第一章 始まりの死 10

 一人で男子中学生のような恥ずかしい葛藤をしている横で、アナは走り去る女児に手を振っていた。その背中を見送ってから、アナは俺に視線を戻す。


「っと、ごめんね。時間取らせちゃって。イザヤくん、ずっと黙り込んでたけど……怒ってる?」


「――い、いや、そういうのじゃないよ」


 俺は慌てて否定する。


「ただ……うん。アナの手際に見とれてた。脳天気な小娘だと思ってただけに正直感心した」


「何か少し気になる言い回しがあるね!?」


 耳ざとく突っ込んでから、アナは少し照れたように笑う。


「――でも、別にすごくはないんだ。ただ慣れてただけだし。それにわたしなんかよりも、あの子のほうがずっとすごいよ。あんなに小さいのに、痛くて泣き叫びたいのに、必死に我慢して。それって、ものすごくつらいことだから……」


 その何か引っかかる言い回しに俺は違和感を抱く。まるで彼女自身がいつも何かを我慢しているような――。

 どこか切なげな表情を浮かべるアナに、それを尋ねようか悩んでいたところで。

 俺の思考は、意識の外から唐突に、そして乱暴に投げ掛けられた言葉によって遮られる。


「おっ、お姉さんたちヒマしてんの? なら俺らと遊ぼうよ」


 驚いて声のほうに視線を向ける。するとそこには学生服を着崩した男が六人、下卑た笑いを浮かべながらたむろしていた。

 俗に言う――不良という存在。

 神智学院は、確かに人類叡智を学ぶことで人類存続の一助になるという崇高な目的を持った教育機関ではあるが、何事にも――例外はある。

 正規の道から外れ、集団化したアウトローは、ごく稀にハイソフィア能力者も混ざっていたりしてタチの悪い存在であり、この《人類最後の楽園》とさえ評される新宿特区においても社会問題の一つとされている。


 いつの間にか俺とアナは男たちに取り囲まれ、半ば無理矢理路地裏へと押しやられる。

 拙いな、と心が焦る一方、頭の片隅がどんどん冷えていくような感覚に襲われる。

 ――わかっていたはずだ。

 今日みたいな普通の、当たりまえみたいに楽しい日常は。

 俺みたいな人でなしには、享受する資格がないってことくらい。


 やがて男たちの一人がアナの美貌に気づいた。


「うお、よく見りゃすげえ美人じゃん! やべー、ラッキィ!」


 無遠慮にアナの顔を覗き込む。アナは不快そうに顔を顰めて、俺の制服をぎゅっと握る。

 やがてリーダー格の金髪男が、だらしなく口元を歪めながらアナの細腕を掴む。


「いいじゃん、そんなさかってんなら俺らも混ぜてよ。おねーさんみたいな美人なら大歓迎だよ」


「い、痛っ! やっ……やめてくださいっ!」


 不快感を露わにして男の手を乱暴に振りほどく。

 しかし、男たちはますます嬉しそうに、やるじゃん、などと嘯く。


「いいね、強気な美人は嫌いじゃないよ」


 言ってリーダー格の男は、顎で俺を指す。すると示し合わせたかのように他の男たちが俺を後ろから羽交い締めにした。ついでに一発殴られる。


「イザヤくんっ!」


 慌てて駆け寄ろうとするアナだったが、リーダー格の男に抱き留められて動きを封じられる。


「おっと、おねーさん。暴れないほうがいいよ。彼氏がもっと痛い目に遭っちゃうよ」


「やめてお願い! イザヤくんを放して!」


 アナの悲痛な叫びが、怒りというよりもどんどん脳の奥を冷却していく。

 次第に人間味を失っていく思考の片隅で、目の前の状況を観察する。


「よし、じゃあ、おねーさん。取り引きをしよう。おねーさんがこれから黙って俺たちに付き合ってくれるって約束するなら、これ以上彼氏は痛い思いをしなくて済む。でも、もし嫌だって言うなら――」


