第57話「共有点」

 マチネに教えてもらったアパートには確かに「仁科」の表札がかかっていた。鉄製階段に最も近い二階の部屋だ。電車の乗り方も分からないために歩いてきたハルは空を見上げ、星の見える暗闇を睨む。

『まったく……ここまで移動するのに時間がかかり過ぎです。電車くらい乗れるようになりなさい』

「アマテラス様がもっと分かりやすく説明してくれればそうしたよ」

『あれ以上どう説明しろと? 必要分の料金を払って切符を買って乗り込み、目的地で降りるだけでしょう』

 アマテラスが憤慨した様子で話している。 ハルは他人から見れば虚空へ不満そうに話しかけている変人だ。しかし幸いなことに人はおらず、安心してドアノブを壊し中へ入ることができた。

「研究室とあまり変わらないな、よく分からないものだらけ」

 図形と数式と専門用語の羅列など、漢字さえも小学生より読めないハルにはお手上げである。しかしハルにも理解できる資料はあった、机の正面にある大きなコルクボードへ貼りつけられた写真だった。

「見たことあるな……ええっと、うん……」

 誠のものである記憶の糸を辿る。すると初めは見えなかった記憶が一緒に引っ張り出されてくるのが分かった。まだ誠の脳みそには期待できそうだ。

「んんッ、ゔ……」

 時折頭が痛くなったが、ジッとしながらその記憶を見つめる。脳裏にはやや白髪の混じった誠の姿が浮かんでいたが、記憶の中ではやはり若い頃のものが多い。ハルは大まかに誠の人生を知った。

「へえ……アマテラス様、この人面白いよ。小さい頃にカブトムシを捕まえようとして、二日歩いてあそこの山に行って迷子になったらしい」

『……ふ』

「おお、笑った。それとな、元々は機械を作ってた人なんだけど、昔会った妖怪にまた会えたのが嬉しくて妖怪研究科に入ったらしい」

『気ままというか、なんというか……』

 アマテラスは呆れたようにぼやいた後、その妖怪とは、と疑問を投げかけてくる。思い返された顔は二人の少女だった。茶髪で六歳ほどの少女と、黄とも金とも言い難い髪色の少女だ。こちらは二十歳ほどに見えたから、少女というより女性だろうか。ただ少し顔つきは柔和だった。それを話すとアマテラスはうーんと唸る。

『少し彼に聞いてみることにします』

「誰のことだ」

『イシコリドメという知恵の深い神です。彼ならばこの辺りの妖怪について知っているでしょう』

 そうしてアマテラスの消えた感覚があった。ハルはぼうっと高天原の神々を思い浮かべてみる。まずもってどんな神がいるのかさえ、一つも知らない。会う機会もないだろうが、と考えながらさらに部屋を漁る。

「うーん、なんだ……?」

 ハルは見たことのないインクの羅列に戸惑った。アルファベットというものを知らないのだから当然だ。紙切れに綴られたいくつものスペルのうち、これだけが赤いペンで丸く囲われていた。

 machine

「あとでジャスに聞いてみようかな」

 他にも様々なものが部屋にはあった。その中からハルが持ち去ったものは、特異点の場所が書き込まれた地図と死屍子の生態についての考察のノート、妖怪に関する見解が記された書きかけの論文だ。それからマチネに頼まれていたものを袋へ押し込む。

『──ええ、ありがとう。あなたの知識にはこれからもまた、頼るかもしれませんが。──本当に感謝しています』

 珍しく物腰が柔らかなアマテラスの声だ。妖怪相手でなければこのように、優しい人なのかもしれない。話を終えて完全にこちらへ戻ってきたアマテラスはやや誇らしげに口を開く。

『おそらくは狐狸ではないか、ということでした。この辺りの狐狸はあまたの妖怪を従え、百鬼夜行という集団を作っているのだとか』

「ふーん。その中の二匹に出会ったってわけか」

『大将は千愛ちのいとしと呼ばれる者だそう』

 どこかで聞いたような名だな、とハルは考える。誠との記憶の共有点にその名前が燻っているのが漠然と感じ取れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る