夏蜜柑

瑞野 蒼人

本編

夏蜜柑


夏の盛りである。

暑すぎてセミすら鳴かない、日本の夏。

じりじりと人の体を蝕むような、そんな日差しがやむことなく降り続けていた。


線香の匂い。い草の香り。

がちゃがちゃした大広間の隅の仏壇に、寺の和尚と中年の男がふたり。


「・・・どうも、今日はありがとうございます」

「いえいえ、天国のばあさんも、きっと喜ばれとりますよ」

「すいませんね、無理言って。」



「お寺さんも忙しいでしょう?」

「いやいや、山野田さんの所には先祖代々お世話になってますけぇの。お経ぐらいあげないと罰が当たりますわ」


和尚は、仏壇に目を向けた。

「ばあちゃん、好きやったな。夏蜜柑のゼリー」

仏壇に供えられた、ゼリー、菊の花、ひまわり。もう目が痛くなるほど黄色に染まっている。どこか、祖母が光り輝いているようにも思う。


「寺に来るたびにいっつも売りに出せんくなった夏蜜柑を仰山くれての。本当にありがたかったもんじゃ」

「・・・そんなこともありましたね」

「じゃあ、私はこの辺で。次の家がありますんで」

「どうも、お世話様でした」

「また、来年の夏に」


そう言って、和尚は軽自動車に乗って家を去っていった。




煙草を吸いに外へ出る。

娘が一緒に出てきてくれた。


「どうした?」

「気分転換」

「そうか」

「息つまりそうよ。辛気臭い話ばっかりで大変」

「まあしょうがないさ、この辺の知り合いはみんな歳だし、自然な流れだよ」


いらだつほどに青い空に、煙草の煙が吸い込まれるように散り散りになって飛んで行った。


「昔はあの辺りだったんだ。ばあちゃんの家」

指さす方には荒涼とした緑の土地、そして蒼く澄み渡る海が広がっていた。


しかし、それらは無機質で冷たい壁で無残に引き裂かれ、つながりを失っていた。



「高台移転だよ」

「もう、15年も経ったんやね。あの時から」

「お前は初めて来たし、全然わからないだろうけどな。あの辺り全部町だったなんて、信じられないだろ?でもそうだったんだ。毎日あそこで生活して、この山の果樹園で夏蜜柑作って、母さんや俺たちを世話しながら、そうやって生きてたんだ」


平成の終わりでも、風情のある街並みだった。昭和の趣ある建物が多く、温かみのある港町。毎年帰省すると、心が安らぐ。唯一、自分の故郷と呼べる場所だった。





たった10分。10分の出来事。

地震、津波、それだけで町は見違えるほど衰退した。なにもなくなった、と言うのだろうか。高台移転で果樹園は住宅地に代わり、昔の市街地には何もかもなくなった。店一つ建たない、雑草が生い茂るだけの野原になった。


「何度見たって悲しいな」


【・・・今日で震災から15年を迎えるにあたり、各地で追悼式典が開催されています。太平洋岸を襲った「平成南海地震」は、全国で25万人以上の死者を出し,東日本大震災を大幅に上回る規模の被害を・・・】



