学校一の美少女は宣言する
右腕を骨折した次の日の朝。右腕を吊るしているという点以外は特に変化のない朝だ。
いつも通り身支度を整えて朝食を摂り、家を出る。中学の時からずっと続けてきたことだ。普段の俺ならそつなくこなせる。
しかし、今の俺は利き腕である右腕を骨折している。とてもではないが、いつも通りとはいかない。
顔を洗ったり歯を磨いたりするのは片手でもできる。朝食も適当に買った惣菜パンなので、片手で事足りる。問題は服を着ることだ。
実際にやってみて分かったことだが、片手で着衣というのは意外と難しい。特にワイシャツのボタンは何度もイライラさせられた。
悪戦苦闘の末ボタンは全て止めることができたが、おかげで登校はいつもより遅れてしまった。
「はあ……」
いつも通りの通学路を歩きながら今朝の出来事を振り返り、思わず溜息が漏れる。これから二、三ヶ月ほどこんな生活が続くのかと思うと、気が滅入ってしまう。
「誰か俺の身の回りの世話、してくれないかなあ……」
ポツリと誰に言うともなく呟く。
一応候補として現在の俺の保護者がいるのだが、基本的に家にいないので無理だ。……いや、仮にいたとしてもどうせ俺の世話なんてしてくれないだろうな、あの人は。
そこまで考えて、不意に我が校一の美少女の姿が脳裏をよぎったが、すぐに思い直す。
確かに倉敷さんはこれ以上ないほどの適任だろう。本人も昨日何でもすると言ってたしな。俺が頼めば二つ返事で承諾してくれるだろう。
あんなに可愛い同級生が俺のお世話をしてくれるなんて最高だ。利き手の使えない不便な生活も、バラ色になること間違いなしだ。だがそれを実行すれば、俺の立場はとてもマズいものになる。
そもそも、倉敷さんは校内にファンクラブが存在するほどの人気者だ。学年を問わず、彼女に好意を抱いてる男子は多数いるだろう。
そんな彼女が特定の男子に入れ込めばどうなるか。その答えは火を見るより明らかだ。
何より広く浅くを主義とする俺としては、嫉妬なんかでせっかくコツコツ築き上げた交友関係に軋轢を生じさせるのはごめんだ。
「結局俺一人でどうにかするしかないのか……」
今後の不便な生活を想像して、またもや溜息。
よく溜息は幸せを逃すというが、幸せ皆無な現在の俺が溜息を吐いたところで、なくなるような幸せはあるのだろうか?
いつも通りの通学路でそんな益体もないことを考えながら、俺は学校へ向けて歩き続けるのだった。
学校に着いた俺は、下駄箱で上履きに履き替えてから自身のクラスである二年A組の教室に向かう。
普段通り教室内に足を踏み入れると、何人かのクラスメイトが、こちら――より正確には三角巾で吊っている右腕を見てギョっと目を見開いた。
まあ昨日まで元気だったクラスメイトが、次の日にはいきなりこんな姿になってたら驚くよな。
好奇の視線を浴びながら席に着く。
「なあ、どうしたんだよその腕?」
席に着いた俺に声をかけてくる男子生徒がいた。
「ちょっとドジやらかしてな……まあ気にするな。もう病院で治療は受けたし」
「それならいいけどさ……」
心配そうに俺の右腕に視線を送るこの男は
その理由はこいつの交友関係の広さにある。こいつは誰にでも分け隔てなく接する性格のため、友達はかなり多い。俺も広く浅くを主義としているので、友達の数は多い方だと思うが、目の前のイケメンに勝てるほどではない。正直に言って、俺は神座の下位互換だ。
しかもこいつの凄いところは、俺のように狙って友達をたくさん作ってるのではなく、自然とたくさんの人と仲良くなっていることだ。とてもではないが、俺にはマネできない。
いつか俺もこいつのような魅力のあふれる人間になりたいと思ってたりするが、当然本人には内緒だ。
「それにしても、新学年になってからまだ数日しか経ってないのに骨折なんて、お前も運が悪いな。完治まではどれくらいかかりそうなんだ?」
「大体三ヶ月くらいって言われたから……まあ七月ぐらいかな?」
「結構長いな……何か困ったことが俺に言えよ? できるだけ力になってやるからさ」
「おお、ありがとな」
流石はイケメン。一クラスメイトでしかない俺にここまで気を遣ってくれるとは……俺はこいつのこういうところを見習うべきなのかもしれない。
