第194話「桜」

 深く沈み込んだ思考を足元へ感じた衝撃が突き飛ばす。ハッとして見下ろした先には、黒髪の女の子がいた。女の子は慌てて床に落ちたカゴを拾い上げ、一礼して走り去っていく。腕に抱えた隙間から桃色がこぼれた。

「……さく、ら?」

「そのようですね。まだ現世は秋だというのに、もう支度ですか。ここにおいては四季など一瞬のことですが」

 少し屋敷を巡っただけでもう秋になってしまったのなら。三週間もここに留まっては一体、どれだけ過ぎてしまうのだろう。

「あの、イシコリドメ様」

「どうなさいました」

「ここに一週間いたら、現世ではどの程度の時間が進んでいるんですか」

「七ヶ月ほどでしょう」

「つまり一年と九ヶ月……?」

 確かに春にはなっているだろうが、その頃には国が消えているか死屍子は退治された後だ。せめて来年の春までには帰らなければいけない。

「ちなみにお聞きしますが、現世にはどうやって帰るんですか」

「あなた様の望んだ場所へ我々が階段を下ろします。そこを進んでいただければ」

「分かりました」

 できるだけ手短に用事は済ませてしまおう。頃合いを見て千愛達のいる渓谷に帰してもらえばいい。次にやるべきことを固めた時、音もなく隣にウズメがやってきていた。

「ひゃっ!?」

「アメノウズメ。気配を作ってからいらしてください」

「すみません、つい忘れてしまいますね。アマテラス様より御言葉みことばを預かって参りました」

 ウズメは柔らかく微笑み、ひかりに語りかけた。それは耳に聞こえるものではなく直接、心へ届いてくる。首を傾げたところを見るに、イシコリドメには分からないらしい。

『屋敷を出て右手へ回り込んだ、森へ来るように』

「はい。ありがとうございます」

「言霊を用いなかったことから察するに、秘め事でしょう。私はここで失礼いたします」

 ひかりが礼を返して頭を上げた時、すでにイシコリドメの姿はなかった。目を瞬かせているとウズメがそっと前に回り込む。

「では、どうぞ」

 差し伸べられた手に思わず手を重ねた途端、廊下もウズメもフッと消え去って、ひかりは森のさざめきに立ちすくんでいた。現世でひかりが連れてこられた光の森によく似ている。細い道を縫って進んでいった先に、淡い色彩が広がった。

「──わぁ」

「綺麗でしょう」

 ひらけた芝生を取り囲むように、桜が満開に咲き誇っている。薄紅や白の花びらは風の中でくるくると回った。

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