悪役令嬢
訓練場の後始末を手際よく片付けていったアズルトだったが、最後で難問に直面し手が止まってしまった。
すべての元凶は眼下に置かれた大きな桶だ。
中身はまあ説明して楽しいものではない。
これをどう処理するかでアズルトは頭を悩ませてしまったのだ。
実に下らない。言ってしまえば些末事だ。
しかしこういった本筋に関わらない些事こそ、アズルトが対処を苦手とする類のものだった。
なにせベッドに引き籠り、ゲームに齧りついて生きていたような人間である。
社会性とかいう高等な代物をアズルトが持ち合わせているはずもなく、こちらで目覚めてからも獲得する機会には恵まれなかった。
入学に際しなんとか備えた貴族の仮面も常識の欠落を埋める役には立たない。
それどころかアズルトにとっての足枷にすらなっていた。
筋だけ抜き出せば『ゴミ捨て場を聞く』、そして『ゴミを捨てる』、たったこれだけである。
それができないのは、アズルトが自分で物事をややこしくしているからだろう。
確かに面倒な縛りはある。
教官からの罰――を装った嫌がらせでやらされている点を思えば、同情しても良いのかもしれない。
なにせ授業中は19人分を炎でひと吹きである。それを手作業でとなれば、これが嫌がらせであることに疑いの余地はなく、その悪意を深読みして雁字搦めになっているのも、好意的に解釈すれば慎重と言い表せないでもない。
豪胆とも言える先刻の態度からの落差には眩暈がしそうだが。
良くも悪くもアズルトがその本領を発揮できるのは、信念の名を借りた利己主義を邁進する時くらいなものなのである。
ぐるぐると優柔と不断でバターを練っていたアズルトが、ふと訓練場に近づく足音を捉えた。
この2年で刷り込まれた経験は、思考を瞬時に日常から戦闘へと切り替える。
貴族の子女が2人――そう音から判断したアズルトは、それとなく戸口を窺える角度に立ち位置を調節する。
4組の誰かが戻って来た、なんてことはないだろう。彼女らは今はまだ自分のことで手一杯であるはずだ。では上級生だろうか。この時期の不必要な接触は学園が良い顔をしないという話を耳にしている。それを無視する輩となると、いささか面倒事だろうか。
などと推測を立ててみてはいるが、アズルトも本心から警戒しているわけではない。
慣れない常識案件に頭が煮立っているところへ不意の来訪者があり、思いがけず気が張ってしまっただけだ。
訓練場と廊下の境界で足音が止まる。
腰丈のケープを羽織り、場内に視線を向ける2人の少女。その姿を視界に映した瞬間、アズルトは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。
別に痛みはない。ただ眩暈がして、走馬灯のようにいつか見た光景が去来した。
荒野、血、頽れる少女、黒い獣、爪、血、食い殺された――漏れ出そうになる声を唇を噛んで耐える。
「ここも違うようですね」
明るい灰色髪の少女が、場内を見渡し言った。
「先生方に聞いてくるべきだったかしら」
長い黒髪の少女が困ったわと、歳に似合わぬ艶やかさで手を頬に添える。
似ている、とアズルトは思う。
記憶にあるものと比べると若干顔立ちが幼い気がするが、別人とするには似すぎている。いや、その妹や娘という線も捨てきれない。
「リズベット様、私たちは目を盗んで抜け出してきているのですよ」
「違うわサーニャ、目溢しして頂いているの」
距離があるから聞こえないと思ってのことか、その内容とは裏腹に2人は無警戒に名を呼び合う。
アズルトなど歯牙にもかけないということなのかもしれない。あるいは聞かれたところで差し障りがないと考えてのことだろう。
なにせケープの裾から覗く訓練服は、明らかに上級貴族の着るそれである。身分より階級を是とする学園であるが、生徒間ではその身分こそがものを言う。
