第8話
「ドックの背景には、闘いの歴史がある」
ブルーノのアジトを出発した車中で、ジョビーは爺さんに語り始めた。
「アメリカン・ピット・ブルテリアは闘犬として改良された品種だ。頑丈な身体と、相手に物怖じしないタフな気性。牙を剥き出しにして唸る姿は闘争の象徴になった」
正体不明でキレたらヤバい老人相手に、飼い犬の講釈を垂れ始めたぼくの友人は、ついに恐怖で気が触れてしまったんだろうか。「犬が好きらしいな」と切り出したのが爺さんからだとしても、だ。
「ドックの相手は今や犬じゃない。押しつけられた運命と誤解に抗う闘いだ」
こいつ、ぼくたちの命運が爺さんに握られているって解かってるのか?
「どこで手に入れた?」
「拾った……違うな。居座りついたんだ。捨て犬さ。逃げてきたのかもしれない」
「何にせよ、疫病神だな」ってぼくが茶化すと、ジョビーはぼくを指して「こいつもおれが拾ってやったんだ」と爺さんに言う。
「サム・ウィリアムズ。ウィリアムズか。奇遇だな」
「どこにでもある苗字だろう」
「どこにでも……そうだな。片や楽園(パラダイス)の父として慕われ、片や掃き溜めでチンピラ風情にこき使われている」
「大勢いるさ。ぼくみたいな奴らは。金持ち連中が知らない振りをしているだけだ」
ぼくは車窓を通り抜ける景色を眺めていた。とはいえ、車がどこを走っていて、どこに向かっているのかはまるで見当がつかない。窓に映された景色は『単純で変わり映えのない通勤路を彩ろう』と謳って販売された背景データの再生だ。現実の車外の状況を把握しているのは、自動運転装置と、助手席に座っている爺さんのボディガードだけ。
車が停まり、ジョビーの方のドアが開く。車窓の映像が消えて、見覚えのある景色が現れる。ぼくたちの家がある通りだ。
「君は先に帰っていい。彼には、もう少し付き合ってもらう」
ジョビーはぼくを見た。
「酷い目には合わされないさ。爺さんにそうするつもりがあるなら、そもそもぼくたちを助けてないだろう?」
渋々、車を降りたジョビーは、またぼくの方を振り返った。
「用事が済んだらすぐに解放する」
「ほら、爺さんもこう言ってる」
「……解かったよ」それから、ジョビーは爺さんに言った。「良ければ、こいつを病院に連れて行ってくれよ。せめて、あんたたちの用事が済んだあとに」
「もちろん。約束しよう」
車のドアが閉まると、再び車窓の映像が切り替わった。今度は……美術館? 両脇に贅沢な装飾の額縁が並ぶレッドカーペットの上を、車が走る。絵の由来は知らないが、宗教画らしい。描かれた場面の中心となる人物はみんな、後光のような輝きを背負ってる。海を切り開く賢人の絵。山を押して平地を拡げる巨人の絵。天上の光と交信して授かった知恵を共有する伝道者。そういう者たちの活躍が描かれている脇を、車は高速で走り抜ける。
「ニーナ・モローに一本取られたそうだな」
「最近のモデルっていうのは、麻酔銃で狙われる危険と隣り合わせで、武器の扱いに慣れてなければ務まらない仕事なのか?」
「舞台の上で気取るにも覚悟がいるんだろう」
「……彼女の〈キューブ〉は返さざるを得なかった。ブルーノに話した通りだ」
「知っている。わたしの要件はそれ以外だ。気がかりなのは……宇宙人の口車に乗ってみたものの、肝心なのは今日のドライブが無駄足になるかどうかということだ」
「ジャックのことか?」
「そういう名前か、あれは。意外にありきたりだな」
「さあね。ぼくはあいつが本当に男かどうかも解かってない。何もかもが自称だ」
ぼくは溜め息を吐く。
「だけど、あいつは言うんだ。人間ってそういうもんだろう? って。自分が何者であるかを決めるのは戸籍でもマーケティング情報でもない。全ては自覚だ」
「狂人の発想だな」
「あいつに言わせれば、狂っているのは世の中の方らしい」
「よくも、ああいう手合いと付き合える」
「あいつがあんたにどんな話をしたのかは知らない」ぼくはニーナ誘拐計画の一端を話す。「――そして、アンソニーの懐からくすねた〈キューブ〉は、クラブのローディに、着替えの服と一緒に渡した」
