やっぱり大好きです

 あれはいつの頃だろうか。


 秋穂が小学校四年生で、兄が小学校五年生だったか。あるいは秋穂が五年生で、兄が六年生だっただろうか。


 年代は明確には覚えていないが、あの時も夏だったことは記憶している。


 そう。夏の暑い時だった。秋穂と兄は家の近所の川原で遊んでいた。兄は専らザリガニ釣りに興じ、秋穂はそんな兄をじっと眺めていたのだが、しばらくして飽きてしまったのだ。


 さほど川底が深くない川だったので、秋穂は靴下を脱ぎ、川の中に入った。川の中を泳ぐ小魚を観察したり、川面に石を投げたりして遊んでいると楽しくなり、あっという間に夕方になってしまった。


 夕方になったから帰ろう、と言い出したのは兄だった。うん、と応じた秋穂は、川原に向かって走り出した。


 走ると危ないよ、と兄が忠告した時だった。秋穂は、川底の石に足を取られ、盛大に水柱をたてて転んだ。


 幸い大きな怪我はなかったが、全身びしょぬれ、右の膝からは血が出ていた。


 火がついたように泣き叫ぶ秋穂。今思えば恥ずかしいほどだ。


 だから危ないって言ったのに、と兄が靴をはいたままでざぶざぶと川の中に入ってきた。そして、秋穂に背を向けてしゃがみ込んだ。


 『ほら、おぶされよ』


 『お、お兄ちゃん……』


 『早くしろよ。僕だってお尻濡れているんだから』


 『う、うん』


 秋穂は兄の背中に負ぶさった。兄はよろよろと立ち上がった。


 兄とはいえ、この年代では女の子の方が発育がいい。秋穂と兄の背丈はそれほど変わらないほどだった。それでも兄は懸命に秋穂を負ぶってくれった。


 年頃になって胸に膨らみが目立つようになってきた。はっきり言って兄の背中に胸を押し付けるのは気恥ずかしかったが、兄の背中は大きくて温かかった。だから秋穂は、思わず兄の背中にぎゅっと抱きついたのだった。


 『あんまりくっつくなよ……』


 兄も恥ずかしかったのだろう。しどろもどろにそう言った。


 『くっつかないと落ちちゃうよ、お兄ちゃん』


 秋穂はより強く、ぎゅっと抱きついた。




 ゆさゆさとした振動が続き、秋穂はゆっくりと目を開けた。


 久しぶりにいい夢を見た、とぼんやり思っていると、振動と共に秋穂の視界も揺れた。


 『ああ、兄さんにおんぶしてもらっているんだ』


 兄の広くて温かい背中。そうか、だからあんな夢を見たんだ。でも、なんで兄はおんぶをしてくれているんだろう。


 『そうか……山田さんと狂言誘拐をして、眠らされたんだっけ?』


 山田はどうなったんだろう。ふと気になったが、まぁいいかと思い直した。兄が助けに来てくれた。それで充分だろう。秋穂は、兄の首に回している腕にちょっとだけ力を入れた。


 「秋穂?起きたか?」


 「ええ、起きました」


 「なら、下りてくれ。重い」


 「兄さん、レディーに対して重いなんて言うと、アメリカなら発砲されていますよ」


 「……怖いこと言うなよ」


 「冗談です」


 お前が言うと冗談に聞こえないんだよ、とか言い出したので、秋穂は下りないことにした。このまましばらくへばりついていよう。


 「兄さん、助けに来てくれたんですね」


 「当たり前だろう」


 「カレー屋でのこと怒っています?」


 「もう怒ってないよ。お前が残したカレーも全部食った」


 「そうですか……」


 やっぱり兄さんは優しい。


 「僕の方こそ悪かったな」


 「えっ?」


 「久しぶりに帰国したのに、あまり相手できなくてごめんな」


 「兄さん……」


 「でもな、ずっとずっと僕とお前は兄と妹だろう?確かに今でこそ日本とアメリカで離れ離れで暮らしているけど、兄妹の絆は切れるはずがない。だから、その絆に甘えてしまったんだな、僕は」


 何を言っているんだろうな、と兄は苦笑した。


 兄と妹。そういう関係は、決して秋穂の本意ではない。しかし、同時に秋穂と兄との間でしかない成り立たない関係でもあるのだ。兄と秋穂だけの特別な絆。なんて悩ましいことを言う兄だ。


 「兄さん、下ろしてください」


 「あ、うん」


 兄は立ち止まり、秋穂を背中から下ろした。


 「ふう、お前も大きくなったな」


 「当たり前です。そんなに胸を見ないでください」


 「見てない見てない!まったく、お前も父さんにだいぶん毒されてきたな」


 「当然です。もう新田家の子どもになってもう十年になるんですよ」


 「毒されたことは否定しないのか……。でも、そうか。十年か……」


 十年。兄と一緒に歩んできた十年。その間に育んできた兄との絆が、高々一年余り離れていたからといって、どうとなるわけがないのだ。兄と出会って半年にもならないカノンなどには想像もつかない深い深い絆が兄と秋穂の間には存在するのだ。


 「私が不安だっただけなんだ……」


 すべては兄との絆を信じられなかった秋穂の薄弱とした意思のせいなのだ。秋穂は憑き物が落ちたようにすっと身が軽くなった気がした。


 「何か言ったか?」


 「別に……。それよりも兄さん、お腹が空きました」


 「そうだろうな。結局、お前何も食べていないもんな」


 「はい。今日は兄さんがご馳走してくださいね」


 「はいはい。じゃあ、すき焼きにするか」


 「兄さん、今は夏ですよ」


 「カノンとレリーラに言われたんだ。あ、あいつらもお前を助けるのに協力してくれたんだから、礼ぐらい言えよ」


 「分かっています」


 もうカノンの名前を聞いても苛々することはなかった。でも、すき焼きはないと思う。


 「ん?秋穂……」


 「何ですか?兄さん」


 兄が突然立ち止まり、くるりと振り返った。


 「秋穂。ちょっと目を閉じろ」


 「え?」


 「いいから」


 「は、はい」


 秋穂は急にドキドキしてきた。ま、まさか……。


 兄の手が頬に触れた。つ、ついに兄は妹に対して愛に目覚めてくれた……?


 い、いや。人目があるところでなんて。で、でも、兄とキ、キ、キスだなんて千載一遇のチャンス……。秋穂はそっと唇を突き出した。


 「目の上、埃だらけじゃないか」


 眉と瞼の辺りを兄が指払った。ほら、もう目を開けていいぞ、と兄の無慈悲な声がした。


 「ま、そんなことだと思いましたけど……」


 「ん?」


 「兄さん、本当に残念です」


 秋穂は、兄の頬を叩こうとしたがやめた。そっと自分の手を兄の頬に添えた。




 兄さん、やっぱり大好きです。

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