四章

第26話:エステル・カレンベルク

「フェリクスさん、わたくし、ずっと待ってましたのよ」


 フェリクスの前でエステルが、腰に手を当て仁王立ちしている。

(ああ、そう言えば……)

 新学期の放課後、フェリクスは今、非常に面倒な事態に陥っていた。

 目の前には、激昂しているエステルが立っおり、こちらを睨みつけている。

 そして周囲には、野次馬の同級生が囲んでいる。

 遠くの柱の陰から、ラウラがこっそりこちらを覗いている。

 原因は、彼女との定例の勝負を、フェリクスがすっぽかしたからなのだが、挑んでくるのは毎回一方的に彼女からなので、すっぽかすも何もない。

 と言うのがフェリクスの主張である。

 しかし、この状態では何を言っても焼け石に水。フェリクスは面倒なので、簡潔に解決する方法を選ぶ事にした。


「わかった、勝負しよう。負けたら僕が謝る」


 かくして、数ヶ月ぶりのエステルとの勝負が始まった。

 場所はいつもの練習場、観客はいつもの同級生に下級生が加わり、四倍に増えていた。


「始める前に、一つお話があります」


 互いのスタート位置に着く前に、エステルがフェリクスに近づいて来る。

 歩くたびになびく金髪は、一年前に比べより長く、より艶やかに日の光を受け輝いている。もちろん、体を動かす時はいつも三つ編みだ。

 動きやすいように着替えた半袖と短パンからスラリと伸びる手足は、夏の間、何処かへ出かけていたのだろうか、ほのかに小麦色に焼けており、健康的な色香を放っている。

 そして、フェリクスを見つめる深緑の瞳は、小麦色に焼けた顔によっていつも以上に映えていた。


「フェリクスさん、あなたに謝っていただくだけでは、私の気が済みません」


 いつもの根拠のない自信に満ちた瞳は、フェリクスを見つめたまま言葉を続ける。


「私が勝ったら、一つだけ何でも私の言う事を聞いていただきますわ」

「いいよ」

「えっ?」


 あまりに即答されたので、エステルは一瞬目が泳いだ。

 フェリクスは一切負ける気がしてなかった。何せ、今までエステルとは五秒以上戦ったことが無いのだ。今回もすぐに終わるだろうと高を括っていた。


「いいのか? 兄貴」


 いまだ信じられない表情で、ふらふらとスタート位置に戻っているエステルの背中を見ていると、まさおが肩口から顔を覗かせて来る。


「何が?」

「舐めてると、ぜ」


 今まで、一度もそんな事は言わなかったまさおが忠告して来るなんて、しかもつい最近プロメア様から新たな力を授かったのに、だ。

 フェリクスは、まさおの言葉を、にわかに信じる事が出来なかった。

 エステルがスタート位置に戻ると、いつもの審判係の生徒が現れ、手を振り上げる。

 両者が構えるのを確認すると、一気に手を振り下ろした。


「解放!」


 瞬時にエステルが叫ぶ。今回の先手も彼女だった。

 フェリクスから見えるエステルの像がぼやけていくと共に、辺りにはキラキラ光る粒子が見え始める。

 フェリクスはそれに見覚えがあった。ステファニーとドラゴンを狩りに行った時、アイスドラゴンの身体の周りに漂っていた氷と同じものだ。自分のファイアがかき消された記憶を思い出して、渋い顔になる。


『アイスバレット!』


 攻めあぐねているフェリクスをよそに、エステルが防御の展開を終え、攻撃呪文を唱えると、無数の氷の弾が襲い掛かって来た。

 防御の無いフェリクスは、手前に火柱を上げて防ぐが、弾速の速い何発かは炎を抜けて襲い掛かって来る。


「いたたた!」


 炎を抜けた時に、多少は小さくなっているので、効果は落ちるのだが当たれば流石に痛い。フェリクスは右に左に避けながら、攻撃の機会を伺った。


『アイスジャベリン』


 エステルの頭上に、長さ二メートル程の氷の槍が現れる。

(あれはまずい)