「どうしてブルーノに黙っていた?」
「弁えているからさ」
「上出来だ」
「褒めてくれた礼に情報だ。ニーナもアンソニーが〈キューブ〉を持ってるって知っているみたいだった」
「ほう?」
「……あんたもなんだろう?」爺さんは答えない。ぼくは質問を変えることにした。「一体、何なんだ? 〈キューブ〉って」
「知らぬ振りか?」
「どうして、ぼくが知っていると思うんだ?」
「手際の良さに感心したのだと受け取ってくれ」爺さんは微笑みながら胸元に手を突っ込んだ。「――それで、報酬の話だが」
「いい。あんたから金は取らない。ぼくたちはあんたらと違って多くを求めないんだ。これに懲りてジョビーがもっと真剣に犬を躾けるようになってくれたらって思うだけだ」
ブルーノに負わされた怪我の慰謝料くらいは払わせようっていう魂胆はあった。だけどそれは、爺さんがブルーノの頭をぶち抜くまでの話だ。こいつは同義も価値も、何もかもがぼくたちとは基準が異なる世界の住人だ。たった今、胸元に入れられた爺さんの手が引き出そうとしているのが、財布なのか銃なのか。ぼくには、それさえ解からない。こういう奴とは、早々に縁を切るに限る。
「随分謙虚じゃないか」
「ただし、品物の引渡しは無事にぼくたちが家へ帰ってからだ。それから、あんたは〈キューブ〉を手にしたら、金輪際ぼくたちを無視してくれ。ぼくたちも、この数日のことはきれいさっぱり忘れる。お互い、以前通りに過ごすんだ」
爺さんは鼻で笑い、胸元に入れた手を膝に戻した。
「始めの提案は呑もう。しかし、後のは頷けないな」
「ぼくたちが仕返しするとでも思ってるのか?」
「そんなことを疑っているんじゃない。ただ、わたしは……部下を一人失った。これは無視できない損失だ」
「勘弁してくれ」
ぼくは思わず溜め息を漏らした。視線を窓に向ける。こいつは何を要求しようというのか。ぼくはどう答えたらいい? 雲を突き抜ける塔の絵が目に留まる。かつて神は人々を分断した。
「君には、もう一つ仕事を任せたい」
「まだただ働きをしろって?」
「確かに〈キューブ〉は手に入った。だが……それをやったのは君だ」
「そうだ。だから――」
「〈キューブ〉を手に入れたのは君で、犬の小僧ではない」
「小便をかけられたのだって、あんたじゃないだろう。それに……そう、役割分担だ。ジョビーがいなければ、ぼくはニーナにもアンソニーにも近づけなかった」
「違うな」爺さんは言う。「あの小僧やブルーノの手下を使わなくても、君ならやれた。立場が逆ならどうだ? 君が取り巻きを陽動し、彼がニーナに近づいていたら、あのビルから逃げ出すことすらままならないはずだ。君もそれが解かっていたから、他人の犬の後始末を引き受けたんじゃないのかね」
「他人じゃない。親友だ。仲間だから一緒に問題を解決した」
「勘違いしてもらっては困るが、これは義務や罰則ではない」爺さんは言う。「ビジネスチャンスだと捉えてくれ」
「ビジネスチャンス?」
「そうだ。次の仕事にかかっているのは、君の友人の命だけじゃない。五万ドル。前金で払おう。成功したら更に十万ドル。それから、パラダイス地区に家をやる。広くはないが、今の家よりはマシだろう。それから――」
「待ってくれ。どうしてそこまでしてぼくに仕事をやらせたい?」
「言っただろう。わたしは君に感心したんだよ。君の偉業の、その正体に興味があるんだ」
「買い被り過ぎだ」
「わたしは、そうは思わんよ」
ぼくが返事を躊躇っていると、爺さんが話を続けた。
「いいか。サム・ウィリアムズ。人生を好転させるチャンスというものが誰の前にも訪れる。多くの者は変化を恐れ、可能性を疑い、自らそれをふいにす
るが、君は愚か者たちとは違う。注意深さを困難から逃れるためではなく、栄光の獲得のために使えるはずだ」
ぼくは更に少し考えて、溜め息を吐いてから引き受けることを決心した。
「話を進める前に、これからぼくは誰のために仕事をするのか、はっきりさせてくれ。あんた何者だ?」
「この町そのものだ」
