狂う邪神
人間の十倍程度にまで膨れ上がった半透明の黒いものは巨大な口をあげて咆吼した。霊体であれ精霊であれ実世界で声を上げられるものは少ないが、この黒いものは桁違いの音量で地面を震わせる。
間近でその咆吼を聞いたティアナやヘルゲはその音量に耐えられずに耳を塞いだ。半人半魔に至ってはその場にうずくまってしまう。
人間同士の戦いどころではなくなってしまったティアナは、アルマとリンニーの二人と一緒に目の前の黒いものを見上げた。
前世の記憶を持つ者からすると、まるでサイを黒く大型化し、更に角を大きくして恐竜のように仕立て上げた姿に見える。
元は人間の姿だったらしいテネブー神が何をどうやってこんな姿になったのかはティアナ達にはわからない。ただ、このままこの場に残っていては危ないことだけは理解できた。
尚も咆哮を上げる巨大な黒いサイから目を離して、ティアナは仲間二人へと振り向く。
「二人とも、逃げますよ。リンニー、土人形はそのままここへ置いていきます。あれがこっちに興味を持ってくれたらそれだけ時間稼ぎができるので」
「うん、わかった~」
「それじゃ行きましょ」
逃げることに異存のないアルマとリンニーはすぐにうなずいた。
精霊によって視覚を確保したままだったおかげで、白い霧が辺りを覆っていてもよく見える。空が明るくなってきているので、日の出が近いことにも今気付いた。
あの巨大な黒いサイが叫んでいる間はまだ大丈夫だと信じ、ティアナ達は土人形の間を縫って盆地の北側へと向かう。西側は巨大な黒いサイとヘルゲ達に阻まれて通れないので、邪神討伐隊のいる方角へ退くことにしたのだ。
一方、ヘルゲは神が復活したと喜んでいるが、ユッタ、ウッツ、ラウラはそれどころではない。尚も雄叫びを上げる巨大な黒いサイに警戒する。
たまらずユッタが笑うヘルゲに声をかけた。
「ねぇ、あれ本当に大丈夫なの?」
「何を心配している。我らが神が再臨されたのだぞ!」
「あの四つ足の黒い半透明なやつが? 人間の姿じゃないけど」
「我らが神のお姿は変幻自在! かつては様々なお姿で我らの前へお出ましになられたのだ。人の姿だけではない!」
伝承か何かにこの姿もあるのかと一瞬納得したユッタだったが、問題は何も解決していないことを思い出した。続けて肝心なことを問いかける。
「それで、これからどうするのよ?」
「決まってる! 神と共に憎きルーメン教徒を打ち倒すのだ!」
「どうやって? あの神様はこっちの言うことなんて聞いてくれるの?」
「当然ではないか! おお、我らが主よ! あなたの忠実な僕の声をお聞きください!」
いきなりヘルゲが巨大な黒いサイに声をかけたことにユッタは驚いた。わざわざ得体の知らないものの気を引くなど正気ではない。
不安に思ったのはユッタだけではなかった。ウッツとラウラも同様である。
「おいおい、あれヤベェんじゃねぇのかよ。こっちの言うことなんぞ、聞いちゃくれそうにねぇだろ」
「ちっ、ここは逃げるべきだろ」
決断の早いラウラなどは後ろに下がり始めていた。周囲に気を配って退路を確認しようとしたが、霧に阻まれてほとんど何も見えない。
そこでラウラは気付く。なぜ霧で視界が利かないのに巨大な黒いサイだけははっきりと見えるのかと。
「おい、ウッツ。てめぇ、あのバケモンが見えんのか?」
「ああ? 見えるに決まってんだろ。いや、そりゃ変だな」
声をかけてきたラウラの姿が霧で見えないことで、ウッツも問われていることに気がついた。
「マジかよ。なんであれだけ見えんだ?」
「ちっ、厄介なモンが出てきたんじゃねぇのか?」
その厄介なものがヘルゲの声に応じてこちらへと振り向いたとき、ラウラはもうどうにもならない気がした。今のうちに盆地から離れるべきだと勘が告げている。
命あっての物種と踵を返そうとしたラウラだったが、それよりもはやく巨大な黒いサイの方が体の向きを変えた。ヘルゲに尻を見せて北側に向かって雄叫びを上げる。
一瞬、何が起きたのかわからなかったラウラだったが、とりあえず助かったらしいことだけは理解した。全身の力を抜く。
