かつて人類は万能だった
第26話
寝床も仕事で使っていた車もない。ない、ない、ない、では、まず何を取り戻せばいいのかも解からない。手をつけるべきことを選び出すのを先送りにして、ぼくは一眠りすることにした。どうせ、酒でボケた頭で思いつくことなんて碌な事じゃないんだし。
積み上がる瓦礫。舗装の捲れた道路。輝きを絶やさなかった歩道の照明は割れて散乱している。そのどれもが、現実味を帯びていない。ヘンリーがぼくを家から追い出した日もそうだった。日常だったものを突然取り上げられて、見慣れぬ景色と、想定外の環境に置かれると、自分は夢の中にいるんじゃないかって思えてくる。これまでの日々が恋しくて、新しい生活を受け入れられないってわけ。
その夜は、酷く静かだった。壁も屋根もない野晒しなのに、酔っ払い同士の喧嘩も、車のクラクションも、パトカーのサイレンもない。生まれて初めて知るような静けさだ。時折そよぐ風と、遠くで水が流れる音しかない。どこかできっと、水道管が割れているのだろう。
気を逸らすことがないから、嫌でも自分の身に起こったことに気が向いてしまう。これからどうしたらいい。そういう風に悩むことはなかった。まだそういうときじゃない。どうしてこんなことになった。そうやって、現状をぼくは受け入れられずに、この悪夢から逃れる方法を探してる。〈キューブ〉の奪い合いなんか放っておいて、一目散に逃げるべきだったんだ。取り返しのつかないことを、頭の中で捏ね繰り回してる。
そうして涙を流しながら、ぼくは眠りに落ちていった。
ぼくの怠慢に呆れたのか、目を覚ますとドックの姿が消えていた。ぼくが眠っているのを見て、飼い主も帰った頃だと期待して確認に向かったのかもしれない。ぼくはぼくでやることがある。閃きがあったわけじゃない。ぼくに使命感を与えてくれたのは、腹の音だ。
スーパーの跡地を漁ったら、食料はすぐに見つかった。生鮮食品は野犬や鳥に食い散らかされていたものの、缶詰や瓶の容器に入ったものは手がつけられていない。ぼくにとってはありがたいことだけど、妙な話だ。辺りに人がいないのは、もう目ぼしいものなんてほとんど盗り尽くされたあとだからって思い込んでいたのに、まさか、みんな揃って行儀良く街を出て行ったっていうのか? いや、単に持ち出す間もなく批難せざるを得なかったってところか。
もしくは。缶詰を拾い集めていく。何かの拍子に、人が一斉に消えてしまった、とか。思い返せば、街が全壊するほどの何かが起こったというのに、道には血溜まり一つ見当たらなかった。
遠くから犬の鳴き声が近づいてくる。誰だと問わずとも、それはドックの声だ。
「呆れた。姿を消したと思ったら、こんなところで物漁りなんて」
ぼくは手を止め振り返った。毎度、毎度。何かの因縁にでも縛り付けられているとでもいうのだろうか。ドックを連れてそこに立っていたのは、ニーナ・モローだった。
「何? 驚いた顔なんかして」ニーナは言う。「本当に驚いているのはこっちの方よ」
「無事だったのか?」ぼくは拾っていた缶詰を放って、ニーナに詰め寄ったが、聞くべきことを間違えた。無事か? そんなの見れば解かるだろう。「ブレットは?」あいつのことなんかどうでもいい。
「どうしてこんなことになってる。ムスタファはどうなった? 〈キューブ〉は?」
「待って」ニーナはぼくの両肩を掴んで制止した。「それよりもまず聞かせて」
ニーナはぼくに冷ややかな視線を向けた。
「……もしかして、怒ってる?」
「これからする質問の答えによっては、爆発するかもしれない」
彼女を連れてきたドックは、ぼくが落とした缶詰を転がして遊び始めた。そうだ、そうだ。思い返せば、全ての始まりはこいつだ。災厄の使者か何かか。こいつは。
「街の被害がもっと大きくなる?」
ニーナはぼくの腹をぶん殴ってから言った。
「今までどこで何してたの?」
寝ていたなんて言ったら二発目が飛んできそうだから、そこは省いておこう。
「何って、一緒に下水処理場にいたじゃないか」
ニーナは眉を潜めた。確かに、ついさっきまでとは言い難いが。そんな顔をされるいわれもないだろう。
「〈追手〉に掴まれて、気づけばここだ」
ニーナはぼくを訝しんでる。何を疑われてるんだ?
ぼくは街を指す。
「あんたにはどうってことないことかもしれないが、ぼくはここで暮らしてたんだ。この、瓦礫の下で。それを放って戻ってこいとでも? 第一、ここから下水処理場までは二時間もかかる。車でだ。無事な車なんてこの辺りには一台もなかった。それに……それにぼくが戻って何になる?」
捲し立てるぼくに、ニーナは身を引いた。
「数時間前まで下水処理場にいたとか。それ、本気で言ってる?」
「……どういうことだ?」
「あなたが消えたあの日。……あれからもう、三ヶ月が経ってるの」
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