家の方からかすかな音が漏れ出て聞こえる。テレビが、さっきから同じニュースを何度も流している。どのチャンネルも朝からずっとこの話ばかりである。やはり、滅入った。


「・・・お父さん」

「残された者は、辛いだけだったよ。」




ふーっと、大きなため息。

「お前の名前もな、ここから取ったんだよ。ここ綺麗な海だろ?こんな海みたいに、透き通って綺麗な人になってほしいって思って、蒼(あおい)って付けたんだ」


「ごめんね、お父さん」

「・・・よせよ。こんな所で。余計に辛気臭くなるだろ」

「ごめん・・・ちゃんとまだ謝れてなかったから」


「ばあちゃんが亡くなって、お前の母さんも亡くなって、大変だったからな。ここに来るのは久しぶりだよな」

「・・・お父さん」




数年前、大阪の家に、異変が起きていた。

ある時から急に窓ガラスが割れたり、壁が傷つけられたり、頻繁にいたずらがされるようになった。娘は心を閉ざし、何かに追いつめられるかのようにやつれていった。


事情を調べてみた。どうも娘は、ストーカーに付きまとわれていたらしい。

それが分かってからはもう早かった。警察と学校に相談し、とにかく、遠くへ。なるべく人目につかないように、静かに避難した。


「なんとか、お父さん、娘さんのことを考えて行動されてください。お母様も奥様も亡くされて、非常にお辛いとは思いますが、何卒よろしく・・・」

学校の面談で、娘の担任教諭にそう言われた。


「もちろんそれは十分わかってます先生。ただ」

「ただ?」

「何が娘にとって正解なのか分からないんです。娘が傷つくのは許せないが、娘にとって何がいい行動なのか、見えなくて」


通報、転校、引っ越し、できることは何でもやった。

娘に何かあったときのために、すぐ駆け付けられるように仕事も変えた。


どれも娘のことを思っての行動だったが、娘はかえって、自分を責めるようになっていた。自分さえいなければ、家族は不幸せにならなかった。そんな考えが娘にはびこるようになって、父親として、何度も何時間も何日も苦悩し続けていた。





海から突き抜けた風が、頬をそっとぬぐう。

「まだ、思ってるのか?自分のせいで大変なことになった・・・って」

「・・・」


何も言わず、黙って海のほうを見つめる娘。


「私が悪かったの。あの時、あんな変な人と知り合わなかったら。おかしい人だってわかってたらよかったの」


ネットで知り合った、という男。

いまは別の女を殺めた罪を抱え、監獄の中で死を待つだけになっている。





「こどもだったよ、私。世間知らずだった。お父さんにもたくさん迷惑掛けた」


痛々しい傷を帯びたその一言に、口をつぐんでしまう。父親と娘、分かり合うのは難しいと知っている。しかしそれでも、その傷を少しでも庇ってやりたい。

精一杯の気持ちで、後ろから、優しく肩を叩く。


「心配するな。蒼は何も心配しなくていい」

「・・・うん」

「お前は父さんが守る。お前に死なれたら、父さん生きていけないからな。」

「ありがとう、お父さん」


その一言に、父の顔が少しだけほころんだ。

体から力が抜けるような、ほんの少しの安心感が包む。


「私ね」

「なんだ?」

「内緒でお供え物作ってきたの。みかん味のクッキー」

「お前、いつそんな器用になったんだ?」

「へへ、お父さんが知らないだけだよー!」

「もうお供えしたのか?」

「ううん、後であげるつもり」

「そうか、喜ぶぞ。天国のばあちゃん」


家に戻ろうとして、坂道を歩き出す。

少し遅れて、娘も後を付いてくる。


「いつぶりだ?ちゃんと父さんって呼んでくれたの」

「・・・知らないよ!」

「ごめんごめん。さ、戻ろう。飯が待ってるぞ」





車にたくさん荷物を積み込んで、帰り支度をする。

「母さん、ありがとう。元気でな」

「ええ。また来年、夏にね。」


親子二人には不釣り合いなぐらいのミニバンで、町を後にした。

「蒼、宿題ちゃんとできたか?」

「出来てるよー!ほら、隅から隅までびっしり!」

「また明日から学校なんだから、ちゃんと準備しろよ?」

「はーい」

父親らしく、娘の学校の心配をする。

なんだか一瞬で日常に引き戻されるような、そんな会話だった。


「よっしゃ、おみやげに買っていこうか。夏蜜柑ゼリー」

「お父さん、夏蜜柑ケーキも欲しい!」

「わかったわかった」


またきっと取り戻せる。穏やかな日常を。

車は眩い夕陽を浴びながら、東へひた走った。



[完]


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夏蜜柑 瑞野 蒼人 @mizuno-aohito

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