第183話「ヒビ割れたもの」

 私は慌てて父を引き剥がし、服を破かれたリリィにガウンを着せました。あの人の目のぎらつき方は異常でした。しきりに彼女の母を罵り、部屋をめちゃくちゃに荒し回るのです。お気に入りだった百合の香水が床に落ちて割れ、強い芳香を漂わせていたのを覚えています。リリィは泣きじゃくり、母は憤慨し、私は姉を抱き締めて呆然としていました。──今のリリィは多くの男達を下僕として従えていますが、心の奥では怖がっているのです。この夜を思い出して。

「父上、なんで」

「ああそうさ、俺は食べ残しのうじ虫に欲情するような、淫魔のクズだ! はははッ、くそったれ!」

 自分が奪い取るつもりがいつの間にか、気持ちを奪われていたのです。淫魔にとっては致命的な傷でした。父は追いすがる母を蹴り飛ばして家を出ていき、二度と帰ってきませんでした。リリィは精神世界をもかき乱され、心を病みました。母もどこかリリィを軽蔑するようでした。家族全員にヒビが入ってしまって、母が死んでも埋まることはなかった。

「ねえ、ジャス」

「何?」

「リリィはあなたまで失いたくない。だからお願い、約束してよ。もう絶対に淫魔として人間から力を奪わないって」

「……分かったよ」

 私達は淫魔でありながら、その道を捨てました。あんなことがあったのですから、二度と人から精力を抜き取る気力なんて起きません。大樹の家から様々な街を転々として暮らしました。リリィに以前のような明るさはなく、格好も頓着しなくなったのです。魔法に使うメイク道具は引き出しの奥へしまい込みました。淫魔としての力などこれからもう、使うことはないだろうと思っていました。

「じゃあ、行ってくるよ」

「早く帰ってきて。お願い」

「分かってる。今夜はシスターの好きなシチューにしよう」

 淫魔の成長速度は人間の十分の一ほどです。二百年が過ぎてようやく成人した私はバーで働けるようになりました。ここで私は二つ目のミスをします。賃金が高いからといって、豪商の所有している船上にあるバーで働いたことです。毎日、日帰りのクルージングをするだけだからと油断していました。

 私は騙されました。そこが人身売買のための船だなんて知りもしなかった。

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