潰れたひと

増田朋美

潰れたひと

潰れたひと

その日は、変に曇っていて、どんよりした日だった。そんな時だから、みんな部屋の中でぼんやりしてている人が多かった。

そんな中、富士駅は今日ものんびりと電車がやってきて、沢山の客が乗り降りしていくのだった。その中に一人の和服姿の男性が、足を引きずり引きずりやってくるのだった。ほかのお客さんに早く出てくれ、という顔をされながら、その人は、富士駅のホームへ降りて行った。

「失礼ですけど。」

その人は駅員に尋ねた。

「あの田子の浦というのは、どちらの方向でしょうか?」

「田子の浦ですか。ああえーと、歩いていくには一寸遠いんじゃないですかね。お客さん、その足じゃ、多分歩いてはいけませんよ。それなら、バスでいった方が、いいんじゃありませんか?」

駅員がそう返すと、その人は困った顔をした。

「あれ、バス乗り場はそっちなんですがね。」

駅員はそういうが、その人は、しかたないかという表情をしたまま、ゆっくり階段を上っていこうとするのである。

「馬鹿だなあ。お前。」

ふいに、老駅長が、その駅員にいった。

「バス乗り場を教えるんじゃなくて、車いすエレベーターまでつれていってやるほうが先だ。世のなかには、当たり前のことが出来ない人もいるんだぞ。誰でも階段を上れると考えてはいかん。」

駅員は、よくわからないという顔をする。

「そうじゃなくて、世のなかには出来ない人もいると考えなければならんぞ。あの人に、階段を上らせるのは、本当にたいへんだということを知って置かなければいかん。すぐに、車いすエレベーターへ案内して、其れから、タクシー乗り場まで連れて行ってやらないと。」

老駅長にそんなことをいわれて、若い駅員は、しかたないなあといいながら、階段を上っている例の男性に、車いすエレベーターは、こちらですと声をかける。全く、若い駅員というか若い人は、こういう障害者に免疫がないというか、冷たいなあと老駅長はため息をつくのだった。

駅のタクシー乗り場に行くと、その人は、障害者用のタクシーは、どうやって乗ったらいいのかと聞いた。いわゆるみんなのタクシーの事かと駅員は聞いたところ、みんなのタクシーという言い方は知らなかったらしい。一体この人、何処から来たのかなと、駅員は変な顔をする。

とりあえず、駅のまえにワンボックスタイプのタクシーは止まっていなかったので、駅員は、急いで岳南タクシーに電話して、ワンボックスタイプのタクシーを一台出してもらった。その人は、待っている間富士市内の街並みを、にこやかに見つめていた。こんな田舎町を楽しそうに見るなんて、この人よっぽど田舎から来たんだろうなと思いながら、駅員は、次の電車を迎えにホームへもどっていった。

数分後、身延線の電車が、身延線のホームにやってきた。丁度富士駅が終点というだけあって、大量の人間が、電車から吐き出されてきた。そして、老駅長さんと一緒に、車いすエレベーターからやってきたのは、ほかならぬ、影山杉三こと、杉ちゃんである。

「手伝ってくれてどうもありがとうな。いつも親切にしてもらっちゃって、本当に悪いねえ。」

何ていいながら杉三はタクシー乗り場にやってきた。

「あれえ、弁蔵さんじゃないか?」

と、杉三はそこに立っている男性に声をかける。まさしくその人は、先日奥大井を旅した時に泊った亀山旅館の経営者の一人である、亀山弁蔵さんその人なのだった。

「あれ、杉三さん。今日は。こんな所でお会いするとは思いませんでしたよ。」

弁蔵さんも、あれれという顔をして、杉三の方を見た。

「何処に行くつもりなんだ?」

「いや、それがですね。ちょっと用があって、こちらに来させてもらったのですが、まさかその杉三さんにお会いすることになるとは思いませんでした。本当は、お宅へ伺うつもりだったんです。」

弁蔵さんは相変わらずはにかみ屋だ。嬉しいのか恥ずかしいのか、よくわからない顔つきをする。

「丁度、障害者用のタクシーを待っていたんですが、なかなか来なくて困っていた所でした。」

「そうかい。ついでに僕も乗せて行ってくれや。で、僕のうちでお茶でもしようぜ。」

杉三はカラカラと笑った。

「わかりましたよ、僕もこの富士市は初めてですし、杉三さんに案内して貰った方がわかりやすい

でしょうから。」

「杉三さん何て改まった言い方しなくていいよ。杉ちゃんで。」

丁度そういった時、障害者用タクシー、言ってみればみんなのタクシーが、二人の前にやってきた。弁蔵さんが、この人も一緒に乗せてくれと言うと、運転手さんは、にこやかにわかりましたと言って、二人を乗せてくれた。

