第2話 さあ、扉を開けて
何かから、離されたような、体が軽くなったような、奇妙な感覚がした。
そんなのも一瞬の間で、一直線に、地面へと体が落ちていく。
ああーーこれは、夢だ。
「ーーーーー」
未、香ー??
夜中に私は飛び起きた。
「はっ…はっ……ゆ、め…?」
着ているTシャツは、汗で湿っている。
現実は、夢の中よりも体が重く感じた。薄暗い部屋は目の焦点が合わず、ぼやけて見えた。カレンダーを目だけで見つめる。
私が消えて、既に3日が経った。
クラスメイト、先生、未香、家族。この世界の人々全てが、私のことを忘れてしまった。
3日での収穫といえば、私のことを認識できない様子ぐらいである。
たとえば、私がクラスメイトの消しゴムを持ち上げる。クラスメイトに見えた消しゴムは、浮いているわけでもなく、ただそこに変わらず存在しているということになるらしい。私が消しゴムを使ったとして、クラスメイトには、消しゴムは変わらずそこにあると感じる。つまり、私がこの世界に干渉しても、その干渉さえも、なかったことになってしまう、ということである。
私の小さな頭では、これぐらいしか分からないし、そもそもなぜこんな状況になっているのかなんて、想像さえも及ばない。
そして、私には、この状況を打開する術を考える気力さえもない。もう、いいか。
そんな気持ちだからだ。
とりあえず制服を着て、部屋を出る。
家族はまだ、眠っているらしい。
お母さん、お父さん。
2人は、私のことは勿論、私の部屋さえも、物置のように思っているらしい。
最初はそのことに、膝から崩れ落ちるぐらい
ショックだったけれど、もう、諦め始めている。食べ物とかは普通に食べれるし、死ぬ事もない。
「…行ってきます。」
返事は返ってこない。そのことに、もう絶望することはなかった。だって。
もう、これ以上ないほど、絶望してるもの。
皮肉のような笑みを残して、ドアを閉めた。
「ねー姫ー」
「レノ。どうかした?」
「暇」
ちょっと学校見に行ってみるーとか言い出して出掛けて帰ってきたレノがそう言うから、
「久しぶりにこっちに来たんだから、色々見に行けばいいんじゃないの」
「だーってさ、えーと、結名だっけ、あの子の学校行ってみたけど、授業が難しすぎて、何言ってるか分かんないんだからつまんないに決まってるじゃん」
「レノが行きたかったから行ったんでしょ」
ずっと無表情で返してくる姫に、全く傷ついた様子もなくレノが肩をすくめる。
「大体さ、結名もこっち側の人間でしょ?」
「僕だって、そんなことは知ってるよ」
「じゃあ、何で?」
「面白いから。」
性格悪いな、という心の声を込めた溜息は、
『仲間』以外に知られることはないけれど。
夜明け前の街は、恐ろしいほどの静けさで、普段は人の通りが多い交差点も、人の気配さえなく、時が止まったかのようだった。
「……」
私は、消えてしまったという事実に、少しだけショックを受けて、少しだけほっとした。
こんな世界、私は好きにはなれないから。
それと。
虚無。
もう、私には、生きる意味がない。
これからーーどうしようか。
「ーこんにちは、結名。」
私を呼ぶ声が聞こえた。
私は、消えたはずじゃ……
瞬きをするような、ほんの刹那に。
「いや、はじめましての方がいいかな」
私の目の前に幼い少女と少年が立っていた。
「え」
まるではじめからそこにいたかのように何の空気の乱れもなく、そこに立つ2人。
黒髪の少女の言葉に反応できずにいると、
「あれ、どうかした?」
少女が首をかしげると、今まで何も言っていなかった少年の方が溜息をつく。
「あのね姫。皆が皆会里みたいに神経が図太くないんだから、急に僕らが現れたらそりゃ驚くでしょ」
「え、そういうものなの」
「そういうもんなの」
呆れたように少年が半眼で少女を見る。
「あ、あなたたちは…」
呆気にとられて呟く。
「あ、そうだった、そっちが先だった。
僕はレノ。レノって呼んで。」
「僕は黒雪姫。姫って呼ばれてる。」
レノはほんの少し微笑みの気配を浮かべて、姫は全くの感情も含まない無表情で言った。
どちらも人形のように端正な顔立ちをしているためか、レノの微笑みも、姫の無表情も、
どちらも華があるように感じる。
「えと…色々突っ込みどころがあるんだけど…いい…?」
恐る恐る言うと、2人は頷く。
「まず、レノは、名字は無いの?…日本人…では、ないよね?」
「あー色々あって日本に来たんだ。名字は…えーと、何だったっけ。姫、覚えてる?」
「レノさ、本人さえ覚えてないことを、ただでさえ記憶力悪い僕が覚えてると思う?」
「…そうだったね。ま、ないとおもってくれればいいよ、結名。」
「…なんで、私の名前…」
ああ、と2人は顔を見合わせ、ほんの一瞬視線だけで何かのやりとりを交わした後、代表するように姫が口を開いた。どこか淡々と。
「結名は、もうひとつ疑問に思ってることはない?」
…さっきから、気になっていた。
ーなんで、姫達には私が分かるのだろう。
「僕らも、結名と同じだよ。ーこの世界は、僕らのことも、知らない。」
え。
私と、同じ…?
