第一章 始まりの死 11
さすがの男たちも言葉を失う。おそらくようやく自分たちが《人ならざるもの》と対峙していることに気づいたのだろう。
それは、すべて人が一目見て本能的な嫌悪感と拒絶感を抱く異形――人類の天敵である《悪魔》の腕にほかならなかった。
男たちは唖然とした様子で、後ずさりをするように少しずつ距離を取っていく。予想外の事態をまえに、すでにアナのことは頭にないらしい。
だがそれでも――危機感を抱けない個体というのはいるもので。
「な、なんだてめえ! そんなハッタリ、怖くねえぞ!」
突然啖呵を切り、男たちの内の一人が、拳を固めて殴り掛かってくる。顔からは焦りと混乱が窺える。おそらくこの言いしれぬ
ダッシュ慣性を乗せた重たい一撃。当たればきっと、怪我は免れないに違いない。
だが――。
「うぐっ……!? ぐっ……がッ……!」
俺から五歩ほど離れたところまでやって来ると、男は急に苦しみだしてそのまま地面にくずおれた。仰向けの顔は白目を剥き、口からは泡を噴いている。
常軌を逸した光景に、しばしの沈黙が漂う。現実を受け入れるために必要な脳のブランクタイム。
やがてようやく自分たちが命の危機に瀕しているのだということを自覚した男たちは、情けない悲鳴を上げながら、アナを放り出し、代わりに倒れた男を引きずって走り去っていった。
俺は地面に落とした聖骸布を拾い上げて再び左腕に巻いていく。
日の届かない、薄暗く寂れた路地裏には、俺とアナだけが残される。再びしばしの沈黙。
「……あ、あの、イザヤくん……?」
「来るなっ!」
困惑しながらもこちらに歩み寄ろうとしたアナを、強い語調で拒絶する。びくん、と一度大きく震えてアナはその場に立ち尽くす。
驚いたような、悲しそうな複雑な表情を浮かべるアナに、俺はわざと突き放すように告げる。
「……見ただろ。俺の左腕は――《悪魔》なんだ。おまえも知ってるはずだ、《悪魔》は無条件に人類に害を及ぼすって。だから、傷つきたくなきゃ、さっさとどこへでも行ってくれ」
十メートルほど空いた間隔が、否応なく離れてしまった心の距離のように思えて、ちくりと胸が痛む。だがその痛みも――慣れたものだ。
手早く聖骸布を左腕に巻き終えてから、俺は何も言わずアナに背を向けて歩き出す。
これで――いい。
天真爛漫で、優しくて、意外と頭の回転が速くて、会話が楽しくて、可愛くて――人に愛されるために生まれてきたようなアナと俺とでは……元々生きる世界が違うのだ。
これ以上アナと関わっても――彼女のためにならない。
そう思って、心の中で見切りをつけて、納得したはずだったのに。
――不意に背中に飛び込んできた柔らかくて温かい感触が、すべての決意を忘れさせた。
「行けるわけないじゃん!」
背中に飛び込んできた何か――アナは、今にも泣き出しそうなくらい声を震わせて叫ぶ。
「そんな悲しそうな顔してどこか行こうとするイザヤくんを放っておけるわけないじゃん! イザヤくんの事情はよくわからないけど! それでもイザヤくんは、わたしを守ってくれたんだから! お礼の言葉も言わないまま別れるなんてできるはずないじゃん!」
「なっ……泣くなよ……」
動揺のあまりこの場にそぐわない、そんなずれた言葉しか出てこない。
ろくに回らない頭で、とりあえず背中にしがみついてくるアナを引きはがして向き直る。
アナは
「泣いてないよっ! これはその……目が乾いてただけだよっ!」
「小学生レベルの言い訳だ……」
「だ、だって! とっても怖かったんだから! イザヤくんが殴られて、わたしもう苦しくてつらくて……っ! イザヤくんが怪我しちゃったらどうしようってずっと心配で、そういうのが頭の中でぐちゃぐちゃになっちゃったんだから、しょうがないじゃん……っ!」
やはりアナは、あの状況でも自分のことより俺の身を案じていたらしい。
本当につくづく――変わり者だ。
半ば無意識に俺は右手でアナの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「ちょっ、やめれ! せっかくセットした髪が乱れる!」
「アホ毛じゃん」
「アホ毛じゃないよ!」
そんなやりとりをしていたら、何だか本当に――心が軽くなってきた気がした。
何か俺の現状が変化した、というわけではなかったが……それでも、このどこか母の面影を感じる少女にならばすべてを打ち明けてもたぶん拒絶されない、という確かな予感のようなものを抱いて。
俺は意を決してアナに語りかける。
「――少し、どこか落ち着けるところで話をしようか。もしも、おまえが良ければ、だけど」
「悪いわけないじゃん」
当然、とばかりにアナはドヤ顔を浮かべて俺を見上げる。
「そもそもわたしはまだイザヤくんにエスコートされてる途中だからね。どこへでもついていくよ」
その愛らしくも小憎たらしい顔を見ていると、まるで心の奥底で凍っていた感情が蕩かされるような気持ちになり。
俺は知らず知らずのうちに小さな笑みを浮かべながら、アナの手を引いて歩き出していた。
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