第一章 始まりの死 14

 目の前の光景に、思考が停止する。

 一瞬遅れて、パァン、という乾いた破裂音。

 アナは驚いたように双眸を見開き、そのままゆっくりと前のめりに倒れていく。


 極限まで時間が圧縮される。ゆっくりと、どこまでもスロゥに、しかし確実にアナの身体は重力によって大地へ引かれていく。

 それでも俺は動けない。暴走した意識だけが、沈みゆく少女の姿を見守っている。

 そして――パタリと。

 まるで糸の切れた操り人形のように、アナは倒れ伏した。

 理解できない。いや、脳が理解を拒絶している。

 なんだこれは。意味がわからない。何故。どうして。


 ――


 脊髄に液体窒素を流し込まれたかのような悪寒に襲われる。


「あ……アナ……?」


 ふらふらと、幽鬼のようにアナに近づいていく。

 しかし――。

 パァン、という再びの破裂音。


「…………へ?」


 自分の身に起きたことが一瞬理解できなかった。

 強い衝撃がみぞおちのあたりを貫いた気がしたので、何となく視線を下げると――俺の制服は鮮血に塗れていた。

 なんだこれは……これは……。


「あ……ぐっ……」


 急に足腰が立たなくなり、俺もその場にくずおれる。

 まるで理解が及ばない。

 何故アナも俺も鮮血を吹き出して突然倒れたのか。

 そしてこの――みぞおちのあたりから覚える、言い知れぬ不快感は何なのか。


 痛みではない。熱でもない。

 そういった日常的な感覚を超越して、ただただひたすらに――気持ちが悪い。

 ゴボゴボ、と咳き込むと、口からは冗談のように大量の鮮血が溢れ出す。

 その段になり、ようやく俺は致命的な予感を抱く。


 俺は……もしかして死ぬのか……?

 かつて左腕を失ったときを彷彿とさせる――明確な這い寄る死のイメージ。

 意味がわからず、わけもわからず。どうやら俺はここでボロ雑巾のように死ぬらしい。

 まあ――それならそれで構わない。

 どうせ一度は死んだ身だし、いずれ近い将来朽ちることもわかっていた命だ。

 惜しくないと言えば嘘になるが、絶対に受け入れられないというほどでもない。


 だが――。

 視界の片隅に映った黄金色の少女が、わずかに俺の正気を引き戻す。

 アナが死ぬのは……おかしい。

 俺なんかにも優しくしてくれた、天使のような少女が死ぬのは……間違っている。

 そんな現実、許されていいはずがない。

 動かない身体を必死に引きずりアナの元まで移動し、俺は静かに横たわる少女を抱き起こす。


「……おい……アナ……」


 掠れた声で呼びかけるもアナは何も言わない。

 美しいその顔は、それこそ作り物のように血の気を失い、いっそ無機質にすら思える。

 星宿の双眸は閉じられ、その顔は驚くほど穏やかだ。口元から伸びる一筋の鮮やかな血痕が、ハイライトのように彼女の最期を彩っていた。


「……うぅ……あぁ……」


 大脳皮質の言語野は早々に機能を放棄した。

 口から漏れる嗚咽は意味をなさず、ただ慟哭するほどの怒りだけがじりじりと燻っている。

 認めない……俺は絶対に……認めない……っ!

 ミシミシ、とあごのあたりから異音が響き、直後、バキン、と破砕音。

 食い縛りすぎて奥歯が砕けたのかもしれない。


 俺は最期の力を振り絞ってアナの細い身体を抱きしめる。

 ああ……どうして……どうしてこんなことに……。

 もしも神様がいるのなら――。

 どうか《》は、彼女に祝福を――。

 薄れゆく意識の中でそんなことを思った、まさにそのとき――。


 目の前に、見慣れぬ球体が浮かんでいることに気がついた。


 なんだ……これ……?

 霞む目を凝らして、を見る。

 硬球ほどの大きさの――虹色に光る球体。

 それはあらゆる物理法則を無視して、ゆらゆらと、まるで当然そこにあるべきであるかのように、悠然と浮かんでいた。

 あまりにも現実離れしているので、きっと死ぬ間際に脳が見せる幻なのだろうと思う。


 惚けたように見つめていると――何故か俺はに左腕を伸ばしていた。いつの間にか聖骸布が外れ、《悪魔の腕》が露出している。

 俺の意思ではない。そもそも俺はこんなわけのわからないものに触れたくはない。だがそれでも、俺は右腕でアナを抱きしめたまま、まるで神の言葉に身を委ねるように左腕を伸ばす。


 だんだんと意識が薄れてくる。

 俺の意思に反した左腕は、末期まつごの力を振り絞り、光の球を握り潰す。


 ――パリン、と。


 薄いガラスのように、それはいとも呆気なく粉々に崩れ去り。

 直後――俺の意識は暗転した。

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