赤松千尋の生活
赤松千尋が明王院高校に入学したのは、芸能活動に関して比較的寛容だからだった。
明王院高校は芸能活動に限らず、スポーツ、芸術などの分野活動している生徒は、申請書類さえ出せば、出席日数などの面で優遇してくれるのだ。
尤も、千尋がアイドル活動をしていると知っているのは、教職員の一部だけであった。生徒については、誰も知らない。知られないようにしているのだ。
なにしろ、飛ぶ取り落とす勢いのあるアイドルのメンバーなのである。ばれると騒動になってしまう。
だから、高校に登校する時の千尋は、度のきつい眼鏡をかけ(アイドルとして活動している時はコンタクト)、髪もわざとぼさぼさにしている。どこにでもいる地味な女子。それがここでの赤松千尋なのだ。
校門を潜り、下足場へと歩く。すでに多くの生徒が校内にいて、千尋とすれ違い、千尋を追い越していく。しかし、誰も千尋に気づくものはいない。当たり前だ。ここにいるのは『ふゅーちゃーしすたーず』のチッヒーではなく、ただの赤松千尋なのだ。
教室に入っても、普通にみんなが挨拶をしてくる。握手もサインも求められない。千尋は、彼等彼女達に挨拶を返し、自分の席に着いた。
「あ、千尋ちゃん。久しぶり」
前の席の児島紗枝がくるっと振り返ってきた。彼女は、千尋にクラスの中で一番親しい友人であった。
「おはよう。紗枝ちゃん」
千尋が紗枝と仲良くしているのは理由があった。彼女がアニメオタクだからだ。彼女からオタクの知識、オタクらしい言動を盗み出し、チッヒーのキャラに活かしているのだ。尤も、そういった打算だけではなく、普通に友人として接していても和みを与えてくれる存在であった。
「バレーのレッスン。大変だった?」
「うん。まあね」
生徒達には、千尋はクラシックバレーをしているということになっている。実際にクラシックバレーの経験があり、実際にスクールにも籍を置いている。嘘ではなかった。
「はい、これ。休んでいた間のノート」
「ありがとう。助かる」
紗枝は、登校する度にノートを貸してくれる。おかげで勉強に遅れることはなかった。本当にいい子だ。今の千尋と同じように厚ぼったい眼鏡をかけ、いつも自信なさそうにおどおどとしているが、可愛らしい顔をしている。見た目だけでは『ふゅーちゃーしすたーず』のメンバーに入っても、おかしくはない。ただ、どんくさいところがあるからダンスなんかは無理だろう。
紗枝からありがたくノートを受け取った千尋は、早速ノートを広げる。綺麗な字で、読みやすいノートだ。所々に走り書きのようにイラストが描かれているのがいかにも紗枝らしかった。
「相変わらず、絵が上手いね」
本当に上手いと思う。千尋から見れば、プロの漫画家じゃないかと思うほどだった。
「そ、そんなことないよぉ。私なんかまだまだ……」
「そんなことあるよ。将来、漫画家にでもなるの?」
「ううん。そんなわけないよ。私の実力なんかでプロの漫画家さんになれるはずないよ」
紗枝の謙遜なのか。それとも本当に漫画家の世界は、厳しいのだろうか。
ともあれ千尋は、紗枝のノートを写ししつつ、彼女の書いたイラストもこっそり練習することにした。
赤松千尋としての学校生活は、実に淡々と進んでいく。人気アイドル『ふゅーちゃーしすたーず』のチッヒーがすぐ近くにいるのに、誰も気がつかない。ちょっと愉快な気分だった。
「もうお昼か……」
真剣に授業を聞きながら、ちょこちょこと紗枝ノートを見本にイラストの練習をしているうちに、あっという間に午前中の授業が終わってしまった。
「ねぇ紗枝ちゃん、お昼食べようよ」
「あ、ごめん、千尋ちゃん。お昼は、部室で食べることになっているんだ。その、ミーティングで……」
紗枝が本当に申し訳なさそうに言った。
「そうなんだ。別に私のことは気にしないで。クラブって、アニメ研とか?」
「ううん。やっていることは大差ないんだけど、もっと小さなクラブ。中学の時の先輩達がいて、それで勧誘されたの」
「中学の先輩って、あの前に話していた憧れの先輩?」
以前、この高校を選んだ理由について話をした時、紗枝はこの高校に尊敬する先輩がいるからと答えていた。前後の会話の内容から考えて男の先輩であることには間違いないのだが、その先輩のことだろうか?
