ある司教の最期
闇夜の森の中を軽やかにティアナが駆ける。テネブーの力のおかげで視界は明瞭だ。
力を引き出してから感じていた湿気のように体へまとわりついてくる何かは感じなくなっていた。何者かが魔法の妨害を止めたのか、それとも範囲外に出たのかわからない。それでも身体能力も大きく上がっていた。森の中を駆ける程度で息が上がることはない。
唯一制御が大変だった暗い感情の湧き上がりはかなりましになっていた。これならば自分の感情を制御できる。
追いかける気配は四人のままだ。今も遠ざかろうと必死に走っているのだろう。しかし、足の速さはティアナと比較にならないくらい遅い。
「これなら追いつけそうですね」
走りながらティアナはつぶやいた。
今追っているのはヘルゲ達である。今回の襲撃後に再び狙われるとしたらどちらの方が困るか考えたとき、組織的に襲われる方が厄介と判断したのだ。そのため、個人で動くウッツとユッタは諦めた。
もう四人の走る音が聞こえてくる。直接その姿を目視できるまでわずかだ。
最初に見つけたのは雨水を吸って重たそうな外套を身に付けた魔法使いの一人である。次いで他の二人も視界に入った。
直後、ついに四人の先頭を走っているヘルゲの背中を見つけた。一瞬背後を振り返ったその顔が恐怖で引きつっているのをティアナは認める。
「はぁはぁはぁ! お前達、ティアナを止めろ!」
声をうわずらせて部下に指示するヘルゲの命令がティアナの耳にも入った。さすがに後方から近づいてくる足音に気付いたらしい。
命じられたヘルゲの部下の一人が急に立ち止まり、息を荒げながらも何やら口ずさんだ。すると半透明な円盤が現れる。外周部には不規則な髭が伸びたかのようになっており、かすかに見える渦と共に回転していた。
完成した半透明な円盤をその魔法使いはティアナへと撃つ。
「風の刃!」
通常なら見ることができない不可視の魔法を見てティアナは驚いた。風の精霊がよく使う攻撃だ。
音も立てずに高速で向かって来る刃を見てティアナはとっさに避けようとした。しかし、相手との距離が近く、更にちょうど木が邪魔になって避けられない。
「このっ!」
防衛本能が働いたティアナの体はとっさに手にした長剣で迫る風の刃を弾こうとした。しかし、すぐに後悔する。確かに風の精霊のものより出来は未熟だが、だからといって通常の武器で触れられるわけではないのだ。
焦るティアナはせめて体をひねって負傷を最小限にしようとする。ところが、半透明な円盤に触れた長剣は当たり前のように弾いた。
目の前の出来事にティアナの思考が一瞬停止する。
「え?」
「なんだと!?」
驚いたのはティアナだけでなく、風の刃を撃った魔法使いも同じだった。必殺の一撃として放った魔法があっさりと剣で防がれたからである。目を見開いて体が固まった。
頭の中が真っ白なのは両者同じだったが、走り続けるティアナと立ち止まっている魔法使いの距離は一気に縮まる。
いち早く立ち直ったティアナは考えるのを後回しにして再び剣を振るった。
「はっ!」
「しまっ!」
脇へと飛び込もうとした魔法使いだったが遅かった。とっさに体を庇った腕ごと剣で切られてしまう。
手応えだけで相手を殺したと判断したティアナは、立ち止まらずに倒れる魔法使いのそばを通り過ぎた。
わずかに開いた距離を再び縮めようとすると、今度はヘルゲのそばで走っていた二人が同時に立ち止まる。
「今度はなっ!?」
突然右足首を捕まれたティアナは驚いた。目だけ動かして見ると地面から土の腕が出て自分の右足を捕まれているのを知る。
足を引っ張られる形で急停止させられたティアナは顔をしかめた。右足を痛めていないか不安になりつつも前にいる敵を気にかける。