「えーと、僕の家は、バラ公園の近くなのでとりあえずそこに行ってください。」

「はい。わかりました。」

にこやかな顔をして、タクシーを動かす運転手。弁蔵さんは、一寸おどろいた顔をしていた。

少し走ると、バラ公園がみえてきた。櫻、バラ、アジサイなど、それぞれの季節ごとに花が楽しめるようになっている公園なのだが、近くに遊園地がオープンしてしまったため、なかなか人がやってこなくなってしまったと、運転手さんは解説した。何だか、奥大井の観光地に似てますね、と、弁蔵さんは笑った。

「はい、バラ公園を通り過ぎたら、暫く道なりに走ってください。あ、あった、あの家です。あの、平屋建ての。」

「はい、わかりました。」

杉三がそういうと、運転手はその平屋建ての家の前でタクシーを止めた。

「はい、こちらです。」

「運賃は割り勘で出しましょうか?」

と、弁蔵さんは言ったが杉三が、電子マネーで支払ってしまった。

「はいれや。」

と、杉三が、にこやかに笑って、玄関のドアを開けた。すみませんお邪魔しますと言って、中に入らせてもらう弁蔵さん。

「ああ、すみません。でも、素敵な家ですね。いろんな古いものが置いてある。」

弁蔵さんは、何だか懐かしいような顔をして、家の中を見渡した。古い桐たんすや、小さな鍼箱といった、昭和の始め位に流行っていたモノが、ところ狭しと置いてある。

「まあね。僕ががらくた屋さんで、見つけてきたモノなんだ。こういう物はなかなか需要があるわけではないから、すぐ買える。」

「そうですか。そんな便利なシステムがあるんですね。」

それでは、と、弁蔵さんは、羨ましそうにいった。

「こちらの奥大井では、なんでも、通信販売に頼らないと、購入できませんよ。でも、さっきの運転手さんといい、親切な駅長さんといい、富士はいい人が多いですね。」

「そこへ座れや。今から、カレーを作って食わしてあげるからな。」

杉三は、弁蔵さんを食堂の椅子に座らせた。

「いつも母ちゃんと二人暮らしだし、適当になにか食べるしかしないけど、客人が来たときは、しっかりと料理してもてなすのさ。」

杉三は、冷蔵庫からニンジンとジャガイモを出して、丁寧にたわしで洗い始めた。

「すごいですね。杉三さん、まるで板前なみに、料理が出来るじゃないですか。その手つきといい、何と言い、すごい速い。」

弁蔵さんが、そうほめるが、杉三は、良いってことよだけ言って、すぐにひき肉を炒め始めていた。

「ほい、特性のキーマカレー。之なら、煮込む時間もさほど必要ないカレーだよ。」

杉三は、カレーライスの乗った皿を、弁蔵さんの目の前に置いた。部屋はカレーの匂いでいっぱいになった。

「さあたべよ。」

と、杉三に渡されたスプーンを受け取って、いただきますと頭を下げて、カレーを口にする。と、

「おいしい!」

と、弁蔵さんが、思わず口にしたほど、カレーはおいしかった。

「いやあ、あり合わせで作ったカレーだけど、ごめんねエ。」

と、頭をかじりながら、そういう杉三。でも、このカレーは本当においしいカレーだった。

「いえ、そんなことありません。杉三さんって本当に料理が上手なんですね。本当に、感動的な料理でしたよ。」

と、カレーを食べながら、弁蔵さんはいった。

「それにしてもなんで又急に遠くの奥大井から、こっちに来ることにしたんだ?」

杉三に聞かれて、弁蔵さんは、ちょっと申し訳のなさそうな顔をして、うつむいた。

「あれれ、なにか言ってはいけない事でも聞いたかな?」

弁蔵さんは、いうべきか、其れともいわない方がいいのか、まよっていることを示す顔をしていた。

「いや、いわないというか、もうよく知られてしまっている事ですし、しかたないと思います。」

「知られているって何が?」

「あれれ、杉三さんは、テレビみないんですか?ほら、狐の帽子を被った男の通り魔事件が、ワイドショーでも、大体的に報道されたのはご存じありませんか?」

「知らないよ。この家にはテレビはない。持っててもしょうがないもん。」

