第6話 鴻門の会、前夜
良かった。バレてなかった。
俺は陣営の片隅で胸を撫で下ろした。
つつがなく祭祀は終わり、我が楚軍は決戦への思いを新たにしたのだった。
「どうしたんだ、韓信。顔色が悪いぞ」
「うわあーっ!」
すれ違いざま声を掛けられて、俺は悲鳴をあげた。
「おい、本当に大丈夫か」
声を掛けて来たのは
「あ、ああ。ちょっと、女がらみでな……、いやぁ、まいった、まいった」
ほう、と鍾離昧はあごを撫でた。
「それは隅に置けないな。まあ、気を付けるのだな。知らないのは自分だけ、というのは良く有るからな。後ろから刺されるなよ」
快活に笑い、鍾離昧は去っていった。
いい男なのだが、最後の一言が嫌過ぎる。
なんだろう、俺は項羽に泳がされているのだろうか。
まあいい。気付かれたらその時考えよう。
☆
まったく、この項羽という男は親衛隊泣かせだ。
なぜいつも最前線に出たがるのだ。大将なら中軍にどっかりと構えていて欲しい。
だがこの男の姿を見ると、敵兵は海が割れるように道を開けるので、慌てて後を追う俺たち親衛隊は特に出番は無いのだが。
ああ。俺は久しぶりに心から安堵していた。
なんだかこのまま項羽の下で親衛隊というのも悪くない、と思い始めた時。
俺はまた気付いてしまった。
「
それはそうだ。項梁の行動といえば楚軍の最重要情報だ。受け取る側の章邯がその出所を確かめるのは当然だ。こればかりは情報の信憑性に関わるから、蒯通もそれを隠してはいないだろう。
となると、項羽の親衛隊が情報元だというのはすでに彼の知る所だろう。
これは是非、章邯には死んでもらわねばならない。
俺は柄にも無く最前線に飛び出しては戟を振るい奮闘したのだが……。
「そなたを迎えられて嬉しいぞ、章邯どの」
項羽と章邯は手をとりあっていた。
傍から見れば美しい光景だろうが、俺にとっては最悪だった。
章邯は降伏し、楚陣営に加わってしまった。
楚軍の最高権力を握った項羽にとって、今更項梁の死因などに興味が無さそうなのは救いだったが、それでも項羽に声を掛けられるたびに、俺の寿命は明らかに縮んでいった。
☆
俺の余命があと半年くらいになった時、楚軍は函谷関に到達した。秦の本拠地、
その城頭に翻る旗を見て、項羽は激怒した。
「……あれは」
俺もそれを見て声を呑んだ。どういう事だ。
それは別働隊として関中を目指していた劉邦の旗だった。しかも門を閉じて項羽軍の入城を拒んでいる。
「おのれ、あの親父め」
項羽は吐き捨てるように言う。項羽は振り返ると、一番隊の将軍を呼んだ。
「
圧倒的な破壊力を持つその男は、命じられたまま殺戮を繰り広げた。
当面の敵が、元同僚の劉邦と定まったことで、俺の寿命は数年延びた気がした。
☆
劉邦の軍は咸陽にほど近い、覇上という土地に陣を構えていた。そこは、覇水という河のほとりで、やや高地になっている。
「成る程、陣を敷く場所としては申し分ない」
劉邦の軍にも余程、戦術に秀でた者がいるらしい。俺は劉邦軍を見直した。
そこで俺は、自分で頬を叩き、自嘲した。
これは全て、蒯通に教えられた『孫子』から学んだ、ほんの付け焼き刃なのだ。まだ実地で試さねば何も分らない。調子に乗ってはいけなかった。
一方、項羽の軍は鴻門という場所に陣を敷いていた。
ここは、特に何の意味も無いただの平原だ。劉邦軍に数倍する大軍を布陣できるのはこの辺りしかないからだった。
項羽の陣内には、既に勝ったという空気が充満していた。
噂では、明日の朝には総攻撃の指令が出るとの事だった。
「やれやれ、劉邦も愚かな」
俺はさすがに呆れる思いだった。この覇上への布陣は見事だが、そもそも函谷関を閉じる選択をした時点で終わっている。今更敵対する意思はなかったなど、何の言い訳にもならないのだ。
どうなっているんだ、劉邦の軍は。あまりにもちぐはぐだ。そんな感想しか思い浮かばなかった。
俺は陣中を見回っていた。
項羽の身近に詰める以外にも、陣中の取り締まりという任も与えられていたからだ。
だが明日は戦になるというのに、陣では浮かれた気分が満ちていた。
咸陽の芸伎たちが、この陣に慰問にやって来たのだ。
さすがに天下の中心だっただけの事はある。俺が今まで見た事がない程の美女が陣中を練り歩いている。
一人の女が数人の兵士に絡まれていた。俺はふと、蒯通の事を思い出した。
兵士を追い払い、その女の顔を見た俺は考え込んだ。
「お前、どこかで見た事があるな」
女は顔をそらした。
「道に迷ったのです。陣の外まで案内していただけますか」
女は低い声で言った。
「この陣に知り合いでもいたのか」
俺はふと訊いてみた。この女がただ一人で歩いていることに不審さを感じたのだ。
「はい。項伯さまには以前お世話になりました」
それは項羽の伯父の名前だった。邪険に扱ったらとんでもない事になる所だった。
だが俺は思い出していた。この女の顔を。
いや、正確には女ではなかったけれども。
この女の姿をしているのは、劉邦に付き従っていた参謀の張良という男ではなかったか。この鋭い目には覚えがある。
だが、おそろしく艶っぽい。
「なんだか蒯通より余程、女みたいだな……」
俺は思わず、彼女に聞かれたら殺されそうな台詞を呟いていた。
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