「……それにしても、遅いな」
「遅いって何が?」
神座の言葉に首を傾げる。
「我が校一の美少女様がだよ。いつもこの時間には教室に来て予習してるだろ?」
「……そういえばそうだな」
神座が言う美少女様というのは、当然ながら倉敷さんのことだ。彼女はいつもかなり早い時間に来て、その日の授業の予習をしている超優等生だ。俺も神座も去年も同じクラスだったが、彼女が遅れてきたところは今まで見たことがない。
「何かあったのか……七倉、何か知らないか?」
「……何で俺に訊くんだよ?」
「何となく」
随分と雑だな、このイケメン。
「俺は知らねえよ。今日は風邪でも引いて休みなんじゃないか?」
「倉敷さんって風邪引くのか?」
「そりゃあ引くだろ、風邪ぐらい。お前は倉敷さんを何だと思ってるんだよ?」
やれやれと神座の発言に呆れていると、
「――私がどうかしましたか?」
いつの間にやらカバンを片手にした本人がいた。
「おはよう、倉敷さん」
「はい。おはようございます、神座君。それに七倉君も」
「ああうん。おはよう、倉敷さん」
いきなり現れた倉敷さんに、少し驚きながらも挨拶を返した。
昨日あんなことがあったので倉敷さんが気マズい思いをしてないか心配だったが、どうやら俺の杞憂だったらしい。いつも通りの倉敷さんだ。
「それで二人は何の話をしてたんですか? 私の名前が出たので、とても気になるのですが……」
「いや、別に大したことじゃないよ。ただ普段なら早い時間に教室にいるはずの倉敷さんが見当たらないから、どうしたのかなあって思っただけだよ。なあ、七倉?」
「そうだな」
神座の言う通りなので同意しておく。
「なるほど、そういうことですか。気にかけてくださってありがとうございます。ですが、職員室に寄っていただけなので大丈夫です」
「倉敷さんが職員室に? こんな朝から珍しいな。何かあったのか?」
想像がつかないといった表情になる神座。
……もしかして昨日のことで呼び出されたのか? いや、だとしたら当事者の俺がいないのはおかしいな。
「はい。私用でちょっと……ところで神座君、少し話があるのですが付いてきてもらえますか? できれば二人きりなれるところだと嬉しいんですけど……」
「「「「…………⁉」」」」
倉敷さんの言葉に、俺を含め先程まで思い思いに過ごしていた二年A組の生徒の間でざわめきが生まれた。
だがそれも仕方のないこと。何せあの倉敷さんがイケメンの神座に話があると言ったのだ。しかも二人きりになれるところでと場所まで指定して。これだけの情報があれば、倉敷さんが何を話すつもりかなんてバカでも分かる。
「ええと……そろそろホームルームが始まるけど、それって今すぐじゃないとダメなやつかな?」
「はい、今すぐじゃないとダメです。そうじゃないと……」
そこでチラリと倉敷さんが視線を一瞬だけ俺に向けてきた。
「…………?」
倉敷さんが視線を俺に寄越したことに首を傾げる。ほんの一瞬のことだからたまたまかもしれないが、何となく気になる。
「分かった。話をする場所は下駄箱の方でどうかな? あと十分もしない内にホームルームが始まるから、今なら人もいないと思うし」
「そうですね、それでいいと思います。では時間もないので、早く行きましょう」
そして二人は一緒に教室を出て行った。
「「「「…………」」」」
後に残ったのは、静寂と呆気に取られた二年A組一同。
しかしそれもほんの数秒のこと。教室内はすぐさま喧騒に包まれた。
「ねえ、これってやっぱり告白だよね!」
「それ以外にないだろ!」
「神座君のこと狙ってたのに!」
「わ、我らの女神が……!」
皆驚いてこそいるが、二人が付き合うことそのものに反対してる奴はいないようだ。まあ、俺の目から見てもあの二人はお似合いだしな。
しばらく騒然となる教室内だったが、数分もしない内に二人が戻ってくるとすぐに静寂を取り戻した。
二人は教室を出た時同様、並んで教室に戻ってきた。しかも奇妙なことに、二人の様子は教室を出る前と何も変わっていない。とてもではないが、告白直後とは思えない。
……もしかして倉敷さんの話って告白じゃないのか?