 フェリクスは飛んでくる前に消そうと槍が浮かぶ場所へファイアを唱える。


「?」


 しかし、炎は現れる事無く、槍はフェリクスに向かって一直線に飛んで来た。


「おわっ!」


 ギリギリ横っ飛びで躱すと、二回転程転がり、体制を立て直す。

 そして、


『パァン』


 フェリクスは、己の頬を両手で思いっきり叩いた。

 そう、フェリクスは怒っていた。己自身に。

(何がすぐ終わるだ) 

 彼女は変わった。いや、替わり続けていたのだ。でなければ短縮詠唱など、一朝一夕で出来る物ではない。

(僕が三年かかった事を、彼女は一年半で認められたんだ)

 エステルが魔法を始めた時期によって、その期間は異なるが、フェリクスと会ってから訓練の時間が飛躍的に伸びたのは間違いない。

(彼女の方が、僕より上だ)

 その事実を認めなければ、自分が勝てる見込みは無いだろう。

 彼女は今、何故か攻撃の手を止め、フェリクスを見ている。

 いつも勝負を挑んでくる時に見せる勝気な瞳。そしていつも全力で向かってくる真摯な瞳だ。

 フェリクスは、エステルの顔を見続ける事が出来ず、俯いた。

 彼女が、今までどんな気持ちで勝負を挑んできたかは分からない。しかし、全力だったのは確かだ。それを「面倒くさい」と思いつつ、あしらっていた自分の心のなんと矮小な事か。

あまりの恥ずかしさに、暫くの間フェリクスは、頭を下げ、歯を食いしばっていた。

 そして、


「ごめん」


 と、一言呟くと、目を閉じながら静かに頭を上げる。

 そして、深呼吸を一つすると、目を開く。

 そこには変わらず勝気な視線を向けるエステルが立っている。

 頭を下げている間に攻撃されても、フェリクスは文句を言う気はなかった。

 しかし、彼女は待ってくれていたのだ。


「有難う」

「不意打ちする様な、礼儀知らずではございませんわ」


 フェリクスの感謝に、エステルは不敵な笑みで応える。


「まさお、えりこ、力を貸してくれ。全力で行く」

「あいよぅ」

「いいわよ」


 全力には全力で応える。今まで手を抜いていた分も上乗せして。

 フェリクスは杖を眼前に構えると魔力を流し込む。

 すると前方に黄色い炎の渦が巻き始め、うねりながら前方へと伸びて行く。

(無詠唱?)

 エステルは突然の魔法の発動に目を見開くが、冷静さは失っていなかった。


『アイスシールド!』


 眼前に分厚い氷の壁を築くと、微妙に傾斜をつける。

 暴れ狂う炎の龍は氷の壁を噛み砕きながら進むが、その僅かな傾きによってエステルへの直撃は防がれた。


『アイスジャベリン!』


 今度は二本の槍を顕現させると、同時にフェリクスへ打ち込む。

 一本は再び出した炎の龍で噛み砕くが、もう一本はまたも横っ飛びで交わす。

 いつもはステファニーに防御を頼っている為、フェリクスの弱点がもろに出ている展開だった。


「くっ」


 防戦に回り気味のフェリクスは、何とか打開策を考える為、杖を振ると、丁度エステルと距離を二分する位置に巨大な炎の壁を顕現させた。

(えりこの力で前以上に威力を増した炎なのに、それ以上の防御力があの盾にはある。と言うか使い方が上手い。まるで姉さんの様だ。それに、こちらは防御手段が無いから、いつまでも受け手に回っているとジリ貧になる。こうなったら……なにっ?)

