第一章 始まりの死 02



 ――……ィン……ゴーン……。


 遠くで、鐘の音が聞こえる。

 覚醒はいつだって、不快で唐突だ。

 長い刹那の夢から覚めた俺は、突っ伏していた机からむくりと身体を起こす。

 冷や汗と動悸が酷い。


 ああ、くそっ……またあの夢か……。

 夢見の悪さに内心で悪態を吐く。

 早く忘れてしまいたい思い出なのに、なかなか忘れられない。

 それだけ鮮烈な印象の出来事だったのか、あるいは決して忘れるなという記憶の楔なのか。

 いずれにせよ――最悪の気分であることに変わりはない。


 救いを求めるように、俺は左腕に目を向ける。そこにはちゃんと、白い包帯のような布を巻かれたいつもの左腕があった。軽く握ってすぐに開く。感覚はわずかに鈍いがちゃんと動く。

 少しだけ安堵すると同時に、また別の意味でそれが悩みの種であることを思い出して、気持ちが沈む。


 一度深く息を吸い、それから、はあ、と身体の裡に溜まった色々なものを吐き出す。

 それにしても――久々にあの夢を見た気がする。最近は全然見なくなってきていたのに……。

 言いしれぬ不安のようなものを感じたので、気分転換に周囲へ意識を向ける。


 見慣れた学院の教室。クラスメイトたちは、そこかしこで楽しげに会話をしながら荷物をまとめて教室を出て行く。右腕の時計を確認すると時刻は午後三時過ぎ。どうやら午後の講義を眠って過ごし、そのまま放課後になってしまったらしい。

 一瞬の状況判断。それだけで、まるで自分がこの当たり前の世界の一員であるかのように錯覚して、少しだけ気分が良くなる。

 変な姿勢で眠っていたせいか身体が痛い。凝りをほぐすため、大きく伸びをする。


「――おはよう、四ノ森くん。よく眠れたかしら?」


「…………あ?」


 不意に横合いから聞こえてきた、どこか非難じみた言葉。伸長運動を停止して顔を向ける。するとそこには、呆れたような表情を浮かべたクラス委員長の少女、雨宮シズクが立っていた。

 何故声を掛けられたのかもわからず、しかし、無視するのも悪いので最低限の態度で応じる。


「…………何?」


「何、じゃないでしょう」


 俺の返答に、シズクは腰に手を当てこれ見よがしにため息を吐く。


「あのね、四ノ森くん。午後の講義が眠たくなるのはよくわかるわ。でもね、私たちには将来人々を救うという崇高な使命があるんだから、眠いのくらい我慢してもう少し真面目に」


「……わかったわかった、俺が悪かった」


 諸手を挙げて無条件降伏を示しながらシズクの話を遮る。


「委員長が全面的に正しい。俺は心を入れ替えたよ。明日からは真面目に講義も受ける」


「そうやって心にもないことを――って、酷い汗ね。大丈夫? 具合悪いの?」


 シズクは急に心配そうな顔で、ブレザのポケットから白いハンカチを取り出し、有無を言わさず俺の額に当てる。

 さすがに恥ずかしいので、俺は身をよじる。


「――ただの寝汗だから大丈夫だよ。こんなもん袖で拭っとけばいいから」


「子供みたいなこと言わないの……ほら、これで良し」


 満足そうに頷いて、シズクはハンカチをしまう。そのどこか洗練された所作に一瞬見とれる。

 背中に届く艶やかな髪は濡れたように黒く。几帳面に切り揃えられた前髪の間隙から覗く眉は穏やかで、その顔は上品に整っている。

 雨宮シズクは、そんな日本人形のような少女だった。


 そのくせ世話焼きな上にとてつもないお節介で、何かにつけ落ちこぼれの俺に絡んでくるのだからやりにくいったらない。

 シズクは両手を腰に当てながら、説教をするようにこちらへ身を乗り出す。


「……キミね。そもそもただでさえ実技が苦手なんだから、座学までそんな調子だと本当に落第になるわよ。お願いだから、私のクラスから落第者を出すなんて不名誉なことは勘弁して」


「――まあ、そのときはそのときだろ」


 内心の動揺を隠すように、俺は苦笑を浮かべて肩を竦める。


「それに、もしそうなったとしても、委員長の責任じゃないだろ。そもそも俺がここにいること自体が間違ってるんだから」


「――そいつの言うとおりだぜ」


 唐突に、嘲笑混じりの声が飛んでくる。声のほうへ視線を向けると、茶髪にピアスのやや軽薄そうな男が立っていた。クラスメイトだと思うが名前は覚えていない。

 男は意地の悪い笑みを浮かべながら、許可もなく俺とシズクの会話に割り込んでくる。


「委員長もこんなヤツに絡むだけ時間の無駄だぜ」


「……あのね、鷹無たかなしくん」


 シズクはわずかに不快を滲ませた半眼を向ける。


「そういう物言いはやめなさい。四ノ森くんは大切な私のクラスメイトよ。もちろん、キミもね。大切なクラスメイト同士がいがみ合うのなんて見たくないわ」


「いがみ合うなんてとんでもない。そもそも眼中にすらないよ」


 その男――鷹無くんとやらは、俺を睥睨しながら鼻で笑う。


「学長の知り合いだか何だか知らないけど、おまえみたいな無能がこの栄えある《天使科》に所属してること自体が不愉快なんだよね。お優しい委員長は違うのかも知れないけど、そう思ってるヤツは多いぜ」


「――っ! キミねえ……っ!」


 明確な怒りを滲ませるシズク。しかし鷹無は、おーこわ、と冗談めかして続ける。


「怒るなって。事実を言ったまでだ。それにさ、はっきり言って迷惑なんだよね。不気味な《死神》が近くにいると、いつどんな害を被るかって――」


 皆まで言い終わらせるまえに、そしてシズクが本格的に怒り出すまえに。

 俺は、ガタンとわざとらしく椅子を鳴らして立ち上がった。

 それだけで、びくんと目の前の二人は、怯えたように身を竦める。

 その動作に一抹の寂しさを抱きながら、それを悟らせないように俺は笑みを浮かべる。


「いや、正論だよ。委員長が怒るようなことじゃない。他の連中が俺を面白くないと思ってるのは事実だし、おまけに実力も人望もある人気者の委員長が俺に絡むのを不快に思ってるヤツがいるのも知ってる。委員長は、少し自分の影響力を自覚したほうがいい」


 それから続けて、俺は左手で――包帯のような白い布がぐるぐるに巻かれた左手で、鷹無の肩を軽く叩く。再び、びくんと震えて顔を青くするクラスメイトに俺は微笑みかける。


「よく言ってくれたな。俺も委員長に絡まれていい加減うんざりしてたんだ。もう俺に絡んでくるな、っておまえからも言っておいてくれ」


 それで話を切り上げ、俺は中身のほぼ詰まっていないバッグを手にして歩き出す。


「ちょ、ちょっと待って四ノ森くん! まだ話は――」


「悪いな、委員長。学長に呼ばれてるんだ」


 引き留めるシズクにそう言い捨ててから、俺は教室を後にした。

 胸の奥底から湧き上がったわずかな後悔を振り払うように、俺は足早に廊下を進む――。

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