カノンvs顕子
ナツネエの魔の手から逃れたカノンは、只管上へ向かう道を走った。ナツネエが追ってくるかどうか分からなかったが、ここは素直に逃げた方がいいだろう。このまま誰とも遭遇せず、逃げ切って山頂に到達してしまおう。
山頂が近づいてきたのか、山道の傾斜も次第に急になっていく。走るのをやめてしばらく歩いていると、分かれ道に出くわした。一方はそのままの山道。もう一方は急傾斜になった石段。石段の先には木造の門があった。古ぼけていたものの、見た目はそれなりに立派そうであった。
「お寺ね……」
こんな時ではあったが、カノンは興味を惹かれた。シュンスケの父親が所蔵している歴史小説を読んで、日本の歴史に興味を持っていたのだ。
苔で覆われた石段を慎重に上りながら、山門に辿り着く。門前右側には『曹洞宗雲岩寺』と書かれた看板が掛けられていた。
「曹洞宗……。ドウゲンのお寺ね」
山門を潜ると思いの他広大な敷地であった。それなりの巨刹だったのだろうが、今となっては見る影もない。伽藍は荒れ果てていた。
「栄枯盛衰ってやつね……」
カノンは、境内をぐるりと一周した。仏殿はどこだろうか?本尊が無事ならば是非ともお目にかかりたいものだ。
「……って、何をしているのよ、私。先に進まないと」
ついつい趣味の世界に入り込んでしまった。いけないいけないと己を戒めたカノンは、山頂へ進む道を捜した。
「うん?あれは……」
境内では山頂への道が見つかりそうもなかったので、元の山道に戻ろうと山門に向かうと、誰かが石段を上ってきた。カノンと同じような、山中の古刹に似合わない格好をしている人物。但しそのカラーは緑。
「チグサ……」
「カノンさん……」
玉のような汗を浮かべているチグサ。誰か人と出会えて安堵したのか、ほっとした表情を浮かべた。
「よかった……。島に辿り着いてから皆さんとばらばらになってしまったから、ちょっと不安だったんです」
「誰とも会わなかったの?」
「ええ」
チグサは今の今までたった一人でこの山中を駆け巡ってきたわけだ。それで『ちょっと不安』程度の感想しか抱かないのだから、相当肝が太いのだろう。それともそこまでして叶えたい願いがチグサにもあるのだろうか。
「チグサ……あなたの願いって何なの?」
「え?」
チグサが不思議そうに見上げた。その顔を見ていると、まるで鏡を見ているような気がした。いつもはそれほど似ているとは思わないのに。
「だって、そうでしょう。何か叶えたい願い事があるから、この島まで来たんでしょう?チグサの願い事って何?」
カノンは、自分がむきになっていると思った。ミオの願い事を察し、アキホの願い事を聞くに及んで、ますます他人の願いを知りたくなった。特にチグサの願い事は、ちゃんと聞き出さなければ気が済まなかった。
「私は皆さんの後を追っただけです。願い事だなんて……」
「どうしてとぼけるの?チグサだって叶えたい願い事があるでしょう?」
カノンは、石段を一段下りてチグサに詰め寄る。
「カノンさん、怖いです。どうしてそこまで願い事に拘るんです?」
拘る。確かに拘っている。しかし、拘っているのは願い事が叶う叶わないということではない。その願い事の中身だ。チグサがどんな願い事を持っているのかが知りたいだけなのだ。
「そ、それは……」
今度はカノンが言いよどむ番であった。どうしてそこまでチグサの願いの内容を知りたいのだろうか。チグサの願いが、取るに足らない他愛もない内容であると知って安堵したいのか。それとも……。
『もし、チグサの願いがシュンスケのことだったら……』
自分はどうすべきなのだろうか?全力でチグサを阻止すべきなのだろうか?考えれば考えるほど、カノンの思考はまとまらなかった。
「カノンさん?」
「チグサは行くの?行かないの?」
「え?」
「願いを叶えに行くのか、行かないのかを聞いているの。それだけでも教えて」
チグサが行かないと言えば、ひとまず一安心できる。しかし、行くと言えば、カノンの心の波はますます荒立つだろう。
「私は、行きません」
チグサが絞り出すように言った。その表情からは無念さがにじみ出ているように思えた。きっと本心では行きたかったに違いない。
「そ、そう」
カノンは、安心するどころか逆に動揺し始めていた。その動揺を押し隠すように一段一段下りていく。立ち止まっているチグサに近づくにつれ、後ろめたい気持ちが強まっていった。
『カノンさんは、行くんですか?』
チグサがそう問いかけてきたら、どうすべきなのだろうか?自分でもよく分からないこの曖昧な感情を吐露してしまえばいいのだろうか。それともチグサと一緒に山頂へ行くのをやめればいいのだろうか。動揺に拍車がかかり、鼓動が激しくなっていった。
しかし、カノンの杞憂であった。チグサは、やや寂しそうに眉を下げながらも、すれちがうカノンを視線で追うだけであった。
『嫌な女だ、私』
カノンは、自己嫌悪に耐えるようにぐっと唇をかみしめた。
『カノンさんは、行くんですか?』
そう言いかけた瞬間、顕子はその言葉を飲み込んだ。言ってはいけない、と心の中の自分が囁いた気がしたのだ。
顕子がこの島に来たのは、単に一人にされるのが嫌で、皆の後を追いかけてきたからに過ぎない。しかし、カノンに願い事の内容を聞かれた時、顕子は回答をぼやかしてしまった。願い事ならいくつもあるし、たとえ迷信であっても一番に山頂に辿り着いて、いくつかある願い事のひとつでも願ってみたかった。
『もっと新田君と仲良くなれますように』
顕子が咄嗟に思いついた願い事であった。だが、それをカノンの前で口にするのは憚られた。言ってしまうと、カノンとの仲が壊れてしまうような気がしたのだ。
しかし、カノンは執拗だった。山頂へ行くのかどうか、それだけでも教えてくれと顕子に迫ってきたのだ。
『行きます』
とは答えられなかった。カノンの執拗さが、彼女の俊助に対する好意の表れであると気が付いたのだ。
「私は、行きません」
それは決して顕子の本意ではなかった。顕子は自分の本心よりも、カノンの気持ちを優先したのだ。
それでいいんだと思いつつも、完全に納得していない自分。
『私は、嫌な女性だ……』
自分を欺いて、いい子ぶっている。顕子はそんな自己嫌悪に陥りながら、石段を下るカノンを見送った。
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