第282話「猶予」

「何に焦ってるんですか?」

「──さてね」

 淀んだ赤眼が細められる。一層黒く勢いを増す霧のドームがその内情を示すようだった。

「それで、ひかりはどっちがいいんだ」

「すぐに決められるわけないですよ……! わたしは、期待してくれている皆さんを見殺しには出来ません。でも、あなたを閉じ込めるのも嫌なんです」

「ごめんな。今回ばかりはアンタのお願いを聞けないし、悩む時間もないんだよ。選択は今、ここでしてもらう」

「ハル……」

 黒髪の陰で瞬く間に表情が曇っていく。この秋冬の間、ハルが何を見てどう感じたのかがひかりには分からなかった。ただ、どちらを選んでも笑って終わることは出来ないことだけが確かだ。

「一体どうしたんですか? 答えを急ぐ理由だけでも教えてください、ハル」

「来る」

「……え?」

 ハルは合わせた着物の襟を握り締め、獣のような唸り声をあげた。それは今までとは違う、憎しみを帯びた音をまとっている。息を吐き出すと黒い霧がぼうっと現れた。

「祠が開いている時間が長いほど、死屍子は根の国の怨霊達を呼び込んで大きくなる。早くしないと私が消えて……ひかりのことが、分からなくなるんだよ」

「それは人間としての、ハルが?」

「そうだ。私はアンタを喰いたくない。だから早くどっちか決めて祠を閉じてくれ、お願いだから……!」

 押し殺していたものが喉奥から漏れ出た。次第にドームは荒々しさを増し、ひかりへ手を伸ばし始める。

「やめろッ!」

 ハルが叫ぶのに呼応して手は引っ込む。全身が強ばって声も出なくなったひかりを鋭い瞳孔が映した。

「人間を皆殺しにするか私を殺すか。それとも私に喰われるか? 三番だけは嫌だ……。私は、アンタを……」

「他に選択肢はないんですか!?」

「もう私の身体は想いを抱え過ぎて、祠以外では封じられない」

 しかし妖怪の力を増幅させる死屍子が表にいれば、人間と妖怪の大戦争になる。口から溢れそうになった霧を噛み殺し、ハルは声の抑揚を消した。

「猶予がないんだよ。私も、外で戦ってる仲間にも。そしてこの国の全ての人間と妖怪にもな」

「わたしは──」

 巡ってきた様々な街に暮らす人間達の笑顔が星のように瞬いた。同時に奪い合う醜さがそこに霞をかける。その合間に何枚も、何度も、穏やかなハルの微笑みが浮かんだ。

「わたしは……!」

 口にしたい言葉が涙に変わって、身体から抜け落ちていく。そうして残った一つの答えを、胸いっぱいに吸い込んだ勇気でぶつけた。

「わたしは!」

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