ウッツも巨大な黒いサイが体を動かしたときは緊張したが、興味は別のところにあると知って大きく息を吐き出した。濃い霧の中、ヘルゲとユッタのいる方へと向かう。
霧をかき分けてウッツが進むと、そこには呆然としているヘルゲと露骨に安心しているユッタがいた。
「ユッタさん、ヘルゲ様はどうしちまったんです?」
「さぁ? 神様に振られて頭の中が真っ白になってるんじゃないかしら」
遠ざかっていく巨大な黒いサイを驚愕の表情のまま見送るヘルゲに、ウッツとユッタがどう声をかけたものかと迷った。そこへラウラが遅れてやって来る。
「これからどうすんだよ? こう霧で何も見えねぇとなんもできやしねぇ。一旦引き上げるのかい?」
「あたしに言われてもね。決めるのはあたしじゃないし」
「ちっ、そうだけどよ。ただ、あの様子じゃ」
霧に紛れてあまりその姿が見えないが、先程からまったく動いていないことは三人ともわかった。周囲はかなり明るくなってきているのでもう日の出を迎えたことがわかる。
そのとき、突然ヘルゲが動き出した。周囲を見て三人を見つけると近寄って来る。
「今すぐ我が主を追いかけるぞ! ついて来るのだ!」
「待ってくださいよ! 邪神討伐隊の傭兵や土人形がまだ残ってるんですぜ?」
「傭兵など放っておけ! 土人形はユッタの配下で押さえ込め!」
「まだ残ってる土人形の数がそのままだと、あの子達みんな使い切っちゃうわよ?」
「構わん!」
「おいおいマジかよ。こんな霧ん中を行くのかい?」
「当然だ! 一刻も早く我らが主をお迎えせねばならん!」
これほど慌てているヘルゲを見るのは初めてだとユッタとウッツは驚き、無茶なことを言うとラウラは呆れた。ただ、あの巨大な黒いサイがこれからどうなるのかということが若干気になるのも確かである。
半ば仕方なくとはいえ、ヘルゲに命じられた三人は共に追跡することになった。
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音を立てないように土人形の間を通り抜けたティアナ達は盆地の北側へとたどり着いた。ひとまずは巨大な黒いサイから離れられて三人とも安心する。
しかし、そこまでやって来てアルマが顔色を変えた。
「そうだ、生き残ってる他の傭兵はどうするのよ?」
「放っておくわけにはいかないですよね。忘れてました。リンニー、土人形はしゃべることはできませんよね?」
「うん、さすがに無理かな~」
「でしたら、土人形に担いでもらったりして盆地から逃がすことはできますか?」
「それならできるよ~!」
今更盆地へと戻る気になれないティアナ達は土人形を使って傭兵を救出した。テッラに土人形を操ってもらい、生き残っている傭兵を担いで次々に盆地の外周へと向かう。
その様子を確認した三人は再びこっそりと北へ延びる谷間から脱出した。ところが、突如吠えるのを止めた巨大な黒いサイが三人へと向き直り、雄叫びを上げる。
「うわ~ん! 見つかっちゃったよ~!」
「二人とも、走りますよ! テッラ、土人形を出してください!」
ティアナがアルマとリンニーを促して走り出した。続いて二人も駆け始め、その後から土人形がいくつもせり上がってくる。
走りながらアルマが叫んだ。
「どうしてこっちに向いてきたのよ! あたし達が見えるの!?」
「透けて見えるということは、霊体か精霊みたいなものですよね、あれ! だったら、今の私達みたいに見えるのかも!」
「ウッツかラウラのところへ行けば良かったのに!」
帰ってきたティアナの言葉にアルマが不満をぶつけたが、現状は変わらない。
土人形を地面から生やしながら谷間を逃げるティアナ達を巨大な黒いサイが追いかける。地響きが鳴ってもおかしくない巨体だが、実体がないためまったくの無音だ。
では周囲にまったく実害がないのかということそんなことはない。巨大な黒いサイに触れた草木は枯れ、土人形は土に還っていく。
走りながら後ろの様子を窺ったリンニーが悲鳴を上げた。
