第189話「天戸を叩く」

 祈祷の基礎とは余計なことを考えず、ただ神のために全てを捧げることだ。精神だけでなく骨肉の端々まで自身の所有から離れることだ。兄の光明はそれを最も得意とし、信仰心の高さを誇っていた。ひかりはいつも周りを気にし過ぎるのだと怒られたものだ。妖怪が恐ろしくて、いつ襲われるかと常にビクビクしていた。

 ──今は大丈夫だ。

「すごい……。綺麗」

「神の目にはワタシ達など映りマセンか、フフフ」

 長い旅をしてきた。アマテラスに連れ出されて独りぼっちだった桜の頃、きっと自分はあっという間に殺されると思っていた。しかし、ひかりを守り続け、わがままを聞いてくれたのは妖怪のハルだ。思い返すと手を差し伸べられたことばかりで、よく姉だと言えていたものである。だからこそ、今は別の立場からハルを助けに行きたかった。

「興が乗った。われもちと混ぜてもらおうかの」

「姫さま、もしかして笛吹くの?」

「うむ。玉菜前や」

「仕方ありませんね……。少しだけですよ、愛しい方」

 滑るように笛の音が織り込まれてくる。すぐさま琴も混ざって互いを引き立て合った。調子の整った音楽により一層、ひかりの精神は研ぎ澄まされていく。幣を振りかざして祝詞を上げ、天へ願った。

「天戸を開きたまへ。迎え入れたまへ」

 空が白んでくる。強烈な光とともに階段が伸びてきて、畳の目の前へ音もなく止まった。その先は遠く終わりが見えない。だが、祈りは聞き届けられたということだろう。そうっと立ち上がって階段に片足をかけようとした時、手元の糸が張る。まるで「行かないで」というように張り詰めたそれに戸惑ったが、振りきって段を上がっていく。

「お願い。頑張ってねひかりちん」

「気をつけてねー!」

 マチネや翠が言葉を投げかけてきた。声援が身体を透き通って心へ届く。どこまで続こうかという光の階段を上がるうちに、フッと重さを感じなくなった。遠のいていく後ろの声、その最後に聞こえたのは千愛のものだった。

「……そこで何を知ることがあろうとも。お前さんが折れてしもうたら、彼奴は永遠の陰になってしまうでのう。気張れ、神の子や」

 永遠の陰──。その意味はよく分かっているつもりだ。だからこそ彼女が人であるうちに、そこから引き出してやらなければいけない。

 突然足が動かなくなり、視界が閃光に包まれる。眩んだ頭が揺れてふわりと目の前が反転した。階段だったはずのそこには一つの大きな戸が立てられていた。

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