憑依? いいえ、解放です
太陽は稜線上からその奥へと沈もうとしており、空は茜色から藍色へと見た目を変えつつある。昼尚暗い森の中は闇に包まれ、夜行性の生き物が活発に動こうとしていた。森と同様に日中でも薄暗い崖下はすっかり真っ暗だ。そこへ川の流れる音だけが響いている。
川はわずかに蛇行しており、その内側にはわずかな河原が広がっている場所がいくつもある。石ばかりの河原で、日がほとんど差さないためか草木も生えていない。更に、切り立った崖下にあるため動物も寄ってこない場所だ。
そんな河原の一つに人が倒れるように引っかかっていた。旅装姿で全身ずぶ濡れだ。胸から下は川にまだつかっている。その人物の周囲には球体の浮遊物がいくつも漂っており、頻繁に接していた。そのため、その人物の近辺だけ明るい。
「う、うん。あ、れ?」
その人物、少女はゆっくりと目を開ける。いくつもの球体が発する淡い光で暗闇が削り取られた川と河原が視界に浮かぶ。
ここはどこか、なぜここにいるのか、自分は誰なのか、いくつもの疑問が少女の頭に浮かび上がる。徐々に意識が覚醒するに従って思考がまとまっていくが、同時に最初は疲労が、次に疼痛が全身に現れた。
「えっと、確か、うわ、ちょっ、痛い!?」
起き上がろうとして体に力を入れた少女は、疼痛だと感じていたのが激痛だと気付いて呻いた。体のあちこちが、鈍く熱を持ったように痛み、鋭く切り裂かれたようにも痛む。そのせいでまとまりかけていた思考が霧散した。
しかし、その痛みも徐々に収まってくる。精神的に余裕ができてきた少女が視線を動かすと、球体が痛む箇所に接すると楽になることがわかった。
「もしかして、治してくれてる?」
精霊石のある精霊の間いっぱいに漂っていた大小の精霊を少女は思い出した。同時に自分の名前も記憶の中から引っ張り出す。
精霊に傷を癒やしてもらっている間、ティアナはこれまでの経緯を頭の中で整理した。ウッツとその仲間に捕らえられかけて森の中に逃げ、最後は崖下に落ちたのだ。そんな目に遭った原因は、タクミから届けられた手紙の通り動いたからである。
「やっぱり罠だったかぁ。でも、なんで俺を騙そうとしたんだ?」
タクミはもちろん、タクミを操っている黒幕の思惑がティアナにはわからない。自分を罠にかける価値などないように思えるからだ。
いくら考えてもらからないので、ティアナはとりあえず行動を起こすことにした。
痛みが引いてきたので起き上がって座る。自分の体を見るとあちこち打撲跡や裂傷跡が点在していた。今はその部分を精霊が治してくれているので、徐々に傷は癒えてきている。
ティアナは顔を上げてみると、暗くなりつつある空が崖の壁面の向こうに見えた。自分の背丈の十倍以上はありそうな高さから突然落下したことをティアナは知る。
「あの崖から落ちて、無傷は考えられないよな。現に怪我してるし。こいつらがここまで治してくれたのか。でもなんで?」
自分が助かった理由はわかったが、助けてもらえた理由がわからない。他にも、なぜここにだけ精霊がこれ程集まっているのかもわからなかった。
周囲を見渡すと、自分の周りにだけ球体の精霊が集まっている。しかし、しばらく眺めていると、特定の方向からわずかずつ精霊がティアナに寄ってくることがわかった。
「あっちに何かあるのか?」
体の痛みもかなり引いたティアナは、動いても問題なさそうであることを確認する。そして、大丈夫だとわかってから精霊がやって来る方へと足を向けた。
河原は大きくない。ティアナはすぐに切り立った崖にたどり着いた。精霊は身長の倍くらいの高さにある穴から出てきている。今もティアナが見ている前で一つの球体が現れた。
既に河原にいた精霊はティアナについて来ている。いまだに体を治してくれている精霊もいる中、上の穴を見ながらティアナはつぶやいた。
「あそこまで登るのか? え、これを?」
真正面にある岩の壁を見てティアナは引きつらせる。しかし、周囲を見ても他に登れる場所はなさそうだった。崖の上まで登り切るか、穴まで登るか、考えるまでもない。
問題は登れるのかどうかだ。前世まで遡ってもティアナにロッククライミングの経験はない。幸い手と足をかける場所は壁面にありそうだが、穴までたどり着ける保証はどこにもなかった。
「仕方ない。登るか」
