第5話 風林火山に秘められたもの
其疾如風 其徐如林
侵略如火 難知如陰
不動如山 動如雷震 (孫子 軍争篇第七 その三)
「どう、韓信」
俺はその文字を何度も読み返した。そう、俺は
ほう、とため息をつく。
「この文字面がやけに格好いいな。俺の旗印にしたい位だ」
蒯通は自分が褒められたように満面の笑顔を浮かべた。
「でしょ。これは私たちマニアの間では『風林火山』と呼ばれているんだから」
……マニアって何だ。
「それより、風林火山は良いけれど、途中の『
蒯通は、意外な事を訊かれた、という表情になった。
「長いといえば、確かに長いよね。四文字でピタッと決める方が語呂が良いからじゃないの」
なるほど、こう云った謳い文句は見栄えが必要だ。
「すべての要素を入れるとなると、『風林火陰山震』か。わかりにくいな」
「そうでしょ」
特に『陰』が意味不明だ。
「おおっ」
俺は隠された意味に気付いた。そうだ、だから、この一節だけが世上、抹殺されているのだ。なんて事だ、これに気付いたのは俺が世界で最初じゃないのか。
「なに、その妙に嬉しそうな顔は」
蒯通はあからさまに眉をひそめた。
「聞いてくれるか、俺の説を!」
「いやよ。面倒くさい」
即座に断られた。
「蒯通先生ぇ~」
「わかったわよ。だから、そんな泣きそうな仔犬みたいな目で見るな」
さすが、俺の先生は優しい。
「これはだな。『如陰』が、『女陰』に通じることから、皆が口にするのを憚るようになったに違いないぞ」
どうだ、と胸をはる俺だった。
蒯通は、ぽかんと口を開けたままだった。
「あれ、分らないか? つまり女陰というのは、女のあそこの事だぞ。つまり、見るのには実に苦労が多いところだな。しかも、如陰という文字は、その女陰の間に、く、口を、押しつけているのだから、それはもう……」
そのあたりで俺は張り倒されていた。
蒯通が真っ赤になって怒っている。おかしいな、俺にしては真っ当な解釈だと思ったのに。
「あそこ、とか、女陰、とか、女子の前で何度も言うな、バカ! お前はいつもそんな事を考えているのか」
「え。そうだな。起きている時間の七割くらいは、女の事を考えているな」
「変態じゃないか……」
そうかな。俺くらいの年齢のやつは、大抵こうじゃないだろうか。
「だ、だったら……、その、韓信。お前」
蒯通は急におどおどした様子で、俺を見た。
「なんで、私に手を出さないんだ。……自分で言うのもなんだが、妙齢の女子がすぐ身近にいるんだぞ」
なぜ、と訊かれると、何故なんだろう。
強いて理由をあげるとすれば……。
「いい匂いがしないから、かな」
蒯通の顔が青ざめた。唇が震えている。
「いや、でも、お前くらいの女子って、もっとなんだか、花のような匂いがするじゃないか。蒯通って、何の匂いもしないから……」
ばん、と竹簡を床に叩きつけ、彼女は天幕を出て行った。
☆
そろそろ、ほとぼりが冷めたかと、蒯通の元を訪ねる。
彼女は身の回りの物を行李に詰めているところだった。
「どうしたんだ、蒯通。どこかへ行くのか」
「出て行くんだよ。
楚軍は現在、北方の
「俺が言った事を気にしているのか。だったら謝る」
蒯通は俺を見て、かすかに笑みを浮かべた。
「勿論それもあるけれどね。だけど、斉へ向かうには、ここらで道を東へ向けないといけないんだ。気にしないで韓信。私は商売に行くんだから」
「俺も一緒に行こう」
蒯通は迷った表情になった。
「そうだな。これは言っておいた方がいいかな」
ちょっと顔を貸して、と蒯通は手招きした。俺は身体をかがめる。
「項梁さまの一件は憶えているでしょ?」
楚軍の総帥、項梁が秦軍の奇襲を受けて戦死した事を言っているようだ。
「秦の章邯に項梁さまの動向を知らせたのは、私なの」
俺は、がっくりと膝をついた。
「な、なぜそんな事を」
「それは私が扱っている商品って、そういう『情報』なんだもの」
それなら当然の事だな。いやいや。
「おい、待て。それなら項梁に関する情報はどうやって知ったんだ?」
「教えてもらったのよ。いつも項梁や項羽の近くにいる人から」
そんな最高幹部に知り合いがいるのか、この女は。だったらその裏切り者は誰だ。これは、さすがに放っておけない一大事だ。
「誰って。あなたでしょ、韓信」
……そうだった。俺は項羽の身辺警護で、軍議の場にも居たんだった。
「そう云えば、色々と喋らされた気がします。蒯通先生」
身に覚えがあり過ぎた。怨むぞ、蒯通。
マズいぞこれは。項羽に知られたら車裂きの刑では済まない。
「もしかしたら項羽さんも気付いているのかな。今はまだ決戦を控えているから大丈夫かも知れないけど、早めに逃げ出した方がいいんじゃない?」
穿った見方をすれば、俺をつねに身近においているのは、監視のためと思えなくもない。項羽の意味ありげな視線が今更ながらに思い出される。
それに蒯通はああ言ったが、決戦前に敵の捕虜などが血祭りに上げられるのはよく有ることだ。俺がその犠牲者筆頭に擬せられているのは間違いなかった。
「じゃあね、韓信。また会えることを願っているから」
ささやくように言った蒯通は、身をかがめたままの俺の頬に口づけた。
俺は一人、取り残されたまま、頬に手をやった。
「あいつ。ちょっと良い匂いがした」
俺は呟いた。
☆
楚軍の行く手に黄色い大河が横たわっている。
これを越えれば、秦軍が待つ
「全軍、渡河の準備をせよ」
項羽は命じた。
「その後、天神地祇を祀る儀式を執り行うであろう」
参謀の笵増老人がしゃがれた大声で告げた。
俺にとって、事実上の死刑宣告だった。
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