第28話

 そこは、高層ビルの区画されたフロアで収容されるみたいに積み重なって暮らすぼくたちからしてみれば、時代錯誤のような場所だった。広くなだらかな緑地帯で、牛や羊が牧草を食んでいる。大部分が自然に委ねられ、人間のためにあるのは、木造の小屋と納屋だけ。しばらく誰にも手入れされていなかったのだろう。屋根は崩れ窓の縁には蜘蛛巣が張っている。これならムスタファは見向きもしないだろうな。外見からでは、金目のものがあるとは思えない。

「ニーナは潔癖症?」

「別に」と口では言うが、腰が引けている。

 納屋の奥。古臭いトランクの中に、それはあった。ぼくもニーナもトランクを前にして固唾を呑んだ。

「変な虫とか湧かないでしょうね」

「〈キューブ〉があるかどうかを心配しろよ」

 ゆっくり蓋を開けると、淡く青白い光が漏れ出すと共に、夥しい数の脚を持った虫が這い出てきた。ニーナは悲鳴を挙げるし、ぼくは引っ繰り返りそうになった。

「と、とにかく」虫が消えてった暗がりを警戒しながら言う。「目当てのものは有ったらしい」

 トランクの中には〈キューブ〉と封筒が一枚入っていた。

「提案なんだけど」ニーナは引き攣った顔で言う。「中身は車の中で確かめない?」

 ぼくはそれに頷き、また得体の知れない何かと遭遇する前に、ぼくたちはそそくさと納屋から引き返した。

 ニーナは〈キューブ〉を弄繰り回し、ぼくは封筒に入っていた数枚の手紙を開いた。空になったトランクは、ドックの玩具になって齧られている。文面は鞄の由来、苦労話、それから自分は何のために生きてきたのかってこと。どうしてぼくに託すと決めたのか。遺言ってやつだ。

 例えば、これが葬式の直後だったら。ぼくは父の言葉が胸に深く染み入り、涙の一つも流したかもしれない。

 例えば、これが家を飛び出した直後のことだったら。生きる上での指針として、ぼくは父の言葉を頭に強く刻んだことだろう。

 状況は深刻だ。ムスタファが造り出した〈新人類〉とやらは、日増しに大きくなっている。あの場にいながら、世界中の人々を吸収しているそうだ。メディア王ならではの芸当だってニーナは言っていた。テレビ中継だ。パラダイス地区の中心地に突如現れた〈新人類〉は大スクープとなり、〈キューブ〉の輝きと共に全世界に発信された。報道番組だけじゃない。コマーシャル。バラエティ。ドキュメンタリィ。ジャンルを問わず、あの輝きが番組を汚染している。テレビから流れるくそったれ番組に魅了された人たちは、〈新人類〉の血肉となってみんなで世界を崩壊させようとしていく。墓の下で骨と化して、呑気に安らかな眠りとやらを堪能している奴が何を言いたかったのかなんてことを考えている場合じゃない。大事なのは、今、このときだ。取り返しのつかない過去でも、先の見えない未来でもない。崩壊は、今、ここで始まってる。

――信じられないだろうが、この〈キューブ〉には願いを叶える力がある。

 ぼくは〈キューブ〉について言及している箇所を見つけた。

――かつては星を形作り、命を芽生えさせた力の結晶だった。何ができたというわけではない。何でもできた。隕石同士を一まとめにすることも、雨を降らすことも、何でもだ。あえて何かをする力と呼ぶならそれは「描く力」と呼ぶことになるかもしれない。白紙の上でペンを走らせるように、何を生み出すことも、書き加えることも自由だった。

「なあ」ぼくはニーナに手紙を見せる。「〈キューブ〉のこと、ニーナが言ってたことと書いてあることが少し違うんだけど」

 ニーナはぼくの脇から手紙を覗き込んだ。

――星を造った者の名を〈前人類〉と呼んでいる。〈キューブ〉は元々、彼の力か、もしくは道具だった。

 そこから続く話は、ニーナから聞いたものと大差ない。大きく違うのは分断されて〈キューブ〉と化した〈前人類〉の力とやらについての見解だ。

――別たれて一つ一つの力は弱まった。しかし、それは影響の度合いの話で、〈キューブ〉の力を制限しているのは、むしろそれを手にした者の意思に寄るところが大きい。〈キューブ〉は人の心を反映する。