弁蔵さんが、居間の中を見渡すと、確かにテレビというモノは設置されていない。それを見て、弁蔵さんは、又おどろくのである。

「徹底していますね。テレビのない家なんて初めてみました。何だかテレビのない時代にタイムスリップしたみたいだなあ。僕も、テレビはよく見ていましたが、あの事件が起きた後は、テレビなんて、ほとんどみなくなりました。もう、テレビのせいで、僕たちの存在が、全国に知られてしまったんですから。」

弁蔵さんはいった。たしかにテレビがあるせいで、様々なことを知ることが出来るのだが、其れは同時に知らなくてもいいことまで知るということになる。災害のようなことは、全国からボランティアが集まるきっかけになったりすることもあるので、積極的に報道されても良いという事もあることにはあるが、逆に、報道されて迷惑だという人も少なからずいる。

「あのテレビで報道されたせいで、うちの旅館は、宿泊されるかた以外の人も、来るようになってしまったんですよ。具体的には言いづらいのですが、、、。」

「ああ、いわなくてもいいよ。冷やかしとか、落書きなんかをする人間がやってきたという事だろう?まあ、テレビが何処にある建物なのかとか、大げさに報道しちゃうせいで。」

弁蔵がそういうと杉三はからからと笑う。

「ほれほれ。もうな、すごい嫌がらせがでて、やっていけなくなったって、正直にいいな。」

「杉三さんよくわかりますねそんな事。それに、通り魔をしたのが、知的障碍者の須田幹夫さんだった所が、人権団体にかぎつけられてしまって。妹が、須田さんに通り魔をしろと指示を出していたのが、人権団体から、すごい嫌がらせをさせられることになってしまったんですよ。」

なるほど。そういう事もあるんだろうが、本当の人権団体であれば、変な批判はしないはずだ。それが本当の人権というモノであると気が付かないからだ。

「で、あの時からずっと、僕も心配していたけど、みんな元気でやってるの?あ、そんなことないか。みなへなちょこで、だらっと生きているのか。」

と、杉三がまたにこやかにいった。たしかにそんな状態では、元気何て遠いむかしに捨ててしまったようなモノである。

「ええ、あの後、久子が捕まって、今、弁護士の先生と話しながら裁判の手続きをしています。でも、久子が捕まってから、弟がさらにおかしくなりましてね。何だか、人間というより、動物みたいになってしまって。勿論、それで旅館に戻しても、使い物にならないという事はわかりますよ、だけど、人間というものは、どうしても人がなくなると悲しくなるものでしょうかね。弟もそれがわかっていたどうかは不明ですが、弟は、病院の中で亡くなりました。お医者さんには、御気の毒でしたといわれたんですが、看護師たちには、これで良かったのではないかといわれました。返ってそのほうが楽なんじゃないかって。こういう精神がおかしな人と暮らすというのは、よほど鍛錬した人でないと、出来ないでしょうからって。」

弁蔵さんは、がっくりと肩を落とした。

「そうかあ。可哀そうな事をしたな。」

と、杉三はいった。

「ええ。おかげで、僕たちは人殺しの家族、障害者をそそのかして、悪い人間にさせてしまった悪人として、いろんな人に罵られて。栄蔵は繊細な男でしたからね。そういう人の悪口には、敏感だったから、余計に悪くしてしまいましてね。まあ、ああいう最期というのも、本当は予測してなかった事ですから。たしかにかわいそうな事をしました。栄蔵には申し訳ないと思います。」

申し訳なさそうに、頭を下げる弁蔵さんに、僕に謝られても困る、と杉三はにこやかにいった。それではいけないとも杉三は何も言わなかった。

「仕方ない事じゃないか。その時は、其れしか思いつかなかったんだから。きっと旅館の経営も苦しくて、切羽詰まっていたんだろうし。其れはしかたない事だよ。」

「そうですね。しかし、人が一人、亡くなっているわけですから、其れはどんな弁明をしても、通用しないでしょう。それに、なぜ、久子が栄蔵を襲わせたのかもまだはっきりしていなくて、僕たちも久子のことがよくわからないんです。同じ家族なのにね。」

