第64話「眠り」
マチネには空いている部屋を貸すことになり、ひかりと一緒に二階の自室へ引いていった。日付をまたいだ頃にジャスが上がり、リビングは電球が一つ点っている。ソファに身を投げて意識を研ぎ澄ませると、下水が流れる音やどこかの家からのテレビの笑い声、車が通るエンジン音がした。人間には静寂に思える今の時間も、ハルには騒がしく聞こえた。
「妖怪が夜に眠るなんて、馬鹿みたいな話だな」
四年前まではそうしていたはずだった。眠れない日はあかりが寝かしつけに来て、何度もあの言葉を繰り返していたのを思い出す。
──あなたは決して妖怪の欲求に染まってはいけない。
『どうしてダメなんだ? 人間は人間らしく生きているのに、妖怪は妖怪らしく生きちゃ、なんでいけないんだ』
胸をとんとんと優しく叩かれながら、ベッドの中でハルはいつも聞き返していた。その答えも、苦笑いも常に決まりきったことだった。
『人間にはやり返せるだけの力があるからよ。牛や豚は戦争を起こせないでしょう』
『そんな奴、喰っちゃえばいいんだよ。そしたら歯向かう人間はいなくなる』
『そうかもしれないね。でも恐怖や恨みが蔓延る世界なんて、楽しくないわ。それにあなたはわたしのこと、好き?』
『うん』
頭を優しく撫でられて、むずがゆい気持ちになる。こう聞かれた頃には意識が少しずつ沈み込む感覚があり、まぶたが落ちてくるのだった。
『人間にはほとんどの人が、護りたい相手がいて、その人のために戦争だってやる者もいるの。互いに護りたいと傷つけ合っていたら、どちらかが絶滅するまで争いは終わらないのよ』
『そんなの、妖怪が勝つさ。母さんみたいに強い人間は滅多にいないし』
『こら、ハル。そんなにわたしの言うことを聞きたくない、悪い子なの? お願いだから、ね。無闇に争わないでほしいの』
『……分かったよ、母さん』
そういえばいつから、このやり取りが夢に出るようになったんだったか。そして日に日に短くなっていったか。遠くの家ではテレビが消されたらしい。少し静寂に近づいた中で、ハルはそっと頭に手を当てた。前髪を指でかき上げて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「母さん。私はアンタの娘を護りたくて争ってるけど、許してくれるかなぁ」
道路の方からも音が絶えた時、ようやく二階の寝息が三つ聞こえた。彼らが生きている実感が伝わってくる。あかりの呼吸を密かに聞きつつ眠っていた夜のようで、少しだけ笑みがこぼれた。
「アンタは今、どこで寝てんだろうな。どうして四年前、あんなことになったのかな」
掌底で目を思いきり押し込む。漏れ出しそうな嗚咽の代わりに、深く息を吸って大きなため息をついた。
「会いたい……」
やがて身体から力が抜けて、両腕がソファに落ちた時、ハルは眠りについていた。
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