第232話「胎」
ハルは胎児のように背中を丸めて浮かんでいる。頭が上下逆さになっても息苦しさはなく、心が乱されることもない。あの後、誰もここには来なかった。もう数日経つ頃だ。その間にも彼女はずっと一人で考えていた。
──私に何が出来るだろう。死屍子と融合し、今まで力を押さえ込んできた人間としての自分が、だ。筋力や戦闘センスがあちらのものなら、人間には何が残るのか。例えば知力。しかし頭を使うのは苦手で、必要な知識さえ持ち合わせていない。そしたら次は理性。これも大した効力があるとは思えなかった。
あの時、精神世界にいたハルの耳をつんざいた叫び声が残っている。そのほとんどが「死にたくない」だった。表では妬み嫉みが激しく出ていたものの、死屍子の多くを占めているのはやはり死の概念なのだ。社地は言っていた、死屍子という名を冠する前から人々は死を恐れていると。その頃から溜まり続けてきた想いが生きる者の空想に固められて、今の姿になったのだ。それだけ大勢の気持ちに抗うことは難しいように感じた。
──ならば結局、私は無力なのか?
「色は匂へど散りぬるを」
千愛がポンッと煙から現れる。ゆっくりと目を開けるハルに、つまらんと頬を膨らませる。
「われの大嫌いな奴の話をしようかの。お前さんはただ聞いておれ」
宙に浮かび上がって座り、ほろほろと笑い声をあげる。かざした扇子に咲き乱れた花々が彼女の呼吸に合わせてなびいていた。
「そやつは神と妖怪の狭間に立つ者じゃ。世に天狗や鬼を産み、癇癪を起こすと手をつけられぬ。その名を天逆海」
丸まっていた身体を伸ばし、水晶玉に目を近づける。はっきりとした視界に深刻な表情の幼い顔立ちが見えた。
「あやつは剛腕の神をも千里先まで投げ飛ばし、鋭き武器を噛み砕く。そして何事も己の思うままにせねば気が済まぬ性分故、何やら企てている様子じゃ。その足がけが此度の旧都への侵攻……天明の子への干渉であろう」
「……!」
「おや、気概のみで水晶玉を鳴らすとはのう」
キィンというような音がした。やや台座からズレたのを元に戻して、千愛は続ける。
「小娘よ。お前さんが成さねばならぬことはただ一つであろう、それに迷うから身体を奪われるのじゃよ。愛すこととは護ることである、とわれは思っておる」
くるりとその場で宙返りをし、千愛は姿を消した。天逆海が何をしようともひかりを傷つけさせはしない。今は機会を待つ時だ。ハルは再び丸くなって逆さに浮かび上がり、眠りについた。
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