「家族何て、そんなもんだよ。一番近くて遠い存在だよ。何か大事件がおきて、本人の問題がやっとわかったというケースはなんぼでもあるって、影浦さんもそういっていたよ。だから、わかんなくて当たり前だ位に思っていた方がいいと思うよ。」

「そうですね。杉三さん。僕たちは、亀山旅館を続けていこうという気持は共通していたんですが、そのやり方を、久子と僕たちの間で、すれ違ってしまったような、そんな事ですかね。今思ってみれば。なんで、もうちょっと、久子の気持にも気が付いて上げられなかったんだろうな。久子は、久子なりに、なにか考えていたと思うんです。僕たちが、もうちょっとあいつに歩み寄って上げられるような姿勢になれば、こんな事は怒らないかもしれないですね。今になったら、やりかたはいろいろ思い付くのに、その時はなんで思いつかなかったんだろう。本当に、ダメな事をしたなと思っています。僕も、久子も、母も。」

弁蔵さんは、しずかにそういうのだが、杉三は、にこやかに笑っているだけであった。

「すみません。杉三さん。なんでこんな事話したんだろう。今まで口に出した事なんて、一回もなかったんですよ。何で、こんな話してしまったんだろう。」

「いいえ、いいんだよ。それでいいじゃないか。人間、そういうもんさ。みんな過去にあったことをあの時、ああして置けば良かったとしゃべりながら生きているようなもんだ。それがおっきいかちっちゃいか。その二つだけだよ。」

「杉ちゃんってすごいですね。」

弁蔵さんは、思わずため息をつく。

「いいえ、そういう事は、誰でもあるもんさ。そういうこと、本当は、もっともっと他人にぶちまけてさ。生きていければそれでいいのに。そういう事は、しないんだよな。悪いことを乳繰り合っているだけじゃなくて、一緒に辛かったと言い合える世のなかになればいいのにねえ。僕は馬鹿だから。どうしてもそうなっちゃうのよ。おかげさまで、風来坊のまま生きていく事になるんでしょうけど。ま、其れもまた、またたのし、としてな。」

「そうですか。杉三さんありがとうございます。一寸、楽になったような気がしますよ。僕も、ずっと自分の中で泣き続けた事でしたが、案外吐き出してしまうと、楽になるものですね。」

杉三にそういわれて、弁蔵さんは、大きなため息をついた。

「杉三さん。ほかの人たちどうしているんですか。あの時、一緒にいた人たちです。水穂さんはどうしているでしょう?」

ふいにそう聞かれて、今度は杉三の方が面食らう。少し答えを考えて、

「それがなあ。」

とだけ言った。

「もう、だめかもしれないと、いわれていて。」

「そうですか。短期間のうちにそこまで。」

之には弁蔵さんもおどろいてしまった。

「もし、よろしかったら、水穂さんに会ってもらえないだろうか?」

ふいに杉三がそんな事を言い出した。弁蔵さんは、ええもちろんですといった。杉三も杉三で、是非会ってやってよと言って、すぐに会いにいく支度を始めた。どうやら杉三、何か魂胆でもあるらしい。弁蔵さんが会いに行くと言ったら、すぐににこやかになっている。

杉三に見せられた番号をダイヤルして、弁蔵さんがタクシーを呼び出し、すぐに二人は製鉄所へむかった。もう、杉三が読み書きできないのは、弁蔵さんも知っていたから、何の違和感もなく、タクシーを呼び出すことができた。

「じゃあ、お願いします。」

二人は、タクシーに乗せてもらって、製鉄所にむかった。もう出発した時には、日は落ち始めていて、周りは薄暗くなっていた。勿論今日は曇っていてどんよりした日だから、日の暮れるのが早いように見えてしまうのかもしれないけど。弁蔵さんは、富士市の観光名所について、杉三とおしゃべりをした。そういうところはさすが、観光業というか、もてなす達人なのかもしれなかった。

そうこうしているうちに二人は製鉄所についた。製鉄所の玄関前で降ろしてもらうと、弁蔵さんは、懐かしい建物だと言った。以前、改築する前の亀山旅館が、このような日本風の建物であったという。今は金儲けの為に、西洋風の建物にしてしまったのが、なんだかちょっとはずかしいなと思ってしまうほど、この製鉄所は立派な建物であると、弁蔵さんは誉めていた。

