に、ショーとは何たるかを教えてやるよ」
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