第184話「花びら」
私はその家に帰らなかったのです。正しく言うならば男を愛でる趣味のある財閥の社長に買い取られ、この国へ連れてこられました。帰れなかったというべきでしょう。リリィはひどく錯乱したようです。あちこちを捜し回って、使いたくなかったはずの人心掌握術まで駆使して。ですが手がかりはなかったのです。そもそも当時は人買いなんて当たり前の時代でしたから。一時は狂ってしまって、言葉もロクに話せなくなったと聞いています。私が軽薄な行動をしたせいで、二度もリリィを傷つけてしまった……。
私はその社長の慰みものになるつもりは微塵もありませんでした。当時はここの言葉なんて分かりませんでしたし、ただただ恐ろしかった。だから隙を突いて逃げ出し、祖国へ帰る手立てを探したのです。しかし言葉が通じなければ、どこへ行きたくても無闇に動けませんでした。だから必死に言語を学び、盗みなどをして空腹を満たしました。
「ガイジンの妖怪め。出ていけ、この国に入ってくるな!」
「鬼の土地に踏み入るとはいい度胸だな、殺してやる!」
妖怪達は私を嫌っていました。誇り高い一族が多いので、よそ者を排斥するのが癖なのでしょう。あちこちを放浪して歩くうちに、もはや祖国に帰ろうという気概さえ折られました。そして五十年、今の世になってから私は再び会うことができたのです。
「ジャス!」
「リリィ……?」
とある人間に頼って来たのだと彼女は言いました。私はその方に心から感謝しました、しかし寂しくもありました。私が居なくなった間に姉はすっかり奔放さの皮を被って、無邪気に振る舞うようになっていたからです。その明るさの中に翳りを感じてしまって、私は帰るのを諦めたことを後悔しました。悔やむのは三度目ですね。
リリィは私がこの国に馴染んだのを悲しがりました。だからカタコトの言葉を話し、姉と同じ程度の語彙力を保っています。祖国にいた時期の方が長かったのに、こちらの言語が口に合うようになりました。
「ジャス、知ってマス? 百合の花びらは分厚いのに痛みやすいんデース」
「……そうなんデスね」
「ジャスミンは小さくてかわいいデス。愛でてあげなくちゃネ」
リリィは真っ白な百合を引きちぎり、近くの花瓶に挿してあったジャスミンにそっと口を寄せました。血のような口紅が花びらを塗り替えていました。
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