それぞれの事情

 偽装遊戯の許可申請が通った。

 それは今後のアズルトの活動を支える基礎が完成を見たに等しい。

 懸念はいくらでもあるが、整えるべきところは整えた。ここから先は組の地力を高め、不慮の事態もアズルトが捻じ伏せてしまえば、自ずと結果は出る。

 難所を乗り越え気は楽になったはずだった。

 だというのに、どうにもアズルトは浮かれる気分にはなれない。


 その日の夜。入浴も済み、あとは寝るだけという時分。

 室内に散らばる様々な材質の小さな立方体を魔術で操作し、アズルトはクトと奇怪な鬼ごっこを繰り広げていた。


 それぞれが大将に指定した親指サイズの人形を、先に破壊した方が勝ち。

 ただし破壊が認められるのは、互いの大将による直接攻撃のみ。そして大将とする立方体は接触により交代が可能。

 ルールはそれだけ。

 術構築の阻害や他の立方体を操作しての物理的な妨害、幻術による偽装となんでもありだ。

 避難しているベッド上を除く室内すべてを戦場に、不格好な物体が縦横無尽に飛び回っている。


 この鬼ごっこ、発展性に富み総合的な魔術訓練には実に都合が良い。

 しかし省力化に難があり、双方かなりの種類の魔術を駆使していることもあって魔力消費がそれなりに重かった。

 変化系の魔術は総じて同様の問題を抱えている。

 術式構築で結果を仮定する合意形式の訓練は省力的で良いのだが、アズルトにとっては応用力を鍛え辛く、納得のいくものとはならなかった。

 クトもどこか納得のいかないところがあったらしく、これを提案してからは、殆どこちらで訓練を行っている。


 魔力放散のある魔術をひと所で、それも延々と行使し続けているのだから、ベルナルドが工房と揶揄するのも無理からぬことだと思う。

 それでも、言葉はもう少し選んでもらいたかった。

 クトの入浴時間がいつになく長かったのはあの会話があったからだ。

 今も体ひとつ分、普段より離れて座っている。


 会話のない訓練に、アズルトは初めて居心地の悪さを覚えていた。

 だから、躊躇いがちに距離を詰め指の端を合わせてきたクトに、妙な安堵を覚えてしまう。

 それも、術式が繋がるまでのわずかな時間だけ。


『どう思う』


 送られてきた秘話通信は簡潔至極。

 さもありなん。これを用いるという時点で、話題は白鬼エフェナと決まっている。


『このまま静観だろうな』


 丸一日待った。それで動きがなかったということは、彼女にはまだ接触する理由がないということ。


『リズベットにはエフェナが見えてた。他にもいると思うか?』

『いない、そう考えている。あの女が言っていたろ、『妙なのが2つほど混じってる』って。その片方はたぶん、俺だ』


『エフェナはおまえを見てる。リズベットが見てたのもおまえだ。あたしを見てはいなかった』

『おまえもそう思うか』


 エフェナと言葉を交わしたのはクトも同じであるのに、リズベットの関心は常にアズルトに向けられていた。

 それは実に不可解な話である。

 だがその疑問へのある種の回答を、アズルトたちはすでにエフェナから得ていた。


『彼女はエフェナと同じだ。俺を『妙なの』として識別している。だが、俺にはその認識がない』


 この差は致命的だった。文字通り命にかかわる。

 情報面で主導権を握られている、というだけでは済まない。


 エフェナを知覚できるから『妙』なのではない。『妙』であるからエフェナを知覚できている。


 リズベットが向ける特別視に、アズルトはそう仮説を立てた。

 であれば、他者と明確に区別される『なにか』があるはず。

 しかしアズルトの知るリズベットの特異性など、逃れ得ぬ死の運命に縛られていることくらいだ。

 そしてもしも『なにか』と『死』に因果関係があるのだとしたら。アズルトもまた死を運命づけられているということになる。


『手が必要だったら言えよ』


 クトのこれは支援の申し出とは少し違う。

 本質的にはむしろ逆だ。

 リズベットとのあれこれはおまえの問題だから勝手にしろ、と。そうクトは言っている。

 『必要なら』はすなわち『求められない限り手を出さない』ということ。

 相変わらず律儀な奴である。


『エフェナはリズベットの眼があることを知ってて話しかけてきた。どっちと見てる。おまえにあの女の存在を知らせるのと、あの女におまえの存在を知らせるのと』

『前者だろうな。彼女は白鬼を知らなかった。俺たちはを知っている。彼女が俺を見ていたことを知っていたなら、それこそ確定だ。もしかするとそいつを知らせるのが目的だったのかもな』

