第一章 始まりの死 09
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特に目的もなく、俺たちは商業地区の付近をうろつくことにした。
駅からほど近いこの辺りは、かつて隆盛を誇った全盛期の新宿を彷彿とさせるほど人々の活気に溢れている。
様々な店舗が軒を連ねるその光景は、初めて見る人の目には新鮮に映るのだろうか、とアナを見ると、予想を上回るレベルで双眸を煌めかせ興奮した様子だった。
「うわあ、すごいねえ……っ! これが新宿特区かあ……っ! 目移りしちゃうね!」
「あんまきょろきょろしてると、お上りさんだと思われるから少し落ち着け」
はしゃぐアナを窘めつつ、俺は雑な案内ながらも喜んでもらえて少し嬉しく思う。
俺自身、腕のこともあり、あまり人の多い場所には興味が持てないでいたが、こうして喜び勇むアナと並んで歩くと、いつも色あせて見える町並みも楽しく見えてくるから不思議だ。
「……それにしても、そんなに喜ぶっておまえ本当にどこから来たんだ? 見たところ、ここほどじゃないにせよ、ある程度栄えたところの生まれだと思うんだが」
アナの小綺麗な格好から、そこそこの上流階級出身であることが窺える。そしてこのご時世、そんな上流階級はそれなりの大都市にしかいない。少なくとも、食うや食わずやの廃村出身ということはないはずだが……。
そんな当然の質問に、アナは少しだけ逡巡してから答える。
「えーっと、その……わたし実はこれまで海外に住んでてさ。だから、こういう大都会って初めてで……」
「ああ……なるほど」
海外から来たのであれば、たとえ大都市の出身であっても、この人類最後の楽園とさえ称される新宿特区の文化レベルには驚くだろう。日本にもまだ京都や大阪にはそれなりの都市が残っているらしいが、さすがに新宿特区とは比較できない。今さらながらアナは見た目も日本人離れしているし、初めからその可能性を考えなかった自分の浅慮さに少し呆れる。
「ならもういっそ特区に住んじゃえよ。ここは世界一安全な町だぞ」
「おー、安全は何にも代えがたい魅力だねえ。でもさ、実際問題、そういう大都市はそれなりに《悪魔》の対策とかされてて比較的安全だから人が集まってるんでしょ? ならさ、それ以外の場所にはもう人は住んでないの?」
「――いや、そういうわけじゃないよ。元からあった小さな町や村には今も人が住んでるし、そこそこ流通も生きてる。ただ、《サタナエル事変》で世界の人口が十分の一にまで減ってるから過疎化が加速する一方だし、おまけにちょいちょい《悪魔》が出現するせいで流通も安定しないから、必然的に寂れてる感じだな。それでも元の土地に住み続けるのは……たぶん、離れられない理由があるんだろう」
それは金銭的なものであったり、あるいは意地のようなものであったり、それぞれ異なるのだろうけれども……全国民を都心部で受け入れられない以上、致し方ないという部分は少なからずある。
だから俺たち天使科の人間は、一刻も早く彼らがどこででも安心して暮らせる世界を取り戻すことを目標としているわけだが……それもハイソフィアを持たない俺には関係のない話だ。できることなら俺だって多少は世界の将来のために働きたいが、無理なものは無理なのである。
後半の独白が聞こえていないアナは、感心したように「はええ」と声を上げている。
それにしても、こんな現代世界の基本すら知らないとか、こいつ箱入りのお嬢様なのか?
突っ込んでみようとしたところで、早々に興味の対象をほかへ移したアナは、指をさしながら声を弾ませる。
「あ! あそこペットショップじゃない? イザヤくん! 行ってみようよ!」
「――わかったから。どこへでも行ってやるから引っ張るな。転ぶぞ」
すぐに気持ちを切り替えて呆れを返す俺に、アナはしたり顔を浮かべて言う。
「ふふん、たとえ転んでも、大丈夫! アナちゃん、怪我に慣れてるからね!」
「どんな自慢だよ。まずは転ばない努力をしてくれ……」
再び呆れる俺の腕を引きながら、アナはずんずんと進んでいく。
そうしてペットショップの目前までやってきたところで――転んだ。
ただしそれは俺やアナのことではなく。
突然俺たちの横を走り抜けた小学校低学年くらいの女の子が、何故か俺たちの前で蹴躓いて――転んだ。
勢い余って、女児は盛大に地面と激突する。慌ててアナが、そしてわずかに遅れて俺は女児に駆け寄る。
「だ、大丈夫? 怪我してない?」
アナは優しく声を掛ける。女児は最初、何が起こったのかもわからない様子でぽかんとしていたが、転んだままアナの顔を見上げて、目元に涙を浮かべる。
「…………いたい」
「ん! そりゃ痛いね! ちょっとお姉さんに見せてね」
アナはそっと慈しむように女児の身体を仰向けに起こす。見ると左膝を地面に擦ったらしく血がにじみ出していた。見ただけで痛そうだった。
「……うん、骨とかは折れてなさそうだ。とりあえず、少し場所を変えようか。イザヤくん、悪いけどこの子抱っこできる?」
「あ、ああ。任せろ」
アナに言われるまま、女児をお姫様抱っこの要領で抱きかかえ、通行人の邪魔にならない場所まで移動する。その間も、女児は目元に涙を浮かべながらも決して泣き叫ぶことはなかった。大したガッツだ、と内心で感心する。
人通りの少ない道の端で女児をそっと下ろす。するとアナは、突然ジャンパースカートのポケットから、何やら液体の入ったポリビンと包帯と、五センチ四方程度のフィルムのようなものを取り出した。
「こんなこともあろうかと、救急治療セットを持ち歩いてるわけだよ」
「準備いいね、おまえ……」
そのジャンパースカート四次元何とかなの? という突っ込みを必死で飲み込む。
その間に、アナは慣れた手つきで女児の治療を手早く完了させてしまった。
それからアナは、涙を必死に堪えて口をへの字に曲げている女児の頭を優しく撫でた。
「――うん、よく我慢できたね。えらいえらい。ご褒美にアメちゃんあげよう」
またスカートのポケットから可愛らしく包装された飴玉を取り出し、女児の手にのせてやる。
「あ……その……ありがとう……ございます……」
消え入りそうな声で恥ずかしそうに俯いて告げる女児。アナはますます嬉しそうに笑う。
「おっ、ちゃんとお礼も言えるのか。えらいね。でも、危ないから今度から走るときは気をつけてね?」
「……はい。ごめんなさい……とても急いでいて……」
「いいよ、謝らなくて。それよりほら、笑って。そんな泣き顔してたらせっかくの可愛いお顔が台なしだよ? つらいときや、悲しいときは、無理をしてでも笑顔を作ってごらん。そうすれば、不思議と何だか楽しい気持ちになってくるから、ね?」
「――――っ!」
その何気なく女児をあやすアナの姿に、俺は幼い日に見た母の姿を重ね合わせて心底驚く。
それは特別珍しい教えの類いではないはずだ。だから、この状況でアナがそれを口にしても不思議というほどではない。
だがそれでも……俺は何となく気になってしまった。そして、先ほどアナから感じたどこか懐かしい印象の正体に思い至る。
そうか……。強引なところや笑い方みたいなささやかな所作が、母さんのそれと似ていたのか。
納得すると同時に恥ずかしさを覚える。いくらなんでも、今日初めて会った女の子に死んだ母親を重ね合わせるのはマザコンが過ぎるし、アナにも失礼だ。見た目も全然違う。
脳裏によぎった発想を振り払うように頭を振る。これ以上余計なことを考えるのは止そう。
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