入学
リド・ヤークトーナ=クーシラには野望がある。いや、ここはウォルトラン男爵家の四男、アズルト・ベイ・ウォルトランと言い改めておこう。
それが今この場におけるアズルトの配役なのだから。
繰り返しになるが、アズルトには野望がある。
野心、とは少し違う。
アズルトは特に言葉を飾ることを好む性質の人間ではないが、貴族の身分に倣い気取った言い回しをするなら、『真理の探究』などと耳触りの良いものを選ぶことになるだろう。
まったくの嘘ではないし、なにより受けが良い。聞くところによればと注釈は必要になるが。
アズルト・ベイ・ウォルトランは木端男爵のそれも四男、加えて婚外子であったものが銭と権力で嫡子に捻じ込まれたとかいう、ほぼ庶民の似非貴族だ。
この世界で目を覚ましてから2年と少々になるが、彼が貴族として見栄を張る必要があるほどの高貴な場に足を踏み入れる機会は幸いにして訪れなかったのである。
とは言え、そんな安穏な日々も今日で終わりだ。
目の前に聳える白亜の城塞を見上げ、アズルトは思いがけず溜め息を漏らした。
高硬度の人工石によって築かれた城壁には精緻な魔術意匠が刻まれている。それらは時折、仄かな魔力の燐光を散らしては、組み込まれた魔術の息遣いを伝えてくる。
アズルトは騎士養成学校『イファリス』の学舎の、その幽玄にして威風溢れる佇まいに魂を揺さぶられる思いを抱いていた。
これから3年あまりをこの学び舎で過ごすことになる。
それは楽しみであり、一抹の不安を感じさせるものでもあった。
『レ・クィ・ラケル・ストーリーズ<Lye qhye rakehl stories>』と呼ばれる一群のゲームがある。
ラケルと名付けられた世界の様々な時間・地域を舞台に、数十というタイトルがリリースされた。生々しい世界観とシステムの多様さ、作り込みの深さからシリーズを通してコアなファンが多かった。
イファリスはそんな<Lqrs>の問題作『ムグラノの水紋』の舞台となる学園だ。
『ムグラノの水紋』は元々問題作の多い<Lqrs>シリーズの中でも、特に物議を醸したタイトルのひとつとされる。
乙女ゲームの形式を取ったRPGであったこともさることながら、それでいて作中年表に書き加えられる『正史』と銘打たれる作品群に指定されていたことが、『正史』を追っていたプレイヤーたちによる
とは言えシリーズの愛好家であったアズルトに、プレイしないという選択肢はなかった。そして常の如くハマった。
システムには定評のある<Lqrs>だ。乙女ゲームだろうと、既存シリーズのプレイヤーが楽しめない道理はない。ご新規さん用と同社ゲームプレイヤー用とでシステムにまで難易度設定が用意されていたのには、流石に苦笑いを隠せなかったが。
システム面は本当に良くできていた。けれど残念ながらここは<Lqrs>の正史を踏襲しているだけの世界であって、ゲームではない。
辿るのはシステムではなくそのストーリーだ。
そのストーリーこそがアズルトの不安の種になっている。
乙女ゲームのイベントなんてろくに覚えていないからな。
けれど物語の進行については、心配するだけ無駄なのだろうと考える。正史は大きな破綻もなく今日まで紡がれてきたのだ。
程度としては3割といったところ。本当の懸念は別にある。
例年であればイファリス騎士専門学校の生徒の約半数が平民によって埋まる。
アーベンス王国における三大教育機関の中で、最も広く平等に教育の機会を提供しているのがここイファリス騎士専門学校――通称学園であるからだ。
だが、ゲームが始まる今年はその様相を一変させる。
攻略対象であるこの国の第二王子、ルドヴィク・ラファ・アーベンス殿下の入学。それが学園を野心と欲望に塗れた貴族の坩堝へと誘うのだ。
それで先の話に繋がってくる。
お貴族様の相手なんて果たして自分に務まるのか。
剣と魔法の理想郷で新たな人生を歩み始めたアズルトの、それは唯ひとつの憂鬱であった。
止まっていた歩みを再開し、疎らな馬車と人との流れに乗って正門を潜る。玄関ホールで組み分けを確認するポーズを取ってから、宛がわれた教室へと向かった。
◇◇◇
それでもアズルトは特に気にすることもなく室内へと立ち入る。
幾人かが視線を寄越したが、すぐに興味を失い散っていった。
それはそうだろう。取り立てて目立つ容姿ではないし、制服も貴族を示す刺繍こそ入れてはあるが既成品そのもの。他人の興味を引く要素などなにもない。
おまけに耳目を集める出来事が、室内では今まさに繰り広げられようとしているとなれば、アズルトに視線を留めるのは酔狂に等しい。
