ラケルの虚 狐娘と行く異世界攻略 ~ゲーム世界らしいので裏ボスから攻略してみる~

風間 秋

プロローグ

「少女は気が付くと荒野に立っていました」


 まどろむ意識に女性の声が落ちた。


「赤く斑に濡れそぼった大地」


 抑揚に乏しい声が言葉を紡ぐ度、映画でも見ているかのように、その情景が明瞭なものとして浮かび上がってくる。


「辺り一面に散らばるのは、なにかとてつもなく大きな力で捻り潰されたような、そんな凄惨な無数の骸たちです。

 少女の喉がひゅうと声にならない悲鳴をあげます。

 それは恐怖の叫びでした。それは嗄れた慟哭でした。


 少女はくずおれます。


 少女の瞳には鮮血の沼に沈む鎧が映っていました。

 その胸元に刻まれた、少女にとっては見慣れた紋章だけが映っていました。

 だから、少女は気づきません。

 背後に音もなく降り立った巨大な黒い獣に、気づくことができなかったのです。


 黒き獣は無造作に、少女の小さな背中へと鋭い爪を突き立てました。

 少女を護っていた魔術が呆気なく引き裂かれ、爪がその体を貫きます。


 突如として胸と腹から現れ出でたものに、少女ははじめなにが自らの身に起きたのか分かっていませんでした。

 けれど獣が爪を引き抜き、夥しい量の血が傷口から噴き出したのを見て、少女はこれから自を待ち受ける運命を悟らずにはいられません。


 全身から力が抜け、少女の体は地面に向かって傾いでいきます。

 それでも少女はまるでなにかに強いられるかのように