 フェリクスは、まさかこの炎を抜けて来るとは思わなかった。

『本人』が。

 炎の壁に極厚のアイスシールドを乗せ、その上に飛び上がってエステルが駆け抜けてくる。

 呆けている場合ではないのだが、その時ばかりは彼女の姿に見惚れてしまっていた。


『アイスバレット!』


 無数に迫って来る氷弾に杖を向けると、そのまま奥から走ってきているエステルも標的に入れ、もう一度炎の龍を放つ。

 氷弾を全て溶かし尽くし、エステルへ牙を向けた龍は、しかし、またしてもシールドに阻まれた。

 彼女は、炎の壁で足場に使ったシールドを操っていたのだ。そして、杖を持ったままの右手を掲げると更なる攻勢にかかる。


『アイスジャベリン!』


 しかし、そこに現れた槍は一本だけだった。

(もう魔力切れか?)

 一つならば炎の龍で防げる。そう思い、フェリクスが炎を放った瞬間、


「なっ!」


 左右から氷の槍が迫って来ていた。

 正面の攻撃は、意識を向ける為の完全なフェイクで、本命は炎の壁を超える前に出していた二本の槍だったのだ。

 もはや、かわす事もままならない位置まで迫っていた槍に、フェリクスは思わず目を閉じてしまう。


 しかし、いつまで経っても槍が当たる感触はなく、ミシミシと言う音だけが聞こえるので、恐る恐る瞼を開いたフェリクスは、信じられない光景を目にした。

 両脇で止まっている槍が、先から徐々に粉々になっているのだ。

 それは今もなお続いており、正面から走り込んで来ていたエステルが何かに弾き飛ばされる様に後ろへ吹き飛んでいる。よく見ればそれは魔力障壁の様な物で、発生の中心はフェリクスだった。

 そして、今まさに魔力の放出が終わったまさおの色が、真紅から赤に戻り始めているのを、フェリクスは横目で見る。


「全力って言ってたし、多少はな?」


 確かに力を貸してくれと言った手前、何も言い返せない。

 何処か痛めたのか、尻餅をついたまま立ち上がれないエステルに向かって駆け寄ると、フェリクスは手を差し伸べる。


「すごく強くなった」

「でも負けは負けですわ」


 フェリクスの手を取り立ち上がると、埃を払いながら呟く。そこに悔しさは見られず、何かを諦めた様な脱力感だけが漂っていた。


「これ」


 フェリクスは腰に提げてあったもう一本の杖をエステルに渡す。グスタに同じものをもう一本作って貰っていた物だ。


「なんですの?」

「この前、杖燃やしたから」

「あら、殊勝な事ですわね。でも、もうこれを使う事は有りませんわ」


 差し出された杖をそっと手で返すエステル。その顔にはもう勝気なところはなく、穏やかな深緑色の瞳が佇んでいるだけだった。


「……なんで?」


 フェリクスはエステルのその言葉と態度に嫌な予感がして、思わず問い返す。


「残念ですが、次の勝負はもうございませんの。わたくし、来月で学院を去りますから」

「なんで?」


 言葉の意味が分からないフェリクスは、壊れたおもちゃの様に同じ言葉を繰り返す。


「あなたには分からない、貴族の決まり事の為ですわ」


『貴族の決まり事』。その言葉を発し、俯いたエステルの瞳に、ほんの少しだけ悲しみが宿る。


「でも」


 フェリクスはエステルの手を握ると、その手に杖を持たせる。ハッとして見上げたエステルは、フェリクスと目が合うと僅かに頬を染め、瞳を逸らす。


「でも、これは持っていて欲しい」


 愛とか恋ではないが、何故かフェリクスは、このままエステルとの繋がりがなくなる事が嫌だった。

 力強く握り締めて来るフェリクスに、抗うことが出来なかったエステルは、その杖を受け取ってしまう。


「……分かりましたわ。では、これは餞別として頂いておきます」


 そして、振り返ると一言、


「さようなら、楽しかったですわ」


 と言い残すと、フェリクスを残し足早に去って行く。

 そしてフェリクスは、翌日からエステルを学院で見ることは無かった。

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