『本気で思ってるか?』

『疑い半分、否定半分』

『ん、それって冗談ってことか?』


 こんなことばかり言っているから、肝心な時に信用されないのかもしれない。

 だがアズルトなんて元々嘘八百の人間なのだから、冗談でも言わなければやっていられない。


『さてどうだかな。思うに、エフェナは俺たちがあれをどうするのかに興味があるんじゃないか』

『理解できないぞ』

『同感だ。ただ彼女については気になるのも確かだ。だからな、試験が終わったら本格的に調べ始めるつもりだ』

『難しいことよく分からないけど、大丈夫なのか?』


 相手がバルデンリンド公爵の娘であるということを気にしているのだろう。

 ただでさえ身分が悪い。そこに加えてアズルトの立場もある。

 しかしその点についてアズルトは心配をしていない。


『言い訳になるものは受け取ってあるだろ』


 自身の胸元を親指で示し理解を促す。

 クトのそこには、リズベットから預かった小鍵が揺れている。


『使わないって』

『嘘も方便だ。それに学内では使わない』

『渡しておくか?』

『いや。公女様への切り札だ、おまえが持っていた方がいい』


 分かったと言い残し通信を切ったクトは、もう寝るという意思表示に、そのまま鬼ごっこの片づけに入った。


 大将人形を立方体に戻し、損傷のないものとまとめて部屋の隅に山を作る。

 室内に散らばった残骸は錬金術で粉状に分解した後、凝集。移動させつつ素材別に選り分け、再び立方体に成形し直す。

 10秒と経たず部屋は訓練前の状態に戻る。


 それがすべてひとつの魔術であるかのような、惚れ惚れとするほどの手際の良さだ。

 アズルトがやるとなると倍は時間がかかる。


 後始末を終えたクトはふわりと自身のベッドに飛び移る。

 そしてアズルトの眼を意にも介さず着替えを始めた。


 脱ぎ捨てられていく制服に、アズルトはそっとクトから視線を外す。

 ただし顔を背けるまではしない。できないと言うべきか。

 すべては最初の対応の誤りに端を発している。

 いや、それはアズルトにとっての誤りであり、クトにとっては正しかったのだろう。

 しかし、正し過ぎた。

 お陰でアズルトは、その時に演じた無関心の対応を取り続けることを余儀なくされている。


 クレアトゥールという少女は、人前で肌を晒すことを極力避けている。

 野外に出る時はこの時期でも必ず薄手のマントを持参するし、道着の内側には長袖のインナーを欠かさない。

 入浴の際には湯着を忘れず、そもそも人のいない時間を狙って向かう徹底ぶりだ。


 それがアズルトの前では警戒が緩む。頓着をしなくなる。

 思い込んでいるのだ。アズルトが自身の体に欠片の関心もないと。

 食後のあんなやり取りがあってもなお、そこは変わらないらしい。


 淡い魔灯光に照らされたクトの細い身体が、仄かに橙を帯び視界の隅に映り込んでいる。

 飾り気のない下着だけが隠すクトの肢体は、あまり騎士らしくはなく、少女然とした柔らかさを色濃く残している。

 しかしこの裸身を前にして、ただの女の子と評せる者がどれだけいるか。


 クトの体には安寧の住人がその存在を拒むほど、数多くの傷痕が刻まれている。

 半ばから失われた耳や、欠けた左手の指ほど大きな欠落はない。

 けれど裂傷や、火傷の痕にも似た魔傷が、その小柄な身体の至るところに残されていた。

 顔に目立つ傷はない。しかし目尻の下や、髪で隠れた額に裂傷の痕があることをアズルトは知っている。

 顎の下から首を伝い胸元まで続く魔傷も、耳や指と同じで到底隠し切れるものではなかった。

 それは、魔禍――魔種が引き起こす厄災――に巻き込まれ、長い時間傷を濃密な瘴気で焼かれた者の姿だった。


 魔禍において、重度の魔傷を負った生還者は良い顔をされない。

 魔種は人間を食らう他に、半魔の苗床にする習性がある。

 こと瘴気への耐性の強い個体は優れた半魔を生み出しやすく、好んで苗床に用いる傾向にあった。


 ひと口に苗床と言っても、それを作る魔種によってその性質は様々だ。

 成り代わるもの、寄生するもの、子を孕ませるもの。