教壇に向かって階段状に緩く傾斜する教室、その隅に座るフードを被った人物の前に、値の張りそうな特注の制服で身を包んだ居丈高な男子が2人、挨拶がどうした態度がどうのと顔から火を噴きそうなほどみみっちい難癖をつけている。
進んで関わり合いになりたいとは思えない連中であったが、この組で3年を過ごす以上は避けることの叶わぬ相手でもあった。
教室に残された空席を確かめ自らの身分を考えると、座るべき席が彼らの傍にしかないという事実が気を重くさせる。いやしかし、ここは学んだことを実践する良い機会を得られたと前向きに考えるとしよう。
気を取り直したアズルトは2人の貴族の元まで進み、会話に割り込む非礼を謝罪し腰を折る。
「ソシアラ家のオルウェンキス様とルクロフーブ家のダニール様とお見受けします」
「おれの名は当然としてルクロフーブ、こいつはおまえの名も知っているようだぞ。それで?」
「同じ
「許す、名は」
言葉に被せられた声が問うた。
王族顔負けの尊大なお子様だ。ソシアラ侯爵家の家格を思えば差し支えは無いのかもしれないが。
オルウェンキスの祖父ソシアラ侯爵は貴族血統至上主義である純血派の重鎮だ。
その血統と思想に恥じぬ竜位の騎士で、老年の域に達してなお最前線で剣を振るう、天騎士を除けば国内で最も名の知れた騎士である。
1年の半分ほどを東のアメノ樹獄との境界にある砦群で過ごし、湧き出る魔族を狩り王国東部の安寧に心血を注いでいると聞く。
父親の名はあまり知られていない。
「アズルト・ベイ・ウォルトランと申します」
「ウォルトラン? 知らんな。ルクロフーブ」
「お役に立てず申し訳ありません。聞き覚えのない名です」
さもありなん。知られているとは端から思っていない。
ウォルトラン男爵家は社交界など縁のない辺境の貧乏貴族だ。それも公爵家から領地の管理を任される麾下貴族のそのまた臣下という家柄。書面でウォルトランの名が記されていたとして、記憶に留められるのは主家であるカルルーク伯爵家であってウォルトラン家ではない。
「どこの出だ」
「西方の」
「ふん、バルデンリンド領の人間か」
オルウェンキスが手を払う仕草をする。もう話すことはないから下がれといったところか。斯く在れと言うほどにお貴族様である。
静観を決め込んでおられる伯爵閣下が、いま少し言葉の通じる人物であることを祈らずにはいられない。
アズルトは頭を下げそそくさと退散する。
逃げたところで彼らから距離を取れるわけでもないのだが。
面倒なイベントを片付けるついでにあわよくば揉め事を有耶無耶にできれば、そうでなくともフード娘が行動を起こす切っ掛けになれば、そんな思いでの行動だった。
まあ、思いつきの行動なんて大した結果を生みはしない。
アズルトの淡い期待は無情にも目の前で踏み躙られる。
だんまりを続ける少女に痺れを切らしたオルウェンキスが、素早くそのフードに手を伸ばしたのだ。
騎士候補生に選ばれるだけあってその動きは鋭く、誰もが少女がフードを払われる様を幻視したに違いない。
けれどそうはならなかった。
少女がほんの少しだけ上体を反らせたことで、オルウェンキスの指先は空を切る。
オルウェンキスが驚愕と屈辱に目を見開くのが見えた。
しかし結果を見れば、彼の思惑は果たされたと言ってよい。
頭を戻す動作の反動でフードがずれ、ぴくりと動いた獣を思わせる三角の耳がフードの縁から零れたのだ。
教室に音の空隙が訪れる。
それは彼女が獣人であるがために生じた静寂ではない。
ラケルにおいて獣人が種として奴隷に落とされた歴史はなく、取り立てて地位が低いなどということもなかった。
静寂の原因は少女の露わになった獣の耳のその片方が、半ばから先を欠落させていたことによるものだ。
その後の反応は、大別すれば眼を逸らす者と眉を顰める者と。
彼らの胸の内は分からない。
ゲームだとダメージを受けたところで魔法やアイテムで回復してしまうから、気に留めることもないだろうが、傷を負えば跡が残る。当然のことなのだ。ゲームの世界なんて往々にして闘争が常態化した修羅の世界。かたわも珍しいものではない。ただそれが成人したかどうかという年頃の少女で、ここが騎士養成学校となると、色々と考えさせられるものもあるだろう。
そっとフードを戻そうとする獣人の少女。
アズルトから見える左手からは、薬指と小指が失われていた。
触れずにおくのが上策だ。多くの者が胸の内でそう結論付けたに違いない。
だが、そこに待ったをかける阿呆が現れた。他でもないオルウェンキスだ。
度し難いことに口の端が嗜虐的に歪んでいる。
とても音に聞くソシアラ侯の孫とは思えない。