「そんなに、お世辞をいう必要もないよ。ここは、時代遅れとさえ言われているんだから。」

杉三が、懐かしそうに建物を眺めている弁蔵さんをからかった。

「では、中に入るか。おーい。今日は御客さんだ。ちょっと、来てくれないか。」

と、インターフォンのない入り口を開けて杉三がでかい声で言った。弁蔵さんはインターフォンがないなんて、本当に旅館みたいですねと驚く。

「おう、杉ちゃん来てくれたか。」

出迎えたのはブッチャーだった。

「ああ、今日はこちらのお客さんがおいでだよ。奥大井に旅行に行ったときに、お世話になった旅館の旦那さまが、水穂さんに会いに来たよ。」

杉三が、ブッチャーに、弁蔵さんを紹介すると、ブッチャーは、宜しくと言って頭を下げた。

「ありがとう御座います。いま、丁度晩御飯を食べ終わった所だったんだ。今日はなんだか、小康状態みたいでさ、咳き込むことも少なく、過ごしているよ。」

ブッチャーがそういうと、杉三は、ああそうか、とにこやかに笑った。

それでは、と二人は四畳半にむかっていく。

「さて、水穂さんはどうしているかな。」

杉三は、何の迷いもなく、四畳半のふすまを開けた。

「水穂さん。先日奥大井に行ったときに、お世話になった方が会いに来たそうです。薬飲んだばっかりでしょうが、ちょっとだけ目を覚ましてやってくれませんかね。」

ブッチャーは、そっと水穂の肩を叩いた。

ところが、水穂は目を覚まさない。

「おい、起きてくださいよ。」

ブッチャーはもう一回肩を叩くが、やっぱり目を覚まさなかった。

「あ、すみませんね。いつもの事なんです。もうね、睡眠薬が強烈なんだと思います。ご飯を食べたあとに飲んじゃうんですけどね。全く、強力過ぎて、困っちゃうんだな、これが。」

と言って、ブッチャーは頭をかじった。

「そうはいってもねえ。奥大井から人が来たということもあり、起こしてもらえない?」

杉三がそういうと、

「ほら、ちょっとだけでいいですから起きてやってください。」

ブッチャーは水穂の体をゆすった。これでやっと、気が付いてくれたらしく、ん、んと声を出して、やっと目を開けてくれた。

「水穂さん、ほら見てください。こないだ奥大井に行った時に、お世話になった旅館のご主人です。えーと名前は、亀山弁蔵さん。せっかく会いに来てくれたんですから、何か、一言言ってやってください。」

「いいえ、もうご主人という言い方はしないでください。うち、もうつぶれるって言われているんですから。もう、妹の久子も逮捕されてしまいましたし、そのショックで、弟の栄蔵も亡くなって。母も、弟が亡くなってからは、すっかり気を落としてしまって。もう家はめちゃくちゃですよ。かろうじて、近くの人が食事をしに来てくれるくらいですよ。うちを利用してくれるのは。」

ブッチャーの紹介に弁蔵さんはおもわず言った。もうお世話になったという言い方はやめてくれというような口ぶりだった。

「もう、この家は終わりなんですから。僕は、最後の利用者になってくれた、杉三さんたちに、お礼を言いに今回は来させてもらっただけの話ですよ。」

「そうなんですか。」

弱弱しい口調で水穂は返答した。それを聞いて、弁蔵さんは水穂さんも随分弱ってしまったという顔をした。

「すまんなあ。弁蔵さん。このとおり、今でこそ小康状態と言えるが、つい先日まで、ご飯なんか碌に食べれず、大変だっただよ。もうちょっとなあ、頑張ってくれればいいんだけど。まあ、ご覧の通り、毎日が大変な奴もいるんだよ。それを感知して、弁蔵さんも頑張ってくれや。」

杉三がいきなりそんなことを言い出した。弁蔵さんは、なんでいきなりそういうことがわかってしまうんだという、顔をする。

「僕は、こういうたとえを持ち出すのはあまり好きではないけどさ。でも、やっぱり、自分からこの世の中にさようならしてしまうというのは、ちょっと変だと思う。人間、生まれたからには生きてやるくらいの気持ちを持たなくちゃ。それが人間にできる唯一のことだからなあ。どんな辛いことがあってもな。」