右手を出っ張りにかけ、左足をくぼみにかける。体を持ち上げて左手をくぼみに入れ、右足を出っ張りに置いた。ティアナはとりあえず張り付き、何度か手足を動かして穴を目指す。だが、早々に行き詰まる。次に手をかける場所が見つからない。
「どうするんだ、これ?」
行けたらいいなという気持ちで壁を登り始めたティアナだったが、想像以上に厳しくて早くも心が折れかける。だが、他に崖の下から脱出する方法がないため、何とか出っ張りかくぼみがないかと探す。
徐々に体力が低下していくことを実感してティアナが焦っていると、ある精霊が壁に触れて手をかけられる岩を作り出した。驚きつつもティアナがそれに触ると、充分体を支えられることがわかる。
「助けてくれるんだ」
これを皮切りに、球体の精霊達はティアナの望む場所に次々と手足をかけられる岩を作り出していった。やはり理由はわからないながらも、今はその手助けを受けて登り続ける。
穴にまで登り切った頃にはティアナはかなり疲れていた。何しろ、崖に落ちるまでは森の中を全力で走っていた上に、たった今切り立った壁を登ったのだ。中途半端にしか体を鍛えていないティアナにはかなりきつい。
相変わらず精霊に囲まれているティアナは、その明かりで周囲を見渡した。崖の近辺こそ洞穴そのままの風貌だが、奥の方は人工的に切り出された石で通路のようになっている。
「ここは、何かの出口なのか?」
たまに精霊が行ったり来たりしている様子を見ると、奥に続いていることがわかる。
一休みしてから立ち上がったティアナは、往来する精霊に導かれるように奥へと進む。人二人が並んで歩ける大きさの通路に入ったが、砂埃や蜘蛛の巣などで荒れるがままだ。ただ、作り自体はしっかりとしているらしく、いきなり崩れる心配はなさそうだった。
奥へと進むと通路は右に曲がっている。そしてすぐに緩やかな上へと続く階段が現れた。ティアナは階段を上るにつれて、なんとなく埃っぽいような感じがして眉をひそめた。
「そういえば、こういうときって、松明を持ったり鳥かごに鳥を入れて持って行くんだっけ。いきなり窒息はしないよな?」
中途半端な知識しかないティアナは不安に思いながらも進む。戻ったところで為す術がないので今は前だけを見るしかなかった。
しばらくすると階段は終わり、まっすぐに延びる通路が現れる。更に奥へと進むと行き止まりになっていた。そして、突き当たりの壁に、人一人が出入りできる扉くらいの大きさの石版が埋め込まれていた。
「え? これどうすんの?」
石版を始め、四方の壁も触ったり叩いたりしたティアナだったが、特に変わったところはなかった。このままでは立ち往生してしまうことにティアナは焦る。
そのとき、石版から球体の精霊が突然出てきた。更に、ティアナの周囲にいた精霊が石版の中へと消えていく。しかし、何度触ってもティアナにはただの石版でしかない。中には入れなかった。
「確かエルネが何かつぶやいて、精霊殿の壁をすり抜けたよな」
その呪文か何かを唱えればあるいはと一瞬思ったティアナだったが、それは教えてもらっていないことに気付く。
焦りが募るティアナの目の前で、相変わらず精霊は石版を往来している。どこに続いているのかわからないが、ティアナは自由に行き来できる精霊が羨ましく思えた。
しばらく石版と精霊を眺めていたティアナだったが、あることを思い出す。以前、小さい精霊を憑依してその意思を読み取ることができたことだ。
「もしかしたら、精霊に聞けばわかるかも?」
期待と不安が半々ながら、今のティアナにはそれしか手段が思いつかない。大きい精霊の方が良いので探してみる。そこへちょうど大きめの球体が石版から姿を現した。何を思ってやって来たのかはわからないが、今は都合が良い。
ティアナはその大きい精霊に触って憑依するように念じる。すると、予想通り自分の中へとその精霊が入った。
「こんばんは。私はティアナです」
『てぃあな。知ッテル。うぃんくるむノ友達。私達ノ友達』
「ありがとう」
憑依した精霊には意思があり会話が成立した。そのことにティアナは喜ぶ。
「この石版の向こうに、どうやったら行ける?」
『ソノママ通ッタラ行ケル』
あまりにも簡単に回答されてティアナは脱力する。それができたら苦労しないのだが、当たり前のように往来できる精霊には他に言いようがないのかもしれない。
