第6話
そもそも、こんなことになったのは、この都市の構造と、ジョビーが飼っているアメリカン・ピット・ブルテリアのドックに原因がある。
暮らしはコンパクトに。利便性を突き詰めるうえでの鉄則だ。必需品を欠かすことなく手の届くところに収めようとして、都市は上下に発展していった。住居にレストラン。オフィスにスポーツジム。銀行、バー、それからサウナ。かつてはそれぞれが独立した店を構えていたものが、一つのビルや地下トンネルの中に埋まってるんだ。
今では雑多に積み上げられた都市構造も、かつての開発計画では業種単位で区画を設けようってつもりだったらしい。だけど、現実は役人や経済界の思惑通りにはいかず。大きな原因は都市開発計画の試算を遥かに上回った人口の過密化だ。人々の生活圏が狭まったということは、商品やサービスの流通が行き届く範囲も限られるってこと。まともな暮らしがしたかったら、隙間に潜り込んででも都市で暮らすしかない。だから、年月を重ねるに連れて、当初計画された都市の理想形なんてものは忘れられ、建設用地に成り得る区画が見つかると、増え過ぎた人口の埋め合わせをするみたいに、居住棟やら商店が節操なく建てられた。
汚水処理施設の隣に移民や低所得者向けの集合住宅が建ち並び、廃棄された汚染物質の影響で入居者が不調を訴えたために公立の病院が汚水処理施設に併設される。こんな混沌は一世紀前を生きた人が見たら、冗談のように思えたことだろう。
ざまあみろ。ヘンリー・ウィリアムズ。
そんなわけで、この町は犬を散歩させるのに向かない。主にストレスは人の方にかかってくる。空気は悪いし、景観だってこう建物に囲まれては変わり映えがないから、気晴らしにもならない。大通りはどの時間も人の行き来が激しくて、リードを引っ張っている奴は邪魔者扱いだ。市民の身勝手で杜撰な住宅設計に、高所得者用居住区から町を見下ろす開発担当者は苛立っているだろうけれど、こっちだってこんな滅茶苦茶な環境に置かれてうんざりだ。
都市開発も市民の移住も、幸福な明日ってやつを夢見て始めたんだろうに、日々はライフプランの斜め下を滑空していく。人々は不満ばかりを募らせていて、犬だけが自由を謳歌していた。躾のなっていないドックは人目を憚らずゴミ捨て場で見つけた残飯を漁り、気の向くままに道を行き、所構わず尿を撒き散らす。ジョビーはそれを哲学的理念に基く行動選択だと思っていた。ぼくはただの馬鹿犬だって思ってる。
「犬は人に飼われることで、活路を見つけた。野生を、そして、自由を捨てて生存競争を生き抜いたんだ。だけど、犬の物語はそこで終わりじゃない。下克上だ。遥か昔からの友情を演じ続けながら、遂に犬は実際的な主従の逆転を実現した」
犬のサクセスストーリーなんて全く興味はなかったけれど、付き合いの良いぼくは、ジョビーに続きを話すよう促した。
「身の回りの世話は全部人間の仕事だ。対して、犬の方は? 人間が狩りを止めて、家の守りも機械に任せてからは、犬の責務といったら愛想を振り撒くくらいのもんだろう?」
ジョビーが掲げる飼い犬侵略論は、当の提唱者が自分の犬に隷属化しているってところで一定の説得力を持っている。ドックとジョビーは、銃を扱うような仕事のとき以外は片時も離れない。バーで酒を飲んでいるときだって、二人を隔てているのは、店のドア一枚だけ。
ある日のこと。まだ日も明けてないっていうのに、ドックはジョビーを叩き起こして、散歩に連れ出した。空調機の室外機が唸る細い裏路地。ドックは排気口から噴出す風を浴びるのが好きだった。耳に吹き込み、背を撫でて、股下をくすぐっていく。ドックはもよおし、裏路地の先にある橋から下を流れる下水道に向けて尿を垂らす。
そこまではいつもの散歩だった。
いつもと違ったのは、ブルーノ・コロシモが商談でその下にいたってこと。
金融機関が保有する信用情報を基に、市民の区画の行き来を制限するゲートが市内各所に建てられたおかげで、ブルーノ率いるコロシモ・ファミリーはゲートの監視を誤魔化す生体偽装パスの販売っていう新規事業を開拓できた。山間部や特定の土地に定住することを拒んだ移動民族みたいな、経済活動の記録が生活の枷にならないような人たちから口座を買い取り、信用情報を育て、発行された生体パスを〈チケット〉と称して必要な顧客に売っている。もちろん、生体パスの偽装は違法だ。ましてや、それを売るなんて。役人連中は都市開発が計画通りにいかなかったのは、抜け道を作って市民の整理を妨げるブルーノのような連中のせいだと責任を押しつけて、彼らのことを追っている。だからブルーノは人目を避けて取引を進める必要があったし、そういう事情があったから、取引相手と船上にいたブルーノは、眼球に貼り付けて使うフィルム状の〈チケット〉を手にしたままアンモニア臭のする生温いシャワーを浴びることになった。
「近々、大金が舞い込む仕事がある」
ジョビーをボコボコにしたあと、ブルーノはそう言った。自分たちの代わりに一週間後の夜に行われるパーティで、ニーナ・モローの首から〈キューブ〉を奪ってくれば、犬の粗相は水に流してやる。そういう話だ。
ニーナのお宝は、きっと相当な額になるっていうのがジョビーの見立てだ。
「〈キューブ〉の話をすると決まってブルーノは鼻の穴を膨らませてた。本人は興奮を隠しているつもりみたいだったがな」
金が目当てか、金で買える地位が目当てか。ともかく、ブルーノが単純なおかげで、ぼくの友人の命は助かったものの、問題は犬の糞尿の後始末よりも拡大した。
「だから、そんな犬、棄てちまえって言ったんだ」
ブルーノに小便を引っかける前から、ドックはぼくの平穏を脅かす敵だった。留守を狙ってぼくの部屋に上がっては、冷蔵庫の中を食い散らかしたり(しかも、ドアは開けっ放し!)、ガレージの中で液体(これも、きっと小便)を撒き散らして電動機具をショートさせたり。おまけに、顔を合わせりゃ必ず牙を剥き出しにしてぼくを吠え立てる。互いに避ければ衝突も起こらないと思いたいが、家を離れる用事がある度にジョビーはこいつの世話をぼくに押しつけてくるもんだから、日々が闘争の繰り返しだ。尻を噛まれながら町中を這いずる散歩が他のどこにある?
「ある意味で、これはチャンスだ」
鼻息荒く、ジョビーは言った。意見の相違だって思った。ぼくが考えていたのは馬鹿犬とお別れする好機だってこと。
「お前の頭もアンモニアの匂いでおかしくなったか?」
「真面目な話だ。確かに、警戒の厳しい金持ちの縄張りから、堂々とお宝を盗み出せっていうのは、無謀な話かもしれない」
「かもじゃない。無謀だ」
「だからこそ挑むんだ。こんな仕事が舞い込む機会、他にあるか? 場末で燻っているおれたちに成功を期待する奴がどれだけいる? おれたちの器を証
明するんだよ」
「命を張るほどのことだとは思えないね」
「そう言うのなら、お前はどこに命を賭けるつもりだ。酔っ払いと喧嘩か? 速度超過の取締りと競争か?」
「勝算は? 考えはあるんだろうな」
聞くと、ジョビーは踏ん反り返った。
「ない」
呆れたぼくは、諸悪の根源に視線を移す。無茶なことを言う飼い主を尻目に、ドックは大きな欠伸をして無関係を装っていた。
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