「杉ちゃんすごいな。確かに、どんな宗教でも、自殺をやってもいいという宗教は絶対にないよねえ。」

ブッチャーが杉三の発言に同意した。弁蔵さんは何で自分の考えていたことがばれてしまったんだろうというかおをした。

「まあ確かに、妹さんも捕まっちゃったし、弟さんは亡くなって、お母さんは正気でなくなったら、大変だと思うよ。それはわかるっていう言い方も、たぶんいけないと思う。でもな、やっぱり人間だから、自らこの世の中とさようならしようと思ってはならん。それだけは、確かだと思うからな。」

「そうですか、確かにそれは図星です。ですけどね、杉三さん、ほかに解決のしようがありませんよ。もう、一度犯罪を犯した家は、一生立ち直れないで、悪い奴というレッテルを貼られて生きて行かなきゃなりませんもの。もう、周りが敵ばかりで、誰も味方になってくれる人もおらず、もう、死ぬしか楽になる方法もないんじゃないかとしか思えませんよ。それは、周りの人の態度を見れば、もう誰も助けてくれる人もいないわけですから。辛い気持ちを表現していいのは、普通の家として世間に認められた家だけです。できない家は徹底的にできなくさせられますからね。だったら、消えたっていいじゃありませんか。そう思いませんか?だって、誰にも利益になることを、もうできなくなってしまったんですよ。」

そういう弁蔵さんだったが、どこかで助けてほしいという思いもあるのだろうか。大きなため息をついて、涙を拭く。

「僕も一緒ですよ。そういう身分でした。そういうことが許されない階級だったんです。」

不意に、水穂にそんなことを言われて、弁蔵さんははっとした。

「許されない階級、ですか。そういえば、、、。」

「そういえば何だい?」

考え始めた弁蔵さんに杉三がちょっと野次を入れる。

「確かに、奥大井にもそういう人はいたような気がします。勿論、奥大井はリゾート地ですので、かなり昔に、その階級の人がいた地区は解体されたようですが、、、。でもまさか、」

「あ、そこから先はいうな。本人にそういうことを話されちゃ、水穂さんもかわいそうだぜ。」

「はい、それは俺からもお願いします。」

弁蔵さんが、結論を出しかけた時、杉ちゃんとブッチャーが相次いで発言した。確かにこういうことは、やたら発言しないほうがいいと、弁蔵さんも思った。

「わかりました。水穂さんがそういうことになっていたのは、誰にも言いません。」

「だろ?だから、もう、この世とさようならしようなんて思わないでさ、辛いけど、生きていこうと考えなおしてくれよ。確かにお前さんも愚痴を言いたくなったりすることもあるだろうけどよ。確かに言えることが許されないってのは、辛いよな。ただな、ここにいる水穂さんも、ものすごく辛かったんだってことは、忘れないでいてくれるか。世の中にはな、他にもそういう身分のやつらがいるってことも頭に入れておいてくれれば、ちっとは楽になってくれるんじゃないのか。」

杉三が、そういうと、弁蔵さんはちょっと涙をポロンとこぼして、何か考えていた様子であったが、それでもしっかり頷いた。

「わかりました、僕も、これ以上世の中にさようならしようとは思わないことにします。もし、またそう思ってしまいそうになったら、こうして他にも苦しんでいる人がいるんだなってことを、思い出すことにします。」

「うん、それでよし!人間、同じような奴がいるって確信することが、一番生きていく力になることを忘れないでくれよ。」

杉三がにこやかに言った。ブッチャーがついでに、

「ほら、水穂さんも、こうして仲間ができたんですから、辛い時には弁蔵さんのことを思いだして、頑張ってくださいよ。食べれないとか言わないで、ご飯を食べてくれませんか。」

と、水穂に言ったのだが、水穂は返事の代わりにもう力尽きて眠ってしまった。

「やれれ、これじゃあ、僕の演出は効果なしか。」

杉三がおもわず笑い出す。なんだ、結局僕のことは演出だったのかと一瞬だけおもった弁蔵さんだったが、水穂さんが、自分たちより低い身分とされた階級の出身者だったことがわかって、自分が恥ずかしくなった。自分より、彼は遥かに苦しい思いをしてきたと思うから。

「そうですね。僕も、頑張って、これからもやっていきますよ。」

弁蔵さんは、手拭いで涙を拭いた。

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潰れたひと 増田朋美 @masubuchi4996

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