それなりの地位にいるのは想像できるけど……。
「そりゃあ、また随分と大きく出たな」
「見栄を張ってるわけじゃない」
丁度、爺さんの言葉と共に車が止まり、後部座席のドアが自動で開いた。座席に腰かけたまま爺さんは、杖の先で道路を叩く。すると、路地に響いたその音と共に、付近の明かりが一斉に消灯した。爺さんの車のヘッドライトと、室内灯。それから、開いたドアの正面にある二階建ての小さな建物の窓。灯る明かりはそれだけで、街灯も広告看板も、電光案内も……遠くに見える塔のような庁舎さえも輝きを失い、街中が暗闇に支配された。
「口は悪いが、腕は完璧だ。わたしの紹介だと言え」
車を降りたぼくが戸惑っている様子を見て、爺さんは「病院だ」と付け加えた。
「病院だ。その腕では仕事にならんだろう」
ぼくが唯一灯りのついている建物の方を向くと、車のドアが閉まった。爺さんの車が出発すると、その軌跡をなぞるように街灯が点灯し、次第に全ての照明が復旧した。
「長くないね。半年も生きられたら、十分。十分」
バイオなんとかっていう、包帯状の治癒機能促進剤をぼくの腕に巻きつけながら、東洋訛りの医者は言った。
「爺さん。病気。こっそり治そうとしてる。ヤバい薬。わたし売ってる」
「薬か。見た目の割に元気だと思ったら……」
「生きてる人間連れてくるの珍しい。大体死んでる。ムスタファにとって、あんた特別」
ムスタファ。それが爺さんの名前か。
「死人を医者に? 魔術でも使って蘇らせるつもりか?」
医者は治療部屋の奥の部屋を指した。大型の……ミキサー?
「ムスタファが持ってきた死体、ミンチにするよ。わたし、それ、肉屋に売る。ミンチにしない肉も買う肉屋いるけど」
その光景が頭を過って目がミキサーから離れない。これはムスタファ流の回りくどい脅しか?
「あんたも入る?」
「入らない」
治療が終わると、医者はぼくに薬と水の入ったコップを手渡した。
「飲む。痛み止まる」
「痛み止め?」
ぼくは薬を口に含み、コップを煽った。
「違う」薬はぼくの喉を通り抜けたあと。「睡眠薬」
「は?」直後、ぼくの身体は弛緩し、医者に抱きかかえられる。
「この病院。場所、秘密。ムスタファの命令。知った奴。生きたまま返せない」
逃げなければ、と思ったが、思うだけで身体は全くいうこと聞かず、ぼくの意識は遠退いていった。再び目を覚ますと、そこは自分のアパートで、ぼくはベッドの上に寝かされていた。月明かりが床に落ち、道を挟んだ向こうのビルにかけられたネオン管の紫色の明かりが、ぼくのベッドを照らす。なんてことはない。ただの誤解だ。言葉が不自由な医者は外国人で「意識」って単語を知らないから「生きる」って単語を代用したんだろう。
ぼくはジョビーに無事だってメールしながら考える。
「先が短い、ねえ……」
だとしたら、余生を楽しめばいいものを、なんだってこの期に及んで宝石(〈キューブ〉)なんかに拘るんだ。口座の額面を増やすのが生きがいだとか?
メールを送ったついでに、ぼくは直近のネットニュースの記事を漁った。パーティ会場で繰り広げられた騒動。交通事故。郊外の一軒家の地下室で見つかった、射殺されたマフィアの死体。それぞれ度合いはどうあれ世間を騒がせているらしいものの、ぼくやジョビーに繋がる情報は広まっていないようだった。
ぼくは冷蔵庫からビールの缶を取り出し、窓辺でそれを煽った。階下でオンボロの車が爆音と共に猛スピードで走り去り、酔っ払いが文句を叫んでる。束の間の日常を取り戻した気がした。……ろくでもない日常を。
一息吐くと、全てが夢か、遥か昔の出来事のように思えたが、日付変わって前日に起こったという停電騒ぎの記事を見て、ぼくは自分が直面している現実に引き戻された。この日起こった……ムスタファとかいう爺さんが起こしたあの停電は、この街だけに限ったものではなかった。
記事によれば、あの瞬間、爺さんの車とあの病院を除いた地球上全ての都市が、暗黒に支配されたそうだ。
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