 リーダー格の男が再び俺に視線をくれると、今度はみぞおちを思い切り殴られる。


「――っぐ」


 激痛のあまり膝を突く。


「イザヤくんっ!」


 必死にこちらに手を伸ばそうと、アナはリーダー格の男の腕の中でもがく。しかし、すぐにそれも無駄と判断したのか急に大人しくなって声を震わせながら言った。


「……わ、わかりました……。付いていきます……だからもう、これ以上イザヤくんに痛いことしないでください……お願いします……」


「――契約成立だな」底意地の悪い嫌らしい笑みを浮かべてアナの肩に手を回す。「それじゃあ、おまえら行くぞ」


 言われて男たちも俺の元から離れていく。みんなでアナを取り囲みながら、品のない笑い声を上げて彼らは路地裏を進んでいく。

 痛みを堪えて歩み去ろうとする男たちの背中を見やる。男たちの隙間から垣間見えるアナは、頭を垂れ、酷く気落ちしている。その小さな背中を見ていたら――眠っていたはずの氷のように冷めた感情がゆっくりと目を覚ましていく。


 左腕が軋む。まるで負の感情を養分として肥大化していくように幻肢が脈動する。

 ドクン、ドクン、と自らが意思を持つように、左腕は主張する。

 やるしかないだろう。嫌われたくないという身勝手な考えで、おまえは彼女を見捨てるのか。


 ……わかってる。ああ、わかってるよ、そんなことは。


 今この状況において、俺には選択肢なんて一つしかないことくらい……わかってる。

 ただそれがどうしてもつらく思えてしまったから、逡巡してしまっただけで……。

 楽しかった時間に見切りをつけるように、苦痛さえも忘却して俺はゆらりと立ち上がる。


「――待て」


 俺の言葉に、男たちはぴたりと足を止めて振り返った。中心にいたアナは、怯えと驚きが綯い交ぜになったような複雑な表情で俺を見つめる。


「――悪い、ちょっとよく聞こえなかったんだが……何か言ったか?」


 リーダー格の男が一歩こちらに進み出て尋ねる。威圧的な、問答無用で相手を黙らせる言葉。しかし、一切動じることなく俺は応える。


「そいつから、手を放せ」


 一語一語、言い聞かせるようにはっきりと告げ――俺は制服の左腕を捲る。彼らの前に、包帯を模した聖骸布が露出した。

 ただそれだけで――周囲の温度が低下したような錯覚を受ける。

 だがそんな些細な変化に気づくはずもなく、男たちは楽しげに笑い出す。


「なんだおまえ。厨二病ってやつかよ。マジウケる」


「ひゅーっ! 彼氏カッコいーっ!」


「せっかくだから何かやってみろよ、ほら、ハッタリか?」


 知性も、危機感の欠片もなく、男たちは囃し立ててくる。

 それと対比するように、アナは真剣な様子で叫ぶ。


「お願いイザヤくん! じっとしてて! わたしのことは気にしなくていいから! イザヤくんが痛い思いするのなんてこれ以上耐えられない!」


 ああもう。本当に……どこまで純真で優しい娘なんだ……。

 できることならば、アナには普通の男として見てもらいたかったけど……それもここまで。

 俺の本性を知ったらきっと、さすがのアナも怖がって逃げて行ってしまうはずだ。

 でも――それでも。アナが今この状況で救われるのであれば、それはきっと、価値のあることだって思うから。


 ――俺はそっと、左腕の聖骸布を解いていく。


 明らかに空気の密度が変わった。まるで高い粘性を持ったかのように空気が身体中に絡みついて、言いしれぬ重圧感プレッシャを覚え始める。

 一巻き、二巻きと、聖骸布が解かれていくにつれ、ますます重圧感プレッシャは強くなる。


 その段になりさすがに男たちも異変を感じ始めたようだが、それでもまだ命の危険までは感じ取れていない様子で、周囲をきょろきょろと見回している。

 愚鈍であることは――時に死に瀕する。

 そうして、最後の一巻きがスロゥモーションのようにゆっくりと地面へと落ちていき。


 ――通常の二倍ほどの大きさの、漆黒の、あまりにも禍々しい異形の左腕が晒された。

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