 性質が悪いものになると、人間同士の子を半魔に変質させるよう母体を作り変えるものまでいる。

 いずれも人間社会に浸透し、内側から破壊しようとする点で共通している。

 魔種とはまさしく人類種の大敵と称されるに足る、悪夢のような存在なのだ。


 半魔は魔種として目覚めるまで、人と区別がつかないことが多い。

 そして目覚めると食人衝動を生じ、育った半魔はその多くが苗床を作るようになる。

 半魔まわりでホラーやミステリのゲームが何本も作れるほど、厄介で忌まわしい相手である。

 故に苗床は処分される。そこに地位も身分も関係はない。


 クトは刻まれた魔傷のため、自身を醜いものと認識していた。

 それだけではないか。触れられることへの忌避感と傷の多さを見るに、まず間違いなくクトは苗床にされかけている。

 その意味を含めて醜穢と考えているに違いない。


 無論、アズルトにそれらを厭う気持ちはない。けれどその意思を伝えることは、ただクトとの溝を深めるだけ。

 それどころか見限られ、刃を向けられる危険すらある。

 背を預け合いながらも互いの事情に踏み込まぬというのは、つまりはそういうことなのだ。


 しかし、アズルトはすでに過ちを犯している。

 初めてクトが眼の前で傷を晒した時、その窺うような眼差しに気づいてしまった。拒絶されるのではないかという憂慮にも。

 そして愚かにも求められる姿を形にすべく、なにを見ているんだと無感情に見返し、眼を背けるまでもないと彼女の姿を視界の隅に追いやるに留めたのだ。


 アズルトのクトへの行いはこの時からずっと、不干渉ではあっても、無関心とは程遠いものであり続けている。

 過ちだ、己への。そして誤りでもある。


 アズルトは元来、他人への執着が希薄だ。

 それは余命と歩み続けた前世が培った、人としての根本原理である。

 親不孝を悔いた今は、受けた恩には報いるべしとの信念を胸に日々を送っているが、同時に根付いた価値観から不要な恩は受けるべきでないとの考えも持ち合わせている。


 持ち合わせている、どころではないな。

 己が器用に人間関係を構築できる性格ではないと自認しており、恩を返す上で邪魔になるしがらみは持たない方が良いというのがアズルトの哲学だった。

 であればこそ、恩義を感じている人間も限りなく少ない。

 リドの生みの親であるロドリック・オン・バルデンリンドと、他にはこの世界に送り届けてくれた声の主くらいなものか。


 アズルトからしてみれば、他の人間はすべからく利害だけで語られる駒――野望と恩義を果たすための、道具に過ぎないのである。

 それはクトとて変わらない。

 彼女はアズルトにとって特別な存在となってはいたが、所詮は引かれた線の外側における特別だ。

 アズルトから心を寄せることはない。


 だが、その考えが誤りだった。

 クトの無意識の求めに応じ続けたことで、彼女に歩み寄る口実を与えてしまった。

 互いを隔てる溝はどこまでも深い。

 けれどその距離は、以前よりもずっと近くにある。


 しがらみを作らぬと言うのであれば、傍に置いてなお突き放すくらいの気概が必要であった。

 クトのため、他と異なる席を用意している時点で道を誤っていたのだ。

 己の利に反しない範囲で気にかけるのは、もはや当たり前。執着とまではいかないまでも、愛着くらいは湧いている。

 それ故に今の状況には苦々しい思いがある。


 悲しいかな、アズルトも男ということだ。目の前で無防備に素肌を晒されて、無心で居続けられるほど悟ってはいない。

 互いになにも言わぬからこそ、気にかけずにやり過ごすことができていた。

 しかしその均衡はベルナルドの些細なひと言で脆くも崩れ去った。


 改めてクトという少女の存在を意識させられてしまうと、見て見ぬ振りというのは難しい。

 切り捨てられる相手であっても、重んじている相手だ。

 嫌っているわけがなく、好いていると言ってもいい。

 その好意は愛情の類ではないが、些末な違いだ。


 時が過ぎれば元通り、とはならないのだろうな。

 アズルトは零れそうになる溜め息を飲み下す。