再度石版に触って押してみるも特に変化はない。もちろんティアナも向こう側には行けていない。
「どうしたらいいんだ、これ?」
『ソノママ通ッタラ行ケル』
眉をひそめたティアナの独り言に憑依中の精霊が律儀に返答した。しかし、いくら考えてもわからない。
次第に思考が煮詰まってきたティアナは苛立ってきた。
「あーもぅ! ここは通路! 通れる!」
バカみたいに声を上げてティアナは石版に向かって歩いた。ぶつかって痛い目を見ることなど無視してだ。
目前に迫った石版を睨みながらそのまま進んだティアナは、ぶつからずにその中へと入る。一瞬目の前が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間には別の場所が視界に移っていた。
「え?」
そこは、淡く輝く大小の球体が一面に漂っている室内だ。ティアナが立っているすぐ先には石の台座があり、色とりどりに淡く輝く拳大の宝石のようなものがある。
「これ、精霊石? それじゃここって、精霊の間?」
背後を振り返ったティアナだったが、そこにあるのはただの壁だ。先程の石版みたいなものはない。この精霊の間にやって来るまでの通路を思い出したティアナは、崖下の穴から続いていた通路は隠し通路だと直感する。
厄介なことをまた知ってしまったと頭を抱えながらも、ティアナはこれからどうしようかと考える。精霊の間にたどり着いたということはもう屋敷は目と鼻の先だ。
精霊石の脇を通り抜けて出口へと向かおうとしたティアナだったが、そこでふと足を止める。そして、振り返って精霊石を見た。
「せっかくだし、挨拶だけでもしていくか」
緊急事態だとはいえ、他人の部屋に勝手に入ったのだ。一言断っておくべきだろうという律儀な考えがティアナの脳内によぎった。
「こんばんは、ウィン。ちょっと緊急事態で部屋を通り過ぎるわね」
『あれ、ティアナ? 緊急事態ってなに?』
ごく自然にこちらの話を受け入れたウィンクルムに、ティアナがこれまでの経緯を説明する。するとウィンクルムに呆れられた。
『どうして罠だってわかってて行ったの? 危ないじゃない』
「それは身をもって知りました。それで、これから帰ってエルネに話をするところです」
『ふーん、そうなんだ。って、あれ? なんかティアナの中にいる?』
あまり興味なさそうなウィンクルムだったが、精霊石に触れているティアナにいつもとの差異を感じて問いかけてきた。その質問でまだ精霊を憑依させていたことを思い出す。
「大きな精霊に憑依してもらってるのよ。さっきこの裏側にある秘密の通路を通るときに、協力してもらったの」
『え、憑依って、精霊もティアナの中に入れるの!?』
憑依させていた精霊を体の外に出しながらティアナが話をしていると、ウィンクルムが興味を示した。
「ちょっと前に小さい精霊が私の部屋に入ってきたから試してみたらできたの。幽霊だけじゃないんだって驚いたわね」
『そうなんだ! あ、ティアナの中にいたのがいなくなったよ?』
「今外に出て行ってもらったの」
『それじゃ、ボクにも同じことができる? ティアナの中に入って、それから外に出るんだ!』
ウィンクルムの言わんとしていることがわかったティアナは納得した。
「なるほど、案外簡単なことだったんだ。ウィン、今から試してみるわね。私に憑依してもらうわよ」
『うん!』
ティアナは精霊石に触れながらウィンクルムが憑依するように念じる。しばらくじっとしていたティアナだったが、ウィンクルムへと話しかけてみる。
「これで私の中にいるはずだけど。ウィン、今どこにいるの?」
『あ、ちゃんとティアナの中にいるよ!』
頭の中から声が聞こえることを確認したティアナは、憑依が上手くいったことを知った。そうなると、あとは自由に解放することができる。
精霊石から手を離したティアナは、ウィンクルムの憑依を解除するように念じる。すると、目の前にぼんやりと七色に光る鳥形の精霊が現れた。
「出られたみたいね。おめでとう」
『うわすごい! ホントに精霊石から出られた!』
嬉しさのあまりウィンクルムは室内を飛び回る。
他の球体の精霊に迷惑なのではとティアナは思ったが、今日は全身の倦怠感のために追求する気にはなれなかった。
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