同じく立ち止まったもう片方の魔法使いは両の手のひらの間に火の玉を作り上げた。それをティアナへと向かって撃つ。
思わぬ連携攻撃に焦ったティアナだったが、風の刃と同じように火の玉も長剣で弾いた。
しかし、ティアナの右足は地面から生えてきた土の腕に掴まれたままである。これをどうにかしないと進めない。
「この!」
まずは引き剥がそうとするがまったく手を離してくれなかった。次いで長剣で斬りつけた。効果はあって掴む力は緩んだが、二本目が生えてきて左足首が掴まれる。
顔を上げると魔法使いの一人が両手を突き出していた。その表情は憎しみのこもったものだったが、同時につらそうでもある。あの様子だと土の腕は二本が限界なのかもしれないとティアナは予想した。
もう一方の魔法使いは再び火の玉を作りだして撃ってきたのでティアナは長剣で弾く。精霊を憑依させてもいない剣で魔法を防げる理由は未だ不明だが、とりあえず良しとするしかない。
こうして一旦は身を守ったティアナだが完全に足止めされてしまった。土の腕から逃れようとすると火の玉が撃ち込まれ、魔法の使えないティアナは離れた敵に攻撃できない。
気配を探るとヘルゲは遅いながらもこの場から離れつつあった。あまり時間をかけてはいられない。
そこへ再び火の玉を撃ち込まれたことでティアナは頭に血が上った。テネブーの力を更に引き出して吼える。
「あーもう鬱陶しい! この土くれがぁ!」
逆上したティアナは右手で握った長剣で目の前に迫った火の玉を叩き潰した。続いて返す剣で土の腕を地面ごと切り裂く。先程までの苦労が嘘のようだ。
危機を脱したティアナは前を向いた。剥き出しの敵意をそのままに魔法使い二人を見据える。
両者は一斉に呪文を唱えたが、同時にティアナも地面を蹴って走った。まず目指すは土の腕を操る魔法使いだ。
一気に間合いを詰めようとしたティアナは、最後の一歩を踏み込む前に右足を土の腕に掴まれた。これ以上は踏み込めないと判断するとその場で剣を突き出すように振るう。
「この!」
「がっ!?」
両手を切りつけられた魔法使いが悲鳴を上げて後ろに下がった。そこへ横から火の玉がティアナを襲う。
火の玉での攻撃によりティアナは土の魔法使いへの追撃を一旦止めた。しかし、それは一時的な効果しかない。
負傷したことにより集中力が切れたことで、ティアナの足首を掴んでいた土の腕がただの土に戻る。火の魔法使いから目を離すとティアナは再び走った。今度はどちらの魔法使いの行動も間に合わない。
ようやく充分に間合いを詰められたティアナが剣を振るった。
「死になさい!」
青い顔をしつつ再び呪文を唱えていた土の魔法使いをティアナは今度こそ斬り伏せた。
一対一になってしまえば後はティアナのものだ。火の魔法使いとの距離を縮める中で火の玉で攻撃されるが、簡単にはじき返すと一気に間合いを縮める。
「覚悟!」
「ひぃぃ!」
恐怖の声を漏らした火の魔法使いは逃げようとするが間に合わなかった。背中を切られて悲鳴をあげて倒れる。
「これであいつの手下は全員死にましたね。やっとですか」
吐き捨てるようにつぶやいたティアナは不機嫌な顔のまま走り出した。ヘルゲとの距離は再び離れてしまったが、もう邪魔者がいないのならば追いつける。
再びティアナは森の中を駆け出した。ヘルゲとの距離は急速に縮まっていく。走る足音が聞こえ、その背中が見えてきた。
体力が限界に近づいているヘルゲの後ろ姿をティアナは見つける。魔法が使えるのならすぐにでもその背中にぶつけてやりたいが、今はできない。
「いくら逃げても無駄ですよ!」
「ひぃ!」
息が上がっているのか悲鳴を上げているのかわからない声をヘルゲが上げた。普段配下の者と接している威厳はない。
「おのれ!」
まだティアナとの距離が少し開いているときにヘルゲが突然振り向いた。足下をふらつかせながらも何とか踏ん張り、黒い矢を撃つ。
