第271話「受け入れて」

「貴様……」

 茨木は目の前に立ち塞がる社地に感嘆の声を漏らした。彼はお札を振りかざし、休みなく大祓詞を唱え続けているのだ。一定の呼吸を保ったまま、茨木の金棒を避けつつの祝詞だった。

「もはや人ではないようだな」

「──わたくしどもは黄泉比良坂の管理者、社地家でございます。そこらの神職には劣らぬと自負しておりますよ」

「なるほど、つまりスサノオの。だが俺をこの場に留めるだけでは勝てんだろう」

「あなた様に敵いようもないことはわたくしも承知しているのです。ですのでせめて、あのお二人の答えが出るまでの時間稼ぎを」

「ふん」

 再び大祓詞を口にすると茨木の身体が重くなる。元いた闇に抱かれる心地良さについ身を委ねそうになるのだ。光で焼き尽くそうとする天明より、服従させる陰陽道より、自身と調和する死の気配が最も厄介だった。重く感じる金棒を振るうがギリギリで避けられる。

「貴様の臭いは生きていない。その目とともに燃え朽ちたのだろう? 社地の長」

「そうかもしれません。わたくしは自身の名をも忘れ、家が守ってきた記憶を受け継ぎましたので」

「貴様も器か。死屍子やアマテラスと同じように、入れ替えることの出来る消耗品でしかない」

「いいえ。生ける者全ての肉体そのものが入れ物なのでございます。輪廻の渦中にある魂の一時的な依代であります。それを知ったならば、この身を器として捧げることに異論がありましょうか」

 卑弥呼から二つに分かれ、それ以来の記録を受け継ぐことを使命としてきた。それは同時に歴代の魂を受け入れることであり、個人はもはや霧のようにかき消された。視力を失った子供の頃の彼だけが、まだ器ではない個人だった。

 器であることを受け入れたはずだった。

『次会う時までには名前、思い出していてくれよ』

 ニッと笑ってみせた彼女の赤眼がくっきりと思い返されるのは何故なのか。いたずらっ子のように楽しげな囁き声が残響になって鳴り止まないのだ。

「申し訳ございません、ハル様。わたくしの名はお伝え出来るかどうか……分からないのです」

 呟いた途端、遠くに一筋の光が射した。闇を斬り裂いたそれによって、霧が吹き飛ばされ突風が吹き荒れる。その中に一つ、すすり泣いている子供の声があった気がした。

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