第4話 兵は機動なり
「いいですか、韓信。『孫子・計篇』その三、兵は
うー、俺は頭を抱えて唸った。
(それにしても、よく口が回るよなぁ)
俺は蒯通の唇をぼーっ、と見ていた。
「つまり、いかにして敵を欺くか、という事なんだよ。分ってる?」
「ああ。まあ」
俺は曖昧に答えた。
「本当は勇敢なのに、わざと臆病な振りをしたり、とかね」
なるほど、それなら分る。
「俺がいつもやっている事ではないか」
以前、街のごろつき共に絡まれた時、蒯通の股をくぐろうとしたのもその一環だからな。さすが俺。知らずしらずの内に『孫子』を体得していたとは。
「あんたが、やりたかっただけでしょ。この変態!」
蒯通は思い出して真っ赤になっている。
「仰向けにくぐる必要がどこにあるのよ」
「いや、それは…男ならではの好奇心、かな」
蒯通の目がギラリと光った。
「よく聞きなさいよ。十万の兵を動かそうと思ったら、それ相応の補給が必要なの。一日に千金を費やして初めて戦ができるんだから」
「……はあ、千金ね。そりゃ大変だ」
俺は鼻血を押さえて、相づちを打つ。
言われてみりゃ当然だな。
「腹が減っては戦は出来ない、という訳だ」
「簡単に言えばそういう事だけど……兵糧の他にも、武器や馬具も常に補充が必要でしょう?」
「だから、戦は長引かせちゃいけない。戦の出費で国家財政が傾くことだってあるんだからね。つまりこの場合に限っては、拙速は巧遅に勝るんだ」
「そうか。だから『兵は機動』なんだな」
お、また俺は良い事を言ってしまった。
「で、次の項なんだけど」
蒯通は冷たい声で言った。
あの、俺の名言を無視しないで欲しい。
「一番いいのは、戦う前に勝敗を決する事です」
周辺国への外交交渉、敵対国内部への分裂工作。そういったものを積み上げて、軍を発する時には既に勝負が付いている状態まで持って行くのが最善なのだ。
「でも俺、将来は将軍志望だし。戦争がないと困るな」
蒯通は苦笑した。
「心配しなくても、こんな離れ業ができる君主は、まず居ないよ」
それなら安心だ。
「今は、王道ではなく覇道の時代だしね」
また難しい事をいう。
「まとめると、戦争をするうえで大事なことは、十分な補給と事前の工作ということだからね」
「はい、わかりました。蒯通先生」
彼女は満足げに頷いた。
☆
俺は日々、項羽の本陣で
この項羽という男、身長こそ俺より少し低いのだが、獰猛なまでに発達した上腕と引き締まった胴体を持っている。
どう見ても俺より強そうだ。
項梁を主将とするこの軍は、周辺の秦軍を捕捉しては粉砕していた。戦えば必ず勝ち、本陣が揺らぐ事など一度もなかった。
暇な俺は自然、妄想に浸ることになった。
妄想の中で俺は、十万の兵をもって、倍する敵を打ち破る。
かつてのように前進あるのみ、ではなかった。現実の地形に即した配置を考え、敵の出方に応じ、柔軟に陣形を変えていく。敵を分断し、包囲・殲滅を繰り返す。
すべては俺の計算通りに戦況は進んで行く。
やがて、緩やかにうねる大地が形を変え始めた。双つの小山は女の乳房に、窪みは臍に、そして手前の湿地帯が……。
「韓信、…おい韓信」
「うへへへ」
「何だこいつ。気味が悪いな。おい、韓信!」
へ、へえ?
「何をにやけているんだ。交代の時間だぞ」
同僚の郎中が訝しげに俺を見ている。
おお、そうか。退屈な時間も終わりか。また変な妄想をしてしまった。
「何であんなものが見えてきたんだろう」
あとで蒯通に聞いてみよう。
☆
破竹の勢いというべき項梁軍だったが、ある日、信じられない報せが届く。
項梁が戦死した。
なぜか主将である彼が僅かな兵力だけを引き連れ、ある町を攻略に向かったところを、秦の主力軍に襲われ全滅したのだった。
「この中に内通者がいるに違いない。探し出して殺せ!」
軍議の席で項羽は吼えた。
居並ぶ武将たちは誰も顔を上げることができず、首を竦めているだけだった。
項羽の後ろに控えた俺は、興味深くそれを眺めていた。
「恐れながら。今は懐王さまを中心に、この楚軍を立て直すことが肝心かと愚考いたしますが」
声をあげたのは沛公・劉邦だった。
普段から、のほほんとした男だが、今日はそれが頼もしく感じられる。演技だとしたら大した役者だな、俺は劉邦を見直した。
劉邦は俺の視線に気付き、ニヤリと笑った。
楚軍は二手に分かれた。
項羽が率いる楚の主力軍は、北方にある秦の主力軍と決戦することになった。それに先立ち、別働隊が西に向けて進発する。
中原各地に残る秦軍を引きつけ、主力軍の北進を助けるのが目的となる、このいわば
出立していく劉邦軍を見送りながら、俺は少し寂しい思いを持った。
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