そして二ヶ月後
――遊園地の一件から、二ヶ月ほどの時が流れた。
それはつまり、俺の右腕が折れてから約三ヶ月経ったということ。
七月十日。この日俺は右腕のギブスを外した。それはつまり、俺の右腕の完治を意味する。
「――はい、今までお疲れ様でした。とりあえず、これで一応は完治したことになるね。どうかな、痛みとかはあるかい?」
「いや、特には」
病院の数ある診察室の内の一つにて、初老の男の先生の問いに俺はそう答えた。
ギブスを外して久々に外気に触れた右腕は、少し変な感じがするが試しに軽く動かしてみても特に違和感はない。骨折は後遺症が残る場合もあるという話を聞いていたが、どうやらそういったことはないみたいだ。
唯一問題があるとすれば、それは右腕がとてつもなく臭いこと。まあずっとギブスを付けたまま過ごしていたから、当然のことではあるが。……とりあえず、帰ったらまずは右腕を洗おう、絶対に。
「そうかそうか、それは良かった。やはり若い子は治りが早くていいねえ。私ぐらいの年になると、骨折なんて簡単に治るものじゃないからねえ」
「はあ……」
初老の先生の言葉に何と答えていいか分からず、曖昧な返事をした。
「良かったですね、七倉君。右腕が完治して」
側で控えていた倉敷さんが、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「ああ、ありがとう倉敷さん。これでもう倉敷さんに迷惑をかけないで済むよ」
「そう……ですね」
「…………?」
少々暗い面持ちになる倉敷さん。どうしたんだ、調子でも悪いのか?
「おほん。二人共、イチャついてるところ悪いけど、話を続けてもいいかな?」
「いや、別にイチャついてなんかないですけど……」
「とりあえず今回で君の腕は完治したわけだけど、もし今後日常生活を送る上で違和感を感じたらすぐに病院に来なさい。いいね?」
「はい、分かりました」
先生の忠告に頷いてから、診察室を出る。その後は、今回分の診察代を払ってから病院を出た。
外に出ると、空は茜色に染まっていた。すっかり夕方と呼んでいい時間帯だ。
俺たちは学校が終わってから直接ここに来たから、今の時間は大体六時前後ってところか。
それにしても四月からずっと通院していたが、終わってみると意外と呆気ないものだ。リハビリが大変だったのも、今となってはいい思い出だ。
「さてと……それじゃあ帰るか。倉敷さんは、どこか寄りたいところとかあるか?」
「特にありません」
「そうか。なら、このまま家に戻って倉敷さんの荷物を取りに行くか」
この後の予定は決まっている。一緒に家に戻って、倉敷さんがウチに持ち込んだ私物を全部回収する。
そして倉敷さんには、そのまま自分の家に帰ってもらう。
何だか追い出すような気がしないでもないが、元々そういう話だったのだから仕方ない。
彼女がウチに滞在していた理由は、利き手の使えない俺の身の回りの世話をするため。その理由がなくなってしまった今、最早倉敷さんはウチにいられない。
まあ、倉敷さんも三ヶ月も俺の世話を休むことなく続けていたんだ。内心俺の世話から解放されて嬉しいだろう。
そこまで考えて歩き出した俺を、倉敷さんが呼び止める。
「待ってください、七倉君。一つだけお願いがあるんですけど、家まで手を……繋いでもいいですか?」
「え……?」
「ダメ……ですか?」
「いや、別にダメってわけじゃないけど……」
今の完治した俺を相手に、倉敷さんがわざわざ手を繋ぐ必要なんてない。それなのに、この申し出はいったいどういうことだ?
考えてみるが、答えは一向に出ない。そもそも、俺が少し考えたくらいで答えが出るのかも謎だ。
「……どうして、俺なんかと手を繋ぎたいんだよ? 俺の右腕はもう完治したから、わざわざ手を繋ぐ理由はないだろ?」
だから、訊いてみることにした。
「私が七倉君と手を繋ぎたい……というのでは、理由にはなりませんか?」
「…………ッ!?」
頬を夕日以外の理由で朱色に染めながら出てきた倉敷さんの言葉に、俺は心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
バクバクと激しく脈を打つ心臓の鼓動が、嫌でも耳に響いてくる。
意味が分からない。どうして倉敷さんは俺なんかと手を繋ぎたいんだ?
倉敷さんの言葉の意図が分からず首を傾げていると、倉敷さんは表情を暗いものへと変えた。
「……やっぱり、ダメなんですね。そうですよね、私なんかと手を繋ぐなんて骨折でもしてない限りはしたくなんて――」
「そ、そんなことはない!」
「ならいいんですか?」
「そ、それは……」
ここでダメと言ってしまうのは簡単だ。何より、彼女との関係も今日でおしまい。今後ある程度距離を保った付き合いをするためには、ここは断るのが正解。
そのはずなのに、
「……分かったよ」
口をついて出た言葉は、俺の考えに反するものだった。
「ありがとうございます、七倉君!」
倉敷さんは華のような笑みを浮かべ、流れるような動作で俺の左手を握り締める。なぜか、彼女の握り締める力はいつもより強かった。
「倉敷さん、少し力を抜いてくれ。手が痛い」
「ご、ごめんなさい。つい……」
謝罪しながら、倉敷さんは俺の言う通り力を緩めてくれた。
七月にもなると気温は上がり、外にいるだけでじんわりと汗が吹き出してくるはずなのに、倉敷さんの手は汗一つかいたおらず、微かにひんやりと冷たくて気持ち良かった。
もちろん恥ずかしいから、絶対に口にはしないが。
「それでは七倉君、家に戻りましょうか」
そう言って、倉敷さんはいつも通りの軽い足取りで歩き出した。ただ今日の彼女の移動速度は、心なしかいつもより遅いような気がする。
それがまるでこの時間を噛み締めるかのように感じられたのは、俺の気のせいだろうか?
どういうつもりなのか気になったが、隣を鼻歌交じりに歩く倉敷さんの嬉しそうな横顔を見ると何も言えなくなってしまった。
――病院から自宅までの道のりは大体二十分ほど。空が少し暗くなり始めた辺りで、俺たちは家に着いた。
「私は荷物を取りに行ってくるので、少し待っててください、七倉君」
玄関でそう告げて、倉敷さんは一人靴を脱ぎ階段に向かった。
数分も経たない内に、倉敷さんはウチに来た時に使っていたトランクケースを引いてすぐに戻ってきた。
「随分と早かったな」
「数日前からある程度準備はしていましたから」
「そうか、なら暗くなる前に出よう。ここから倉敷さんの家までは、それなりに距離があるしな」
この時間帯だと、倉敷さんの家に着く頃には完全に日は沈んでいるだろう。女の子一人で夜道を歩くのは危険なので、俺も付いて行こうと思う。
「え……七倉君も付いてきてくれるんですか?」
「まあもう暗くなるし、一応な。……嫌か?」
「い、いいえ! そんなことはありません! 七倉君が付いていてくれるなら、とても安心です。ただその……」
倉敷さんはモジモジとしながら、どこか躊躇いがちな瞳で俺を見つめる。
「また手を繋いでもらってもいいですか?」
「……好きにしろよ」
「…………! はい、好きにします!」
倉敷さんは表情を綻ばせて、俺の手を取った。
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