「知ってると思うけど、この現象で、僕たちは知られなくなった。この現象を僕らでは、
『黒雪病』って呼んでる。」
黒雪。偶然だろうか。
姫と同じ、黒雪という名前ー
「黒雪病にかかった人達は、自分達だけの町を作って、生きようとした。僕らもそう。…僕らの町は、『黒雪町』って町なんだけどね。自慢じゃないけど、黒雪町は僕らで作ったんだよ。ね、レノ」
誇らしげで、けれども寂しそうな様子で言う姫に柔らかい苦笑を向けるレノ。なんとなく恋人のようだと感じるのは私だけだろうか。
「でもね、黒雪病にはもうひとつ特徴があるんだ。それはねーー」
会って初めて見た笑みだった。ほんの少しの哀しさと寂しさが滲んだ、眩いほどに、美しい笑みだった。
「異能力だよ」
……へ?
「僕らの中でごく稀に、なんらかの異能力を持つ人がでてくる。僕らはそれを覚者と呼ぶ。それが祝福なのかは知らないけどね。」
もう、なんというか…
次元の違う話を何個も聞いていて、頭が洪水にのまれたかのように混乱している。
「驚くのも無理はないよ。実際、僕も最初は驚いたよ。急に異能力に目覚めてたなんて、普通は驚くし。おかしいのは姫だよ。」
レノが肩をすくめて、姫に付け足す。
まさか。
「レノ、異能力持ってるの…!?」
驚く私とは別にレノは至極落ち着いている。
なんだろう。
この年齢不相応な落ち着きは。
「まあね。でも、あんまり大したことないよ?時を止める能力なんて。」
「それのどこが大したことないの!?」
思わず叫んでしまう。分かった、この2人は常識がないのだ、と頭の片隅が零した。
「僕だって、人の記憶を覗く能力だよ?全然大したことないよ。驚かないのもそのせい」
いや、2人とも凄いと思うけど…
「姫の能力、いいよね。」
「そっちの方が、移動に使えて便利だよ。」
互いの異能力を褒め合う謎の空間が発生した。いや、どっちも凄いから…
「ま、てな訳で、単刀直入に言うけど。」
レノがくるりとこちらを向く。
「僕らの町来ない?」
…はい?今、何て?
「僕らの町、覚者が多いんだよね。そっちの方が便利でしょ、結名にとっても。」
「…でも、私は…」
いいのだろうか。ここにいる理由さえもない、こんな私でも。
私の不安を感じとった姫が、優しく言った。
「…黒雪病はね、この世界に絶望することで発症するんだ。皆、君とおんなじ。」
ほんの少しの、寂しさを滲ませて。
「だから、そんな心配いらない。行こう。
だって君も、ここにいるって叫んでた。
それ以外に理由なんていらないでしょ?」
涙は流れなかった。
けど。
ああ。私の声は。
ここにいるって叫んだ声は。
ー届いたんだ、と。
ただそれだけ、言葉が零れた。
「ねえ、そういえば…私の名前とか、居場所とか、どうやって知ったの?」
「ま、それは後々ね」
「ええー…レノズルい…」
「結名、レノはこういう人だから…」
「姫には言われたくないんだけど」
少しずつ太陽の光を浴びて明るくなっていく交差点を進んで、ビルとビルの間の路地裏に入る。なんだか、ここだけ空気が違う気がする。なんでだろう?
進んだ先には1つのドアがあった。その前に立って、レノがドアノブを回す。
「よしーー帰ろうか」
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