他のクラスメイトたちも俺と同じ考えに至ったのか、訝しげな視線を二人に注いでいる。
こういった時は本人に訊くのが一番楽だろうが、話題が話題だけに憚られる。
そうこうしてる内に聞き慣れた予鈴の音が耳に届く。
全員クラストップの美形二人に後ろ髪引かれる様子ではあったが、予鈴が鳴ってしまったため各々自分の席に着く。
当然ながら倉敷さんと神座も自分の席に戻らなければいけないのだが……なぜか俺の方に向かってきた。
神座は席が俺の隣なのでおかしくはない。だが倉敷さんの席は前の方だ。授業中寝ててもバレない一番後ろの席にいる俺のところに来る理由はない。
「七倉、お前面白いことになってるな」
そして席に腰を下ろしていた俺の前まで来た神座が、ニヤニヤしながらそんなことを言った。
いったいどういうことなのか。神座の言葉の真意を訊ねようとしたが、俺が口を開く前に隣に立つ倉敷さんの方に向いてしまう。
「それじゃあ倉敷さん。さっき言ってた通り……」
「はい、お願いします。それと……こんなことを頼んでしまってごめんなさい。このご恩は必ず――」
「ははは、そんなことは気にしなくていいよ。俺も面白そうだから話に乗ったわけだからさ」
その言葉を最後に神座は自分の席に戻る――かと思いきや、机の横にかけてあったカバンを手に取り、前の方に行ってしまった。
そして神座の代わりと言わんばかりに、倉敷さんは手に持っていた自分のカバンを神座の机の横にかけて座る。
「……何やってんだ、倉敷さん?」
「見ての通り、自分の席に座ってるだけです。何か問題でもありますか?」
「……問題しか見当たらないのは俺の気のせいか?」
「気のせいですね。きっと七倉君は疲れてるんですよ」
そうかそうか、俺は疲れてるのか。確かに昨日はあんなことがあったから、今日の俺は少し疲れているのかも……、
「って、そんなわけあるか! そこは神座の席だぞ! 何で倉敷さんが座ってるんだよ!?」
危ない危ない。さも当然のような顔で言うものだから、うっかり騙されてしまいそうになった。
倉敷さんは、俺の言葉にやれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「だから先程から言ってるじゃないですか。ここが私の席なんですよ。さっき神座君に頼んで席を交換してもらったんです。もちろん、先生にも許可はもらってるので安心してください」
「……何でそんなことするんだよ?」
「……昨日の別れ際に私が言ったこと、覚えてますか?」
「ええと……ケガさせたお詫びに何でもするってやつのことか? でもあれは断っただろ?」
昨日これ以上ないくらい、きっぱりと断ったはずだ。
「そうですね。確かに昨日、謙虚な七倉君は断っていました。ですが、私がそんなことで諦めると思ったら大間違いです」
……倉敷さんは、自分がおかしいことを言ってる自覚はあるのだろうか? ……ないんだろうな。あったらこんな話はしないだろうし。
「私は昨晩、どうすれば七倉君に償うことができるか考えました。そして、一つの結論に辿り着きました。それは――七倉君の身の回りのお世話をすることです!」
「……お世話?」
「はい、お世話です。七倉君、片手が使えないと色々不便なことがあるんじゃないですか?」
「まあ結構な……」
倉敷さんの指摘は正しい。つい今朝、俺は身支度にかなり手間取らされたばかりだ。それを考えると、倉敷さんの申し出は悪いものではない気も……、
「って、いやいや! そんなのいいから!」
確かに倉敷さんが身の回りの世話をしてくれるなら、片手が使えなくても不便になることはない。むしろ役得だ。腕一本折れたぐらいの価値がある。
だが実際に倉敷さんのお世話になってしまうと、周囲に余計な誤解を与えかねない。下手をすると、これまで俺が頑張って積み上げてきた交友関係(主に男子)が塵芥となる。そんなのはごめんだ。となると、答えは一つ。
「倉敷さんの厚意はありがたいけど、俺は――」
「……それとも、私なんかにお世話されるのは嫌ですか?」
「うぐっ。そ、それは……」
瞳を潤ませながら、上目遣いで訊ねてきた倉敷さんに思わずたじろぐ。
……女ってズルいな。そんな顔で言われたら、男は断ることなんてできるわけがない。
「……分かったよ。右腕が完治するまでの間、よろしく頼む、倉敷さん」
「はい。よろしくお願いします、七倉君!」
観念した俺に、見惚れてしまいそうなほどの可愛い笑みを浮かべながら、倉敷さんは嬉しそうにそんなことを言った。
――こうして半ば強引にではあるが、倉敷さんは俺の世話をすることになるのだった。
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