第108話「自我と意識」
畳へ抹茶が落ちていき、点々と模様を作り上げる。唖然としていたひかりの唇へ指先が触れた。
「ひかり、これ舐めてないか。何か身体がおかしくなったりしてないな?」
「それはただの抹茶でございますよ。わたくしはただ少し、憂さ晴らしがしたかっただけですので」
「アンタはふざけた脳みその造りをしてるらしい。こんな中途半端じゃなくて、一度しっかり死んでこい。私が送り出してやるからさ!」
牙を剥き出しにして威嚇するハルに、社地はけたけたと声を立てて笑う。突然元に戻ったのがさらに不気味で、ひかりはハルの腕の中で怯えていた。社地は自分の茶を点てて一気にあおり、乱雑に畳へ置いた。
「社地の宮司は代々、卑弥呼が喰われた瞬間からの全ての血族の記憶をも引き継いでいる。世の中の記録としてな。それら全てがごっちゃごちゃになって、俺は俺自身の人格がどれなのかもう分からない。だからこうして、たまに違う誰かの記憶を出しては憂さ晴らしをするんだよ」
「そんなことにひかりを使うな」
「大切なことだ。こうでもしないと気が狂っちまう、明日からの人生を踏み出せなくなるんだ」
「アンタはもう狂ってるんだよ」
淀んだ赤眼で社地を見据え、とつとつと話し始めた。
「私はたった一人の記憶で散々狂わされてる。それなのにアンタみたいに、今までの何千人の記憶なんて持ってたら手遅れだ」
「妖怪が喰った者の記憶で狂うだと? そんなことはあり得ない」
社地がにじり寄ろうとし、ハルはひかりを抱えて後ずさった。両手を振り回して社地が語り出した。
「妖怪は生まれた子供を大切にし、種族を覚え込ませ自我を植えつける。自分の軸があれば他者の意識に飲み込まれることはないからだ。だから妖怪は捨て子が滅多にない」
「私は捨てられた」
「何故、そんなはずは」
「自慢の記憶にもそんな奴はいないのか、残念だよ。私はよっぽど生まれてから親に迷惑かけたらしいな」
鼻で笑い飛ばして、今度はハルが噛みつくように顔を突き出した。あご近くまで裂けた口から言葉を吐き出す。
「自我を持つべきなのはアンタじゃないのか。自分が誰なのか本当に分からないのか? その両目を潰した馬鹿な子供は一体、どの人格だったんだ。私でさえ名前くらいはあるぞ、そこからもう一度思い出せ」
社地が動きを止めた。しきりに眉間にシワを寄せて爪を噛み、苦しげな声を漏らしている。ひかりはそれへおそるおそる手を伸ばした。
「頑張って、ください」
社地が目を見開いて顔を上げる。混濁した黒目はもう何も映さないだろうが、そこにはひかりの顔が確かにあった。
「ありがとう……」
ひかりが突き出した両手に作っていたのは特別な力で練られた加護の札だった。
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