第一章 始まりの死 06
「どうした?」
不審に思い問い掛けてみるも答えは返ってこず、少女は逡巡するように今走ってきた方向と俺の顔を見比べる。
何事かと訝しんで眺めていると、意を決したように強い視線で俺を見やってから、急に俺の手を引いて足早に歩き出す。
「お願い、こっち来て」
「お、おいっ」
不満の声も無視して小道の片隅へ俺を連行すると、少女はそこに捨て置かれた縦長のロッカーのふたを開けた。
「じゃ、中入って」
「は?」
「いいから、つべこべ言わずに中入って……っ!」
「な、何すんだ!」
有無を言わさずに、思いの外力強い細腕で俺をロッカーに押し込める。
え、なに? いじめなの? 俺、今初めて会った見知らぬ美少女にいじめられてるの?
混乱する俺の目を、至近距離から黄金色の双眸で見つめながら少女は囁くように言う。
「――お願いだから、これから何があっても喋っちゃだめだよ」
「は? 何を、」
不平の言葉を漏らす暇もあらばこそ。
少女は俺の文句を一蹴するかのように、問答無用で自らもその小柄な身体をロッカーに押し込めて――ふたを閉じた。
とても狭いロッカー内。必然的に少女と身体が密着する。
服の上からでもよくわかる少女の温もりと柔らかさ。おまけに密閉空間で至近距離のため、少女の甘い香りが脳髄を蕩かす。合わせて微かに消毒液のような匂いも立ち上る。
まるで湯あたりしたような酩酊感の中、それでも理性を保つために俺は上ずった声で尋ねる。
「お、おい。これは何の冗談――」
「シッ! 静かに」
上目遣いでそう言うと、少女はそのほっそりとした人差し指で俺の唇を塞ぐ。
さすがにこの状態では黙るほかない。状況に流されるまま、俺はこの天国のような地獄を受け入れる。
心臓が未だかつてないほどの早鐘を打っている。それが少女にも聞こえていそうで、そう思うと酷く恥ずかしい。
バレてないかな、と心配になりちらりと視線を下へずらす。
朽ち果てたロッカーの四方に空いた小さな穴から陽光が入り込み、内部は薄暗いながらもどこか幻想的に照らされている。
そんなこの世のものとは思えない情景の中で――少女は双眸を潤ませて俺を見上げていた。
熱い吐息を漏らしながら、わずかに上気して見えるその顔。
あるいは満足に身動きもとれない空間で、見知らぬ男と身体を密着させていることの羞恥心を少女も感じているのだろうか。
あまりにも庇護欲をそそるその姿を見て――本能的に少女を抱き締めてしまいたくなったまさにそのとき。
ロッカーの外からバタバタと複数の足音が聞こえてきた。誰かが近づいてくるらしい。
俺は、クラクラするのを堪えながら、ロッカーに空いた穴から外の様子を窺う。
すると目の前の小道を、黒服サングラスのガタイのいい男たちが走って行くのが見えた。
「くそっ……なんて早い逃げ足なんだ……っ!」
「絶対に何があっても逃がすな!」
「早く捕まえないと俺らもヤバい!」
そんな明らかに不穏当な言葉を吐き捨てながら、男たちは走り去っていく。
バタバタという男たちの足音が完全に聞こえなくなってから、少女は「よし」と安堵のため息を吐いてロッカーのふたを開けて外へ出た。
呆気にとられながらも、俺も外へ出る。
四月の優しい夕風に、心地良さそうに目を細めながら少女は再び口を開いた。
「いやあ、とんだ災難だったね!」
「いやいやいや! おまえが勝手に俺を巻き込んだんだろ!」
一体何なんだよ。どういう状況になったら、あんな明らかに堅気じゃない奴らに追われることになるんだよ。
心の奥底から湧き上がってくる突っ込み。しかし、それを口にするよりも早く、少女は拗ねたように唇を尖らせる。
「もー、巻き込んだなんて人聞きの悪い。元はと言えば、キミがたまたまここを通りかかったのが悪いんでしょ」
「そんなハイレベルな言いがかり、初めて聞いたわ……」
「まあまあ。終わったことをねちねちと言う男はモテないぞ」
言って少女は人差し指を立ててウィンクをする。
その天国的な可愛らしさに、さすがに二の句が継げずにいると少女は大きく伸びをした。
「一時はどうなるかと思ったけど、まあ、わたしに掛かればこの程度の困難、物の数じゃないって感じかな! ヨユーですよ、ヨユー!」
「そのわりには足ぷるぷる震えてるけど」
「こ、これは……そう! 久々に走って疲れただけだから! 運動不足だっただけだから!」
誤魔化すように、頬を紅く染めて少女は強く主張する。それから急に何かを思いついたかのように、手を叩く。
「そうだ! ねえ、キミ。もし良かったら、これからちょっとお茶でも行こうよ。走ったらのど渇いちゃった」
「……は?」
目が点。突然何を言い出すんだこの娘は。
呆れる俺に、少女は顔を輝かせ身を乗り出してくる。
「ねえ、いいでしょ? ついでにわたし、町歩くの初めてで右も左もわからないから、美味しいお店紹介してよ! その制服、神智学院の学生さんなんでしょ? お願い!」
「お願いって……。おまえ何か知らないけど連中から逃げてるんだろ? そんな悠長なことしてる場合か? そもそもなんで追われてるんだよ。怖いわ、俺を巻き込まないでくれよ」
そう言うと少女は一瞬、表情を強ばらせるが、すぐに破顔して、にへへ、と笑った。
「――大丈夫大丈夫、大したアレじゃないから」
そして少女はあっけらかんとそう言って、強引に俺の腕を取る。
「ほら、日が暮れちゃうから早く行こっ!」
「お、おい、引っ張るなって!」
たたらを踏みながらも俺は少女に合わせて歩き出す。なんで俺がそんな面倒なことを、という不満もなくはなかったが、二の腕のあたりに感じる魅惑の柔らかさがすべての不満をシャットアウトしてしまった。ずるい。やわい。気持ちいい。
それから不意に少女は何かを思い出したかのように口を開く。
「あっ、そういえば自己紹介もまだだったね。わたし、
少しだけ動揺しながらも、俺は平静を装って答える。
「俺は――四ノ森イザヤだ」
「イザヤくん……イザヤくんか。格好いいお名前だね」
そして金髪の少女――アナは、心底楽しそうに笑った。
「それじゃあ、イザヤくん。エスコート、よろしくねっ!」
その天の使いの如き満面の笑みを前に――俺はもうどうにでもなれ、とばかりに苦笑を浮かべることしかできなかった。
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