もっとも、彼女たちの名を聞きとめたその時から、アズルトには2人の反応の意味を考える余裕など消え失せてしまっていたのであるが。
◇◇◇
リズベット・ベイ・バルデンリンドは悪役令嬢である。
悪役令嬢というのは乙女ゲームにしばしば登場する概念で、主人公の恋路を妨害するライバルキャラクター……では幾らか表現が温いな。踏み台として使い捨てられることを宿命づけられた存在、つまるところ登場人物というよりは舞台装置に近い。
誤解を承知で言うならば、シンデレラに登場する継姉たちそれである、それもグリム童話の方の。
出番を終えた悪役令嬢を待つのは幽閉や没落、そして死が多い。
『ムグラノの水紋』における悪役令嬢の扱いもその類に洩れず、主人公たちの妨害を繰り返したリズベットは、第二王子ルドヴィク・ラファ・アーベンスに婚約破棄された後、死ぬ。
リズベットは作中で死ぬのである。
それはもう見事に死ぬ。主人公たちがどのルートを選ぼうがなんだかんだで死ぬ。というか死なないルートがなかった。
まるで死ぬことが役目であるかのように。
あの世界の狭間で見たリズベットの死が、アズルトの脳裏をチラついて仕方がない。
『ムグラノの水紋』でのリズベットの死の扱いは様々だった。イベントの中で華々しく散ることもあれば、無様に退場することもあった。
ただ、その大部分はわずかな量のテキストで語られるだけだ。
酷いものだと、婚約破棄された夜会の帰りに馬車が事故って死んだ、とか。もちろん文章そのままではないが。
兎にも角にもゲームのリズベットにとって死は宿命だった。
『ムグラノの水紋』は正史だ。そして正史を歩むこの世界はやはりそのストーリーを辿るだろう。
しかしラケルで生きてきたアズルトには分かる。
あのリズベットの死は、彼女がバルデンリンド公爵家の子女であるが故に、あまりにも不自然で不可解であったと。
――またひとつ、糸が途切れてしまいましたか――
おぼろげになりつつある誰かさんの声がアズルトに囁く。
当人が自称していた通り、あれは悪魔かなにかだったのだろう。
思うままに生きろとは、まったく以て便利な文句だ。
恩義を感じている人間が、その恩人の懊悩を見て見ぬ振りができないことなんて、火を見るよりも明らかではないか。
その果てにどういった行動に出るのかすら、想像するに易い。
それでも、踊ってやろうと思うのだ。
なにせアズルトはそういった趣向が嫌いではないのだから。
◇◇◇
同日同所。アズルトが己の気づきに耽溺する傍らで、2人の少女が密やかにこんな言葉を交わしていた。
「昨日はご挨拶申し上げる機会を頂けませんでしたから、今日こそはなんとしても……ところでサーニャ」
「なんでございましょう」
「彼はなにをされているのだと思う?」
「服装からして生徒のようですが、恐らく平民が教官から何か片づけを申し付かったのでしょう」
「ふぅん」
「気にかかるようでしたら聞いて参りますが?」
「いえ、
「妙なお嬢様ですね」
「ねぇサーニャ。私たち、仮にも同じ
「承知致しました、リズベット様」
「硬いわ。私もサーナニヤ・オン・スホルホフ子爵閣下とお呼びしたほうがよろしいのかしら」
「リーザ様、その名では呼ばぬとお約束下さったではありませんか……。それに臣下の子爵を偏重していると噂が立てばお立場に障ります」
「ベイの戯言などオンである貴女は聞き流せば良いのよ。それに、バルデンリンドのなんたるかを知らぬ俄か貴族に用がありますか?」
「知る貴族の方が今や少ないのです。リズベット様はよく御存じのはず」
「そうね……。長居をし過ぎたわ、行きましょう」
自らの置かれている状況をアズルトが思い出した時には、2人の足音はすでに訓練場から遠ざかりつつあった。
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