 詰まることで生じた歪みは、どこかで散らさなければならない。

 より大きな破綻を招かぬうちに。


「クト、おまえが嫌がることを言う」


 夜着でベッドにうつ伏せになり、素足を揺らす少女にアズルトは口火を切った。

 緊張感の乏しい顔がこちらを向く。


「改まってどうした。よほどのことじゃなきゃ聞き流すから安心しろ」

「よほどのことだから前もって言っている」


 足の動きがぴたりと止まる。

 怒気を孕んだ瞳が、牙を剥くようにアズルトを射抜いた。


「今じゃないといけないことか。違うんなら……試験が終わってから聞く」


 それは半ば、絶縁を覚悟した言葉だった。

 寂寥のような湿った情動は片鱗とてそこにはなく、ただ不快の感情によって塗りたくられている。


 なんともクトらしい。

 クトの悲嘆に暮れる顔というのは想像するのが難しい。

 共に過ごすこと5か月あまりになるが、そうした感情を表に出すところをアズルトは見たことがない。

 もっとも、クトからすればアズルトも同じようなものなのであろうが。


「なったらなっただ。試験でおまえには頼らない。準備は整っているからな、無理をすれば独力でなんとかなる」

「ならいい」


 淡々とした承諾は、本来のふたりの距離を表している。

 そしてアズルトの言葉を待ち受けるため、伏せていた体を静かに起こした。

 身に刃を帯びてはいないが、いつでも手に取り抜き放つことのできる、狩りの体勢。

 それをアズルトは黙って見守り、ひとつ深く息を整える。そして――。


「おまえも少しは慎みを持て」


 意を決し言葉を形にした。

 したのであるが……。


 ゆっくりとクトが首を傾げる。

 言葉を選び過ぎたのか、まるで伝わっていなかった。

 理解を待ってみるが疑問符を浮かべるばかり。


「やり直し。説明、分かりやすく」


 終いには注文まで飛んできた。

 すっかりいつものクトに戻っていて、張り詰めた空気は行方不明だ。


 恥じらいを覚えろとは言えない。

 クトにとって恥とは己の信じる醜悪の観念そのもの。

 心の奥底に刺さった棘を抜いてやろうとまでは思わない。けれどそれをさらに深くへ押し込むような行いは避けたいアズルトであった。

 世間の言う羞恥を伝えるにはどうしたら良いものか。


「例えば、そうだな。俺が素っ裸で部屋にいたらどう思う」

「ん……ちょっと、困る。おまえの裸が嫌だとかじゃなくて、なんだろう。落ち着かない感じがする」

「だろう」

「でもそれがなんなんだ?」


 通じなかった。

 平時の察しの良さは、どうやら自身については発揮されないらしい。

 あるいは防衛本能がその辺りの自覚を鈍らせているのか。


「立場を逆にして考えてみろ」

「言いたいことが分からないぞ」

「おまえさっき俺の眼の前で着替えてただろうが」

「気にしないだろ」


 なに当たり前のことを言わせているんだと、その瞳が懐疑に瞬く。

 頭が痛くなる思いだが同時にアズルトには色々と合点がいった。


 気にしない――すなわち無関心は、アズルトが演じたクトの願望だ。執心のないアズルトに彼女が求めた最上。幻想である。

 クトにとってその幻想はさぞかし具合がよろしかったに違いない。

 この期に及んでなおそれを信じ込んでいるのだから。


 いや、信じたがっているのか。

 それは裏を返せば、彼女がアズルトの抱く侮蔑を確信していることを意味する。

 まったくの事実無根、妄想である。

 けれどクトが見る世界においては、それは至極当然の理なのであろう。


「するって話をしていると思ったんだが。全裸の俺をおまえが気にするのと同じように、俺もおまえのあの恰好は気になるんだよ」

「……同じようにって、おまえはずるいよな」


 見る間に疑心が苛立ちに上書きされていく。


 正視することを避けてきた彼女の虚は、やはり陰鬱に昏く、触れることを躊躇わせるほどの淀みを抱えていた。

 クトは閉ざされた己の世界で生きている。

 そこには残酷の虚像が巣食っていて、事実を良いも悪いも喰い殺してしまう。

 後にはその内で醸成され続けた価値観が織りなす、夢幻の荒野が広がるばかり。