「あ~! 土人形が戻っちゃう~!」
「何を言って、どうなっているのです、あれ!?」
「触れたら魔力を全部吸い取られているみたい~!」
「草木にも魔力があるのですか!?」
「そっちはたぶん生命力だと思う~」
ティアナから問われたリンニーが自分の見立てを伝えた。返答を聞いたティアナは青ざめる。
足止めくらいは期待していた土人形が役に立たないことを知ったティアナは、とりあえずテッラに作り出すことを止めさせた。
触れると自分達も生命力を奪われてしまうので、まずはそれを防ぐ方法を考えなければならない。しかし、非物理的な対処を考えるのは今回初めてなので、すぐには代わりの案を思いつかなかった。
試しにティアナは精霊達に尋ねる。
「アクア、テッラ! アルマとリンニーの姿を見えないようにできますか!?」
『水ノ中ナラデキル』
『デキルケド難シイ』
「ウェントス、私と他の二人の姿を隠せますか!?」
『てぃあな以外ハ無理』
憑依している風の精霊経由で返答を聞いたティアナが顔をゆがめた。三人全員でないと意味がないので姿を隠してやり過ごす案は採れない。
次いで火の精霊にも声をかける。
「イグニス、あの化け物を倒す火の玉は作れます!?」
『ヤッテミナイト、ワカラナイ』
初めて見る相手に対する当たり前の回答を聞いてティアナは言葉を詰まらせた。
いくら考えてもわからないので、ティアナは試しに攻撃してみることにする。あえて走る速度を落として最後尾に回り、長剣を肩に担いだ。
「イグニス、大きな火の玉であいつを撃ちなさい!」
『火ノ玉ヲ撃ツ』
長剣に宿っている火の精霊は命じられた通り直径がティアナ程もある火の玉を出現させた。そして、その火の玉は巨大な黒いサイに向けて剣先から放たれる。
火の玉の移動速度はそれほど速くないので、自分に向かって来るものに気付いた巨大な黒いサイは横へと飛んで避けようとした。ところが、火の精霊が撃ち出した火の玉を巨大な黒いサイへと進路を変える。
火の玉を避けきったと思った巨大な黒いサイは予想外の出来事に対応しきれない。火の玉が横っ腹にぶつかって大爆発する。
「ブアアアァァァァァァァ!!!」
大きな悲鳴を上げた巨大な黒いサイは耐えきれずに横倒れした。実体がないため倒れた音はしなかったものの、谷間の斜面に生えていた草木は触れたものから軒並み枯れてゆく。
振り返ってちらりとその様子を見たティアナは安堵の表情を浮かべた。とりあえず対抗手段があることに喜んだのだ。
「良かった! 一応魔法は通じるようですね!」
「あれで倒せたの?」
「そんな簡単に終われば良いのですが、難しいでしょうね」
精霊の力が通じることがわかったのは良いことだが、不完全とはいえども神を相手にするにはあまりにも準備不足が過ぎた。
少し走る速度を緩めてティアナがリンニーへと問いかける。
「リンニー、同じ神様なんだから、あなたが相手をできないのですか?」
「戦うのは苦手だから無理だよ~! わたし、慈愛の神様なんだから~!」
「お酒を飲んでる姿しか思い出せなかったから忘れてました!」
「ひどい~!」
どんな神様だったのか思い出したティアナはリンニーの返答に納得した。
そんな二人の会話にアルマが割って入る。
「ねぇ、どこまで逃げるのよ? さすがにずっと走りっぱなしは無理よ?」
「次に分岐路を見つけたら、そちらに入って歩きましょう。今は谷間を縫って北へと向かわないといけません」
「あんな馬鹿でかい図体じゃ、丘の上に逃げてもすぐに見つかっちゃうでしょうからね。上り下りする分だけ体力の無駄ね」
「もう追ってこないといいんだけどな~」
走りながら苦しそうに息をするリンニーがつぶやいた。ティアナとアルマもその意見には賛成だが、恐らく追いかけてくるだろうと内心で覚悟する。
そろそろ肺が苦しくなってきたティアナ達三人だったが、身の安全のために今しばらく走り続けた。
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