始まりを讃える歌

第31話

「カメラの準備はできたぞ」

 スタジオの屋上に急造のセットが組み上げられた。どの機材も屋内にあったものだ。設置から配線の接続に至るまで、ジャックは全てを蝙蝠に任せていた。

 セットの中央には衣装を着せられたニーナ・モローが立っている。

「世紀のモデルの初ステージだ」

 ジャックの煽りはニーナに届かない。

「ねえ」ニーナはマイクを構えて言う。「本当にやるの?」

 スピーカーからニーナの声が響く。

「安心しろ。おれの言う通りにやれば、ライブは大成功。世界中が熱狂する」

「大袈裟な。歌に関しちゃニーナは素人だって言ってたぞ」

「だけど、エンターテイナーだ。根っからのな。ニーナは魅せることに集中すればいい。こっちには素人の声だってプロの歌唱に変えられる、歌の真髄を弁えた機材があるんだ」

「成功するのか? こんなこと」

「お前たち次第だ。気楽にやれよ。どうせもう他に選択肢はない」

 ジャックに操縦を任せ、ぼくたちはヘリで飛び立った。

「そういえば」ヘリが雲に飛び込む直前、ジャックは言った。「お前はムスタファが何を望んでいるのか知ってるか?」

「金持ちの考えることは良く解からない」

「他でもない、ムスタファ・ラムジが今になって願うようなことだぞ? 一世代で、地上の誰よりも多くの富を築き上げ、国を動かし、夜空の星にだって手が届く男だぜ。それほどの奴が晩年に望むことなんて、一つしかないだろう」

 ジャックは言う。

「あいつは、自分の人生に満足できなかった。地位も、名誉も。手に入れたものは生涯を賭けるほどの価値がなかったと気づいたのさ。寿命っていう崖っぷちに立たされたムスタファ・ラムジは、何の柵もない世界で、人生をやり直したいって思ってるんだ」

 ヘリは上昇を続け、雲を突き抜けた。晴天の空に顔のない巨大な頭がある。それは星を生み出した大いなる存在の模倣。数多の人を取り込み、肥大化した、たった一人の欲望。

「あれは、ほとんど万能の存在だ」ジャックは言う。「お前を通じてニーナにその力を共有させる。そこからはおれたちのニーナの仕事だ。ムスタファが描く世界と、ニーナが訴える希望。どちらが〈新人類〉に吸収された人々を、〈新人類〉を拒みながらも絶望した人々を魅了するか。カメラがお前の光とニーナの歌を届ける。お前はムスタファの〈キューブ〉を掴め」

 額にある巨大な鉱石がそうなんだろう。

「それから」

「まだあるのか?」

「いいや。我慢できなくなったんだ。言わせてくれ。お前の願いの正体。おれは言い当てるぞ」

 ここには、ぼくとジャックしかいない。

「喋るのは勝手だが、答え合わせに付き合う気はないぞ」

「お前は誰かの夢が叶うところを見たかったんだろう? この世は利用され、突き放されるばかりが常だとは思いたくなかった。だから、お前はジョビーを見捨てないし、ゲート越えを手伝った誰かがいつか脚光を浴びることを期待していた」

「どうだろうな」

 ぼくは降下装置の準備を始める。準備といっても、ヘリに備え付けられていたリュック型の装置を一つ背負い、もう一つを腹に抱えるだけだけど。

「これから、何百億って人間を救うんだ。晴れ晴れとした顔をしろ。笑顔で挑め。還ってきたお前は……成功者だ」

 ぼくは空中に身を投げる。風に煽られ、身体が目まぐるしい速度で回転しながら落ちていく。落ちて、落ちて、落ちていく。やがて、回転が収まった。

 ぼくはパラシュートを起動する。

「かつて我々は一つだった」

 この世に産み落とされたばかりの赤子が羊水に塗れているように、〈新人類〉の身体は湿り、昇りかけの朝日を照り返している。落下。落下。ぼくは艶かしく照る肉塊に向かって落ちていく。距離が縮めば縮むほど、肉塊の活動を実態として感じられた。富の渇望。死からの逃避。生の悲哀。名声への妄執。〈新人類〉の一部になった人々が抱え込んでいた、そういう欲望が皮膜の下で渦巻いているみたいに、隆起と縮小を繰り返している。

 膨らみ、うねり。うねり、膨らむ。万能の力と万感の想いが内側でせめぎあう肉塊は、それだけだった。ぼくが近づくことに、〈新人類〉は何の抵抗も見せない。肉体がうねり、膨張を続けながら、うねる。ヘンリーが……親父が遺した言葉のように、人々がそれぞれ願いを抱き、内に秘める力を持っているというのなら、膨張の度に、肉塊は新たな力と欲望を獲得しているはずなのに、肉塊は空間の亀裂を覗くこともしなければ、膨らみ続けることも止められない。ここでないどこかなら、満たされない想いを満たしてくれると信じながら、旅立つための力を蓄え続けている。自らが見出した新世界への第一歩を踏み込む、その決心が着くまで。あるいは、その決心をもった英雄的意識が自分の中に取り込まれ、身体の内で蠢く幾億の魂を扇動してくれるそのときを待っている。

 未知への挑戦。それは、自分の力が通用するかどうかも解からない世界に飛び込むってこと。ムスタファ自身にその度胸があったんだとしても、彼が自分の駒として利用してきた人たちによって、自分の脚を引っ張られている。

 ムスタファは、自ら取り込んだ民衆の意思を統率できなかったのか。それとも、自分とは異なる人生に憧れを抱いた彼ですら、自分が築き上げてきた地位や富に未練があり、いざ変革のチャンスを前に、それらを手放すことに恐れを感じてしまったのか。本当のところは解からない。まだ自分の力で築き上げたと胸を張れるものが一つもない今のぼくには、想像もできないことだ。

 ぼくは〈新人類〉の額に着地した。ずり落ちるなんて間抜けは演じない。

「それはもう昔の話だ、ムスタファ。幾つにも分かれたぼくたちの中には心が芽生えて、それを育んできた。〈前人類〉として在り続けていたら、決して持つことができなかった輝きの彩りだ。その気があれば、色の一つ一つを強く澄んだ輝きにしていける。それをお前の道連れにはできない」

 ぼくは背負っていた降下装置を脱ぎ捨て、抱えていた替えの降下装置を背負い、ムスタファの〈キューブ〉に触れた。強い発光が始まった。ジャックのヘリがぼくたちの側を飛ぶ。下腹部の機関銃は、ロケットの鼻先に装着しても鮮明な撮影ができる高精度ブレ補正機能を備えたカメラに換装されている。

 カメラが補足した光はモニターを通じて、ニーナを照らす。ジャックセレクションのミュージックが鳴る。ニーナはマイクを構えた。

 そのとき世界中に響いたニーナの歌声は、

 世界の破滅を予感させるに相応しい、

 およそ人間の声とは思えぬ、

 凄惨な音色だった。

「ぶっ壊れた! 混沌だ! ハイエンド機だぞ。それが一発で音を上げた! 流石はサムが見込んだ女だ!」

〈新人類〉が自壊を始めた大空に、ジャックの笑い声が轟いた。

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