 救いのない話だ。本当に、救いがない。

 クトの偏執は入学当初と比べ悪化の一途を辿っている。


 だがそれを考えるべきは今ではない。

 解釈の余地を残せばそこには彼女の世界が入り込む。ならば、仕方がない。


「言葉を選んでいた俺が馬鹿だった。おまえのことは……女として見ている。だから、幾らか自重してくれ」


 クトが目を丸くし、かつてないほどあけすけに驚きを見せた。

 けれど、それもすぐにいつもの仏頂面に戻る。


「おまえは、嘘つきだから」

「ああそうだな、俺は嘘つきだ。だがそれがどうした。おまえはおまえの都合のいいように俺を信じればいいだけだ。これまでとどんな違いがある」

「ある。嘘だったらあたしはおまえを許せない。きっとおまえを殺すぞ」

「好きにしろ、どうせそんな機会は来ない」


 クトの中にあった緊張の糸が、ぷつりと切れる音を聞いた気がした。

 気づいたのだろう。例え勝算があろうとも、アズルトが嘘のために命を天秤にかけるような真似はしない、と。

 耳も尻尾も力なく萎れていく。


「本気、なのか」


 縋るように尻尾を抱き寄せ呟く。

 アズルトへの言葉というよりも、口を突いて出たに近い。

 事実、その琥珀色の瞳はアズルトを映してはいない。


 それからしばらく尻尾を撫でて考えを整理していたクトが、ぎこちなく顔を上げた。

 不機嫌とは違う感情に揺れる瞳に、アズルトも思わず居住まいを正す。


「趣味悪いな、おまえ……でも。その、ありがとう」


 いつぞやの礼を思わせる光景に、なぜか少しだけ胸が痛んだ。


 そして冷静になり思う。違うそうじゃない、と。

 そこだけ拾われると気まずいことこの上ない。

 話の主題はアズルトの心の安寧にあったはずなのだ。


 とは言え念を押すのは後日にでも改めて行えばよい。

 この機に乗じて伝えておかなければならないことがもうひとつだけあった。

 すでに常のボーダーを越えること著しいが、ある意味ではこちらが本旨だ。


「夕食後にした話、あれも嘘じゃないからな」


 しばしの沈黙の後、撲殺せんとばかりの勢いで枕が投げつけられた。

 どうやら遅ればせながら話の根っこに気が付いたようだ。

 加えてクトの事情に深く立ち入っていたことにも。

 縁を切るとまではいかないようだが、かなりの怒気が籠っている。

 魔術による強化を駆使して飛来した凶器を掴むと、そのまま投げ返――そうとしてやめた。


 代わりに自身の枕を投げて渡す。

 再びやってくる豪速枕を受け止め、今度は普通に返す。

 幾度がひとつの枕がベッドの間を飛び交った。

 そうこうしているとクトから和睦の提案が届いた。


「ぜんぶ水に流す、だから返せ」

「え、嫌だ」


 当然アズルトは断った。


「なんでだよ」

「なんだかこっちの方が愉しそうだからな」


 水に流すなんて言葉が出てくる時点で趨勢は決している。

 安全は保障されたようなもの。ならば愉しさを求めるのが道理であろう。

 なにせ愉悦は、野望と恩義の次くらいに根幹をなすアズルトの行動原理なのだから。


 また枕が飛んでくるが、これまでの勢いはない。


「うぅ。趣味が悪いだけじゃなくて変態だったのかおまえ」

「枕なくていいのか」


 飛んできたものを片手に問うと、「いる」と力ない声が返ってきた。


 かくて互いの枕を交換したまま就寝と相成ったのであるが……。

 魔灯を落とした薄闇の中で、クトがアズルトひとの枕に顔を埋めてじたばたしていた。

 普段働かない感情が噴出すると、半日ほどそれに振り回される。

 以前に見立てた通りのクトの痴態は、見ていてなんとも和む。

 時折、恨めしそうな眼が闇の中から覗くが、それすらも、ひとつ大きな仕事をやり遂げた感のあるアズルトには愉しむ心の余裕があった。

 対するアズルトはと言えば……まあ寝つきが少しばかり悪かった、とだけ述べるに留めておこう。


 そんなやり取りが北寮の一室で行われた5日の後、予科1年の候補生は試験の前段階となる行軍演習に入った。

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