「まあ、そう言われた方が納得できるけど」

 ぼくがそう漏らすと、「何が?」とニーナから返ってきた。

「モデルが他人を魅了する力を手に入れて、ボクサーが強靭になれる力を手に入れたことさ。それぞれの〈キューブ〉にできることが初めから決まっていたのなら、〈キューブ〉を手にしたこと以上の幸運だ」

 ニーナは何も言わず、ただ〈キューブ〉を眺めている。

「別に、その力を望んだわけを聞き出そうなんて気はないよ」

「……知ってる? 車窓を眺めるとつきまとってくるホログラム広告は、相手の名前を呼んで親しげに商品をアピールしてくるけれど、客に勧める商品を選ぶのに参照しているのは、個人の属性だけ。年齢とか性別とか金融記録とかね。だから、わたしが広告塔になってるバッグや香水なんかを勧めてくることもあるってわけ。巡り巡ってわたしがわたしに話すキャッチセールスを聞かされて、わたしが何て思うか解かる?」

 ニーナは運転席の窓を開けて外に叫んだ。

「誰に向かって言ってんのよ!」

 吹き込む風に煽られながら、ぼくは聞く。

「すっきりした?」

 ニーナは頷いた。

「罵倒も賛辞も、その裏にどんなものがあるのか解かんない。最初は見抜こうとした。本心が知りたかったの。どんな言葉を支えにするにも……反論の代わりに奮起するんだとしても、根差すところが何なのかを確かめたかった。だから、そればかりに気を取られていた時期もあったけど……人目を気にするってやつね。わたしは人目を気にし過ぎてた。だけど、そもそもわたしの仕事ってそうじゃない。どんな風に見られているかってことには敏感でいなくちゃいけないけど、どんな風に思われているかってことを心の拠り所にしていたら、すぐに道を踏み外す。図に乗るか、塞ぎ込むか。どちらにしろ、破滅よ」

「だから、〈キューブ〉で他人を思い通りに?」

「化粧みたいなものよ」

「君が化粧?」

「わたしを飾るためじゃないわ。化粧品のプロモーションのための化粧。必要に応じてイメージチェンジするためのね。外側だけ周りに合わせるの。中身を守るために」

「君が下地なら、中身が水道水でも化粧水だって信じるさ」

「そういうお世辞は要らない」

 ニーナは呟くように続けた。

「化けの皮が剥がれたら、臆病で優柔不断なただの小娘よ。自分の出世や儲けの武器になるって考える人たちは、それを見抜いていたから、わたしをメディアの前に担ぎ出した」

「何も見抜いちゃいないさ。特に、あんたの周りにいた連中はな」

 ニーナはぼくの方を向いた。ぼくは慌てて車外に視線を向ける。

「助ける必要のないぼくを助けた。それが本物のニーナじゃないか。スクリーンで見せる表情やインタビューで答えた話があんたの全てだって勘違いしている奴らのことなんて気にする必要はなかったんだ。ニーナは――」

 そこまで言って、ぼくは口が滑っていることを自覚した。

「その、ニーナは……多分、そのままで良かったんだ」

 魅力的だと言いかけたけど、下心があるみたいに思われるのは嫌だった。

「ぼくには良く知らないけど、モデルが楽な仕事じゃないことくらいは解かるさ。辛いことから踏み留まって競争に挑み続けられたのは〈キューブ〉じゃなくて、ニーナ自身の力だろう? 闘って、鍛え続けたなら、あとは踏ん反り返っていればいいんだ。あんたはそれで通用していたと思うし、闘い続けるあんたを蔑ろにするような世界なら、そこに留まってやる価値なんてない」

 ニーナは笑った。

「世界が終わろうとしているのに、転職を勧められるとは思わなかった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る