少女――クレアトゥールは、そんな高慢なオルウェンキスの言動を意に介する風もなく、しっかりとフードを被りなおす。
けれど虚栄心の強いオルウェンキスにその対応は、火に油を注ぐ結果にしかならない。
「待てと言っているだろッ」
再びフードを引っぺがそうとオルウェンキスが無遠慮にクレアトゥールへ迫り――アズルトは反射的に彼女の腕を掴み引き寄せていた。
失敗だ。
浅慮を嘆く暇もなくアズルトは上体を反らす。
直後、頭のあった場所をクレアトゥールの放った後ろ回し蹴りが通り過ぎ、逃げ遅れた前髪が吹き散らされた。
読みよりもずっと間近に伸びた爪先に肝が冷える。
机に手をついたクレアトゥールが体を捻り、即座に振り下ろされる踵。
避けた跡で椅子が砕け散った。
尋常の技ではない。明らかに闘気――術式化されぬ無形の魔力――を纏っている。
「離せ」
低く暗い声と共に襲い来る膝を躱し、肘を逸らす。
容赦のない攻撃だった。直撃は避けたのに腕は痺れるような痛みを訴える。
当たり所が悪ければ死ぬだろうな。まともに受けるのは止めておこうとアズルトはひとり頷く。そしてそれにしても、と内心唸った。
どう収拾をつけるべきか見当もつかない。
ちょっと攻撃を妨げたくらいで、こうまで敵意を向けられることになるなど想像だにしなかったのだ。
なんとか落ち着かせようと語りかけてもみたが、離せくらいしか言葉を返さない。ならば離すから大人しくするよう言ってみれば、まるで加減の無い拳が飛んでくる。
机がまたひとつゴミに変わったのを見たアズルトは、このままでは埒が明かないと判断し守勢から一転、当て身でクレアトゥールの体勢を崩すとそのまま床に組み伏せた。
「くそっ離せ、離せよ。っく、なんで。離せって、言ってんだろ」
身軽さでは及ばないものの単純な力比べなら分があるとの推測は、どうやら間違いではなかったらしい。
さて誰か助け舟を出してはくれないものかと辺りを窺えば、注がれる視線が心なしか痛い。
触れたらいけない奴ら、目を合わせないほうがいい、やり過ぎだろう、胸糞悪い、泣いてないか、誰か止めろよ、巻き込まれるのは御免――そんな囁きまでもが耳に届いてしまう。
彼らの言うことはもっともだ。唐突に破壊活動に勤しむような人間がいたら、アズルトだって距離を取るだろう。決してお近づきになろうなどとは思わない。
ただそれよりも、いくつか看過すべからざる発言があった気がするのだ。
見れば、腕の下でもがくクレアトゥールのアズルトを睨む瞳には、敵意の他に確かな涙が浮かんでいる。
なるほど。
いや、それは卑怯だろう。
今この瞬間を切り取れば、アズルトがクレアトゥールに非道を働いているように見える。
しかし、しかしである。
おまえら、成り行きを見ていてその反応はないだろ。散々痛めつけられていたのは俺の方で、今も打撲で全身が痛むんだ。論理的に考えて泣くべきは俺だと思う。
アズルトは声を大にして主張したかった。
けれどアズルトはそれをしない。
アズルトは自らの信念に従うことに迷わぬ性質の人間である。そのためには手段を選ばぬこともあるだろう。しかしアズルトは生来の小心者でもあった。他人と見解で殴り合うなど、顔を持たぬネットの上でしか経験したことがないのだ。
だからこの時も、すでに当初の目的を果たしたアズルトが消極的に敗北を認める道を選ぶのは、当然といえば当然の流れであった。
離すから暴れるなと言い含め、少女を解放し距離を取る。
更に両の腕を開き掌を晒し、害意がないことをアピールするのも忘れない。
「その、なんだ。互いの不理解が招いた不幸な事件だったということで、腹を割って話し合うのもいいんじゃないか」
肩で息をするクレアトゥールが袖で目元を拭い、それからアズルトに正対する形でゆらりと立ち上がる。
とても、お話を望んでいるようには見えない。
そしてひと言。
「……殺す」
まっこと簡潔な決意表明である。
ふりだしに戻ったことを嘆く余裕は、どうやらアズルトには与えられないらしい。それほどまでに、自由を取り戻したクレアトゥールの攻撃は苛烈を極めた。
肉弾戦には自信があったアズルトだが、それでも衝撃を相殺し切れず身体が泳いだ。
数撃目で蹴り飛ばされ、教室の戸口から廊下まで転がり出る。素早く上体を起こしたところに突き刺さるクレアトゥールの追撃。闘気を込めた腕で後ろ蹴りを辛うじて止め――。
「よう、なに遊んでやがんだクソ餓鬼」
近くから振ってきた男の不機嫌そのものな声に、予科一年生の記念すべき第一回の騒動は幕を下ろすこととなったのである。
この後、アズルトは男――
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