第274話「無垢な悪意」

 マチネの右頭部を破壊したのはマグナム弾のような鋭い犬歯だった。明らかに呂律が回らなくなっていく彼女の姿に、奎介は言葉を失う。歯の欠けた茨木は低く腹に響く笑い声をあげた。

「直に、死ぬだろう」

「マチネ──」

 事故で記憶を失った彼女とともに大学生活を送ってきた。特異点の観測に出かけた様々な記憶が駆け巡った先に、一つの思い出が蘇る。


『奎介君。どうかこの子を護ってやってくれないか』

『自分が、ですか』

『僕には残念ながらその力がない。AIやロボット、機械を作ることしか能がなくてね……』


 白衣をまとって特異点観測用の装置を調節しながら、誠はそう告げたのだ。悲しげに、自嘲するように。そして眠り込むマチネの頭を優しく撫でていた。

 その彼も、護るべき人も。

「自分は……!」

「まだ亡くなってはいませんよ、僕が保証しますので」

 よく通る礼儀正しい言葉が聞こえる。顔を上げた奎介に目の前の青年は丁寧な礼をした。

「初めまして。安倍遼と申します、よろしくお願いしますね」

「安倍──。陰陽道の」

「まだまだ未熟者ではありますが」

 印を結ぶとゆっくり社地の力が押し返されていく。かなり消耗していたといえ、実力者と同程度の能力を持っているのだ。社地はすぐさまマチネの手当てへと行動を切り替える。

「茨木童子、痛そうですね。僕が今治しますから」

「貴様の手を二度と借りるつもりはない」

「そうおっしゃらないでください。これはあの女性を止めてくださったお礼です」

 マチネと社地の周囲に針山を巡らせて、奎介は遼の前に立つ。その瞳の奥には怒りが揺らいでいた。

「マチネをどうする気だ」

「ああいえ、彼女そのものではなく、マチネさんがお持ちの機械が欲しいんですよ。茨木童子のおかげで神隠しの手間も省けましたしね。少しそこをどいてください」

「断る」

 爽やかな笑みの底に押し隠された無垢な悪意に反吐が出る。大地はマチネに残る微かな鼓動をまだ伝えてくれていた。

「お前のような奴に、マチネは渡さない」

「ですから、僕が欲しいのは機械なんです。その方が観測した特異点のデータを自動で回収し記録する、脳に埋め込まれた小型メモリをね」

「何一つ奪わせない」

 命も記憶もマチネの所有物だ。どれが欠けたとしても、人間は空っぽの器となってしまう。それが元通り中身を得られるかどうか、二度目は分からないのだ。

 ──それは五年前のことだ。

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