「う、うん。あ、憧れじゃなくて、尊敬する先輩だよ」
「はいはい、尊敬する先輩ね」
千尋は確信した。紗枝はその先輩に好意を持っているんだ。なんか微笑ましいし、羨ましい。
「じゃあ、行くね」
「うん。行ってらっしゃい」
弁当箱を手に教室を出て行く紗枝。それを見送った千尋も、食堂へ行くため席を立った。
わざわざ食堂でお昼を食べようと思ったのは、人目が多いからだった。人目の多い中、人気アイドルのチッヒーがひとりでお昼を食べている。でも、誰も気付かない。そんな雰囲気を楽しみたかったのだ。
食堂へ続く廊下を俯きながら歩いていると、何人もの生徒とすれ違う。今朝の登校の時と同様、誰も千尋のことを気にも留めていない。
そういえば昨日『ふゅーちゃーしすーたーず』のライブに行ったんだ、という男子生徒の声が背後から聞こえた時にはどきりとした。昨日のライブは他府県でやったから、それに行ったとなると相当なファンである可能性が高い。
千尋は、あえて危険を冒して振り返ってみる。見たことのない男子生徒だ。一瞬目が合ったが、何事もなかったように男子生徒は通り過ぎていった。
『気がつかなかった……』
そのことに快感を覚え、密かにほくそ笑みながら食堂へと急ぐ。しかし、食堂までもうすぐというところの曲がり角で、反対側から来た誰かとぶつかった。
「きゃっ!」
千尋はぺたんと尻餅をついた。
「ああ、大丈夫ですか?」
ぶつかった相手が手を差し伸べてくれる。しかし、相手の顔のディテールがよく見えない。
はっとした。眼鏡をかけていない!ぶつかった拍子に落としてしまったのだ。
ばれたばれたばれた!自分が『ふゅーちゃーしすたーず』のチッヒーだとばれてしまった!
きっとぶつかった人が驚きの声を上げ、すぐさま野次馬に囲まれるんだ……。
「あ、眼鏡がないと見えないのか。はい」
しかし、相手はまるで気がついている様子がなかった。千尋に代わりに眼鏡を拾い、差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
こんな至近距離で気付かない?千尋は、釈然としない気持ちで眼鏡をかけた。
相手は男子生徒だった。童顔ながらも整った顔立ちをしている。何度か競演してことのある男性アイドルと比べても遜色ない容姿をしていた。こんな人いたんだ、とちょっとだけドキドキしてしまった。
「立てる?」
「は、はい。大丈夫です」
自力で立ち上がろうとした俯いた時、さらに重大なことに気がついた。制服のスカートが大きく捲れ、千尋の太腿が露になっていたのだ。ひょっとしたら、相手の角度からなら下着が見えたかもしれない。
千尋は慌ててスカートの裾を直した。だが、相手は千尋のその部分をまじまじと見ているわけではなく、かと言って気まずそうに目を逸らしているわけではなく、至って平然と自分のズボンの汚れを叩き落としていた。
『気づいていない……?』
自分がチッヒーだと気がついていないし、下着が見えていたかもしれないことにも反応を示さなかった。よほどの鈍感さんなのだろうか。
「保健室でも行く?」
「大丈夫です」
お尻がちょっと痛かったが、まず問題ないだろう。ただ、足に痣ができていないかだけは確認しておこう。ステージ衣装が着られなくなる。
「よかった。じゃあね」
その男子生徒は、小走りに去っていった。
複雑な思いを抱きながらも、名前だけでも確認しておこうと思った。一瞬垣間見た緑色の名札には『新田』という苗字が書かれていた。
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