第一章 始まりの死 08

「ところで、左手包帯巻いてるけど、大丈夫? 怪我してるの?」


「ああ、これは――」


 言いかけて、一瞬止まる。どこまで言うべきか。仮に本当のことを話したとしても、気味悪がられるのがオチだろうし……。

 出会ったばかりとはいえ、この暢気な少女に疎まれるのは……少しだけつらい。

 だから俺は適当なことを言って誤魔化すことにする。


「まあ……ちょっとした怪我だよ。もうほとんど治ってて痛みとかはないから大丈夫だよ」


「そっか、それなら良かった。わたし、自分がよく怪我するからそういうの敏感でさ。……うん、人間健康が一番だよね」


 そう言ってアナはにこりと笑う。それは何の変哲もない無垢な笑顔だったのだが……何故か一瞬だけどこか悲しげにも見えた。妙に気になったので少し尋ねてみようとしたが、それより早くアナは話題を変えてしまう。


「そういえばその御髪おぐし、格好いいよね。都会ではそういうの流行ってるの?」


「……へ? あ、ああ、これか。まあ……そうだな。流行の最先端ってやつよ」


 急な話題転換についていけず戸惑ったが、どうやら俺の髪のことを指摘しているらしいことがわかったので再び適当に誤魔化す。やはり左腕にせよ髪のことにせよ、初対面の人間には気になるらしい。ちなみに子供の頃は、この髪が嫌で何度も黒に染め直したが、その都度すぐにまた元の白髪のような銀色に戻ってしまうので今はもう諦めて放置している。

 アナは俺の嘘八百を真面目に信じきってしまったようで感心したように唸る。


「なるほど……都会の学生さんはおしゃれにも敏感なんだね。あ、一応もう一度言っておくけど、わたしのこの髪型もおしゃれだからね! 断じて癖毛放置してるわけじゃないから!」


「わ、わかったよ……謝るからそんな根に持つな……」


 急に詰め寄ってくるアナに、俺は若干身体を引いて謝る。どうにも間合いの取り方が独特で、さり気ない仕草にも一々ドキリとしてしまう。あまり良くない傾向だ。しかしアナはすぐに元の体勢に座り直して、くすくすと笑い始める。


「――イザヤくん、なんか可愛いね。ついからかいたくなっちゃう」


「……もしかして、俺のリアクションで遊んでる?」


「あー、ごめんてば、怒らないで!」


 焦ったように両手をわたわたと振り回してから、今度アナは照れたように笑う。


「なんかさ、イザヤくんとは初めて会ったような気がしないんだよね。ちょっかい掛けたくなるっていうか、放っておけないっていうか」


「――――」


 実は俺も密かに感じていた。記憶にはないが、アナからはどこか懐かしさを覚える。温かく、心地良い不思議な感情。その正体に思いを馳せていると……。


「でも、気のせいだよね。わたし、イザヤくんに会ったことないし」


 あっさりアナは前言を翻し、それから慈しみに満ちた不思議な笑みを浮かべて続ける。


「――でもイザヤくんに会えて良かった。最初は一人でこの町を歩くのかな、って切なかったからすごく嬉しいよ。この出会いはきっと、偶然なんかじゃないね」


「……いや、完全に偶然の巻き込まれ事故みたいなものだけど」


「もう、本当は嬉しいくせに。素直じゃないなあ」


 ニマニマと、アナはイヤらしく口の端を吊り上げる。面倒くさそうなヤツではあるが、悪いヤツではなさそうなので、俺としても対応に困る。ただ何となく気恥ずかしさを覚えて、俺は話題を変える。


「――で、おまえはこれからどうするんだ?」


「これから? んーそうだなあ……帰るにはまだ時間が早いし、少し町をお散歩してみようかな、って思ってる」


 まるで他人事のように、口元に人差し指を添えて虚空を見据えるアナを見て……俺はこれ見よがしのため息を吐く。


「……おまえさ、今追われてる身なんだからそんなことしてる場合じゃないだろ」


「うっ……それはそうだけど……」


 痛いところを突かれたとばかりにアナは言い淀む。


「で、でも……こんな機会もう二度とないし……もっとたくさん思い出作りたいし……」


「……それは追われてることを考慮してなおも大切なことなのか?」


 責めるような鋭い問い掛け。しかしそれでもアナは、怖ず怖ずと頷いた。

 大切なことならば――仕方ない。

 俺は再び深いため息を吐いてから、申し訳なさそうに俯くアナに告げる。


「――わかったよ。じゃあ俺も付いていってやる」


「えっ?」


 驚いたようにアナは顔を上げ、それから慌てて両手を振る。


「いや、いいって! これ以上イザヤくんに迷惑掛けられないって!」


「この状況で、ハイそうですか、っておまえを一人で行かせるほうが、心配すぎて逆に迷惑だ。それに仮にまた黒服連中に追われても、土地勘がある俺が一緒なら逃げやすいだろ。まあ……そもそも、おまえが俺に付いてきてほしくないっていうなら、快くこの場でおまえを見送ってやるけど」


 試すようにアナを見る。するとアナは頬を上気させてテーブルから身を乗り出して俺の右手を両手で取った。


「そんなことない! イザヤくんと一緒のほうがいいに決まってるでしょ!」


「なら決まりだ」


 右手でパーを作り、アナの両手をやんわりと躱してから、俺は何でもないことのように言う。


「時間は有限だぞ。さっさとそれ食べて出発しよう」


 アナの前に置かれた食べかけのパンケーキを指さすと、アナは花が咲いたようにふわりと笑った。


「――イザヤくん、優しいんだね」


「バカ言うな。俺は親切をしてるわけじゃないぞ。ただこのままじゃ寝覚めが悪いから、嫌々付き合ってやってるだけなんだからな。勘違いするなよな」


「あはは、イザヤくんツンデレー」


「ツンデレ違う。むしろ動物愛護とかそういうベクトルの感情だから」


「うんうん。そういうことにしておこうねー」


 何やら妙な誤解をしていそうなアナだったが、その顔に浮かぶ満面の笑みを前にしたらこれ以上訂正するのもバカらしくなってしまった。

 仕方なく俺は言葉を飲み下すようにティーカップを呷る。

 もうすっかり冷めてしまったブラックコーヒーは、いつもより少し苦い気がした。

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