ヘルゲから放たれた魔法の黒い矢を目にしたティアナは一瞬剣で弾こうと思った。しかし、直感で無視する。
急速に二人の間が縮まる中、黒い矢はティアナの額に命中した。その瞬間、周囲の銀髪が爆ぜたように広がる。
「はははっ! やった! はっ!?」
「死になさい!」
黒い矢を額に受けたにもかかわらずまったくの無傷だったティアナが、間合いに入ると長剣を振るった。
何が起きたのかわからないヘルゲは驚愕したまま固まっていたが、すぐに正気へと戻って剣を避けようとする。しかし、全力で後方に飛び退いたがわずかに右手をかすった。そのせいで転んでしまう。
「うわぁ!」
派手に転倒したヘルゲ派全身泥だらけになった。立ち上がろうともがくが疲れているために手足がうまく動いてくれない。
その間に、まったく疲れていないティアナが近づいた。四つん這いのまま必死に自分から逃げようとするヘルゲの背中に声をかける。
「こんなものと言ってしまえばそれまでですが、随分と情けない姿ですね。邪神討伐隊の頃に見たときは滑稽なくらい威厳に満ちていましたのに」
「はぁはぁ! おのれ、おのれおのれぇ! お前のような小娘にやられてたまるか!」
「でしたら、どのような方でしたら殺されても良いのです?」
「うるさい! 殺されてなるものか!」
大した会話はできないだろうなと持っていたティアナだったが、予想通り定型的な返しだったので失望した。
尚も逃げようとするヘルゲの尻をティアナは蹴り上げる。
悲鳴を上げたヘルゲが転がった。そしてあわてて振り返る。尻餅をついたままティアナを見上げた。恐怖と憤怒が混じった目を向けてくる。
「我が野望を奪っただけでも許せんのに、命まで取り上げようとは!」
「あなただって散々他人を犠牲にしてきたでしょう。自業自得、いえ、因果応報ですね」
「やかましい! 我らが神を
「殺してませんよ」
「そんな言い訳が通用するか! 直接手を下してはいなくとも、勇者に
「いえですから、テネブーは死んでいませんよ」
「は?」
告げられた事実にヘルゲが口を開けて呆然とした。
その様子を見ていて次第におかしくなったティアナの顔に笑みが浮かぶ。
「勇者があの大きなサイもどきを切り刻んでいましたから勘違いしたのでしょうけど、あれから魂だけが抜け出していたのです。もっとも人間には見えないそうですが」
「ははっ、人間に見えんのなら、お前も確認したわけではないだろう」
「暗闇の中でも昼間のように見える魔法を精霊にかけてもらっていたので、偶然見えたのです。精霊の視点ですと魔法や魂なんかもよく見えるようですね。あれには驚きました」
話を聞いていたヘルゲは口を半開きにしてティアナを見上げた。しばらく黙ったままだったが、かろうじて問いかける。
「では、我らが神の魂は一体どこに?」
「今は私に憑依してもらっていますよ。時間が経過して魂が修復すると悪さをするそうですので、この後封印しますけど」
「なん、だと?」
「そうそう、今まであなた達と戦ってきましたが、尊き主の像という魔法の道具で私達の魔法を妨害していましたよね? あれ、私にはむしろ力を与えてくれていました」
今度こそ何も言えなくなったヘルゲが呆然とした。
その様子を見たティアナはここまでだと判断する。
「では、さようなら」
「待て、待ってくれ!」
一歩踏み込んだティアナは長剣を振るった。切っ先がヘルゲの喉を切り裂く。血を口から溢れさせたヘルゲが濡れた地面に倒れた。
その死体を見ながらティアナは剣を振って血糊を払うと鞘にしまう。そして、ため息をつくと踵を返して歩き始めた。
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