第一章 始まりの死 13

「俺が……優しい……?」


 そんなこと、他人から言われたこともないし、そもそも考えたことすらない。眉を顰める俺に、アナは諭すように続ける。


「うん、優しいよ。でも――優しすぎて、逆に危なくもあるよね。誰かのためなら、平気で自分の命もなげうっちゃいそうな……そんな危うさ」


「俺は……そんなご大層なものじゃない……」


 真っ直ぐに見つめてくるアナの視線が眩しすぎて、俺はわずかに顔を背けて否定する。


「俺はただ……アナみたいな子には、不幸になってほしくなかっただけだよ……。俺なんかと違っておまえは……陽の当たる世界で、人並みの幸せを掴むべき人間だから」


「――それは……買い被りだよ。わたしこそ、そんなご大層なものじゃないから……」


 どこか悲しげに微笑んでから、アナは俺の頬に手を添えて再び俺をじっと見つめる。


「――イザヤくんみたいな優しい人ってとっても損な役回りなのに、本人は全然気にしないんだよね。自分が不幸になることなんか、全然勘定に入れてない。そういう人を見るとさ……わたし、すごくもやもやしちゃうんだ。優しい人が不幸になる世界なんて間違ってるって、そう思っちゃうの。だから――」


 不意に立ち上がったアナは、俺の正面に立ちわずかに腰を屈めて俺を抱きしめた。


「――――っ!?」


 突然のことにパニックになりかけるが、そのまま優しく頭を撫でられると不思議と心が落ち着いてきて、気がつくと俺はその甘い感触に身をゆだねていた。

 アナは穏やかな口調のまま続ける。


「だからさ、どんな状況になっても、わたしだけはイザヤくんの味方でいてあげる。たぶん、今日が終わったらもう会えないだろうけど……でも、もし良かったら明日も、明後日もつらいときにはわたしのことを思い出して、少しでも幸せな気持ちになってくれると嬉しいな。わたしだけは、何があってもイザヤくんの味方だよって、覚えておいてほしいな」


「……どう、して……?」


 思わず声が漏れる。どうしてアナはそんなにも俺なんかに優しくしてくれるんだ。

 今日初めて会って、少し話をしただけの、左腕が人間じゃない俺なんかに。

 そんな俺の切なる疑問に――アナはただ優しく頭を撫でながら答える。


「……どうしてイザヤくんに優しくするのかって? んー、そうだなあ。初めて見たときから何か放っておけないんだよね。一目惚れ? っていうのとは少し違うと思うんだけど……なんて言うか、捨てられた仔犬みたいな目をしててつい手を差し伸べたくなっちゃったの。きっとイザヤくんはこれまでとっても苦労してきたんだなってわかったから、じゃあわたしは無条件にイザヤくんの味方になってあげよう、って思っちゃったんだ。うん、きっと理由はそんなところかな」


「…………っ」


 凍り付いていた心が蕩かされるように……言葉が染みこんでくる。

 それはほとんど言いがかりのような理屈だったが……不思議と心に染み渡っていった。

 それから、ああそうか、と納得する。


 結局のところ――俺はただ、俺という存在を許してほしかっただけなのだ。

 ハイソフィアのこととか、左腕のこととか、過去のこととか。

 そういったしがらみの一切合切を無視して。

 俺はただ純粋に、俺という異質な存在を――認めてほしかった。


 まるで子供だ、と呆れながらも……彼女の温もりに包まれて、とめどない幸福に酔いしれる。

 どれだけの時間、そうして幼子のように甘えていたのだろうか。

 不意に冷静な思考を取り戻して、少しだけ名残惜しく思いながら、俺はアナから離れる。


「……大丈夫?」


 アナはわずかに頬を朱に染めながらも、眉尻を下げて尋ねてくる。俺は照れを隠すためにそっぽを向いて、それでも正直に答える。


「……大丈夫だよ。その……ありがとう」


 初めて俺という存在の異常性を認めてもらえたような気がして――何というか、救われた。

 こんな出会ってから小一時間ほどしか経っていない小娘にまさかここまで絆されるなんて、数時間まえの俺では想像すらしなかったはずだ。

 そんな自分の変化が可笑しくて、俺は思わず笑みを溢す。するとアナも柔和な笑みを返してくれた。まるで心が通じあっているかのような、恥知らずの錯覚が心地良い。


 それから改めてアナはベンチに腰を下ろし、先ほど買った缶コーヒーを啜り始める。どうやら猫舌らしく、多少冷めるのを待っていたらしい。

 しばらく会話らしい会話もなく、二人並んで缶コーヒーを傾けるだけの時間が過ぎる。

 しかしその沈黙は気拙いというより、むしろこの上なく心地の良い時間であり、初めての経験に俺は、微かな戸惑いとわずかな胸の高鳴りを覚える。


 そんな永遠に終わってほしくない、夢のように穏やかな時間は――やはりただの幻想で。

 不意に、缶コーヒーを飲み終えて一息ついたらしいアナが、「よし」と呟いて立ち上がった。


「――名残惜しいけど、わたしはそろそろ帰らないと」


 腕時計を確認すると、時刻は午後五時半を過ぎようとしていた。そろそろ西の空に一番星が輝き始める頃だろう。

 別れのときが来ることなんて、わかりきっていたはずなのに――俺は酷く狼狽してしまう。


「も、もう少し一緒にいられないか? せめて、あと五分でも――」


 未練がましく引き留めようとする俺。アナはそんな俺を黙らせるように、白い人差し指を俺の唇に押し当てる。


「ごめんね、イザヤくん。わたしも本当はもっとイザヤくんと一緒にいたいけど……無理なの」


 眉尻を下げて、彼女は微笑んだ。

 どうして、と問い質すこともできず、俺は言葉を呑む。アナが唇から指を離しても、俺は言葉を紡ぐことができない。

 彼女のその微笑みが、あまりにも悲しげに見えて――頭が真っ白になってしまった。


 ただただその場に立ち尽くしてアナを見つめることしかできない俺から、三メートルほど離れ、彼女は後ろ手を組んでくるりと振り返った。そして星宿の煌びやかな双眸で、真っ直ぐに俺のことを見つめながら彼女は告げる。


「なんか無責任なことたくさん言っちゃってごめんね。でも、全部本心だから。もう会えないだろうけど……わたしは、ずっとイザヤくんの味方だから。それだけは、忘れないでいてくれると嬉しいな。わたし、今日イザヤくんと出会えて、イザヤくんのことを知れて、良かったよ」


「な、んで――」


 なんでもう会えないなんて言うのか。このあとどこへ行ってしまうのか。

 聞きたいことは山ほどあるはずなのに、散り散りの思考が拡散して上手くまとまらない。胸が締めつけられるように苦しく、口の中がカラカラで舌が動かない。

 それでも彼女を求めるように、本能的に手を伸ばそうとする。

 そんな俺を見て――アナは再び悲しげに微笑んだ。


「実は――実は、わたしね――」


 そう少女が口にした次の瞬間――。


 ――

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