第一章 始まりの死 03


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 学院最上階の廊下を歩きながら――俺は周囲から向けられる奇異の視線に辟易する。

 今も上級生とすれ違ったが、明らかにこちらの様子を窺いながら、ひそひそと何やら話していた。俺自身はなるべく目立たないよう、ひっそりと生活しているつもりなのだが……ままならないものだ。せめてもう少し目立たない容姿ならどうにでもなるものを……。

 ふと窓に目を向け、そこに反射した自分の鏡像を眺める。


 黒髪の右側――鏡像なので実際には左側――にメッシュを入れたような白銀色のものが一房光っていた。比較的真面目な学生の多いこの神智学院では大変な悪目立ちをしている。おまけにこの左腕の包帯も悪い意味で噂が絶えず、結果俺はこの学院内でとても浮いた存在になっているわけだが……どれもこれもあの事故の後遺症みたいなものなのだから仕方がない。

 それから、自身への言い知れぬ劣等感から目を逸らすように――窓の外へ焦点を合わせる。


 この辺り――東京都心、旧新宿区付近は、ここ数年一気に進んだ都市開発で随分と様変わりしてしまった、と少し感傷的な気持ちになる。

 十年まえのあの日――荒野になってしまったこの一帯が、ここまで短期間に盛り返すことができたのは、ひとえに人類の意地によるものだろうけど……。絶対に勝ち残ってやる、という強い生存の執念は、泥臭いながらも確かな希望であり、俺はそんな人類のひたむきさが嫌いではない。

 できることならば、もう少し俺も人類の生存に貢献したいところではあるのだが……まあ、そう思いどおりにならないのが人生というもので。


 わずかな自己への失望と諦観を抱きながら、俺は到着した学長室の扉をノックする。いつもどおり返事はない。おそらくまた研究に没頭していて気づかないのだろう。呆れながら、俺は扉を開いて中へ入る。


「――来たよ、ドク」


 部屋の主――この神智学院の学長にして俺の保護者でもあるおりがみエカテリーナに声を掛ける。

 しかし、学長室に檻神の姿は見当たらない。たぶん隣の彼女専用研究室ラボのほうだろう。勝手知ったる何とやら、俺は研究室ラボへのドアを潜る。


 狭い室内には、何の用途で使うのかもわからない最新鋭の機械類が所狭しと並べられ、そこかしこに設置された無数のディスプレイのバックライトは、仄暗い照明代わりに辺りを照らしていた。

 その研究室ラボの隅で――この辛気くさい部屋の主は、一心不乱に何かの書類を読み耽りながらぶつぶつと独り言を呟いていた。


「――しかしこの符合はできすぎているな……師匠の言うとおり、やはりこの進化には何か致命的な見落としが……だが上層部が認めるはずもないし……せめて《コア》だけでも回収できれば……」


 何やら忙しそうだが、俺も呼ばれた身なので、やむなく彼女の思考を中断すべく、開け放ったドアをわざとらしくノックして声を掛ける。


「おーい、ドク。忙しいならまた今度にするけど?」


 すると檻神は、驚いたようにすごい勢いで顔を上げ、ようやく俺の存在を認めると、無駄に高めのテンションで破顔した。


「よく来たなあ、イザヤ! 息災にしていたか!」


 心底嬉しそうにそう言って、座っていた椅子から立ち上がると、俺を抱き締めてくる。

 その手放しの愛情がうざったくもあり、それでも少しだけ嬉しくもあり。

 やや複雑な心境で、俺はその折れそうに細い白衣の肩に手を置いて距離を取る。


「――たかだか一週間ぶりじゃないか。いつも大げさなんだって」


「大げさなものか。おまえもカナンも大切な家族だぞ。会えないと寂しいのだ」


 檻神は、口をへの字に曲げて眉尻を下げる。さすがにその顔を前にして突っ張るほど俺も子供ではないので、気恥ずかしさを誤魔化すために頬を掻きながら応える。


「……まあ、元気だよ。そう言ってくれるのも素直に嬉しい。カナンも、いつも感謝してる」


 カナン、というのは一つ下の俺の妹だ。十年まえの事故で両親を亡くした俺たち兄妹は、母

 の部下であったこの女性に引き取られることになったのである。


 ――檻神エカテリーナ博士。


 世界的な神智科学の権威であり、《人類最後の天才》とさえ呼ばれる人類の切り札だ。

 しかし、その天才性や数多の偉業とは裏腹に(あるいはこの上なくお約束に)、本質的には利己主義のマッドサイエンティスト。


 三十二歳独身。燃えるような紅蓮の髪といつも着ているくたびれた白衣が特徴の陰気な印象の女性で、今は俺たちの保護者ということになっている。やや過保護すぎるのが玉に瑕。

 親愛の念を込めて、俺は彼女を《ドク》と呼んでいる。

 俺の言葉に檻神は、「それは重畳」と満足そうに微笑む。


「まあ、積もる話もあるがとりあえず座れ。今、コーヒーを淹れてやろう」


 俺の返事も待たずに、檻神は学長室のほうへと消えていく。

 言われるままにソファに腰を下ろす。すぐに檻神は二つのマグカップを持って戻ってきた。一つを俺に渡してから、テーブルを挟んだ向かいのソファに自分も腰を下ろす。

 淹れたてのコーヒーを一口啜って、彼女は恍惚の息を吐く。


「はあ……生き返る……」


 それに倣い俺もマグカップに満たされたコーヒーを口にする。


「確かに美味いけど……それより忙しいみたいだけど大丈夫か? 何ならまた今度にするけど」


「全然。ちっとも忙しくないぞ。私はいつだって、イザヤとの約束が最優先だ」


「……ありがたいけどさ。それにしても少し根を詰めすぎじゃないか……? また徹夜?」


 決して消えることなく、目元に深く刻まれたクマを見ながら尋ねる。

 檻神は、「そうだなあ」と虚空を眺めながら指折り数えて答える。


「えっと、三徹くらいかな。実は、これまで抱えていたプロジェクトが急に失敗に終わっててんやわんやでな……。その代案を色々と検討していて……」


 そう言って檻神は大きくあくびをした。

 忙しそうというか、明らかにオーバーワーク気味で心配になる。いつまでも若くないんだから……、とは思っても言うと怒られるから黙っておく。代わりに気持ちばかりの、無理しないでくれよ、という労いを投げておく。

 心底嬉しそうに「うん」と頷いてから傍らに飲みかけのカップを置いた檻神は、「さて」と話題を変える。


「じゃあ、早速始めようか。腕まくって」


「――ああ」


 言われるままに俺は左腕をまくり上げ、包帯のような白い布が巻かれた左腕を檻神に差し出す。檻神は慣れた手つきで腕にバンドのような測定装置を付け、五指の先にはどこかの機械に配線が繋がっている洗濯ばさみのような器具を取り付けていく。

 すべての測定装置を設置し終えた檻神は、傍らのモニタを眺めながら左腕の触診を始める。


「――痛みはないか?」


「いや……大丈夫」


 右腕よりも感覚が鈍麻した左腕に意識を集中しながら、檻神の触診を見守る。

 しばらく黙って左腕とモニタを睨みつけていた檻神だったが、不意にどこか悲しげな表情を浮かべてぽつりと呟いた。


「――あれから十年か」


 そのわずかな言葉に込められたあまりにも膨大な想い。

 何とも言えない複雑な感情を抱きながら、俺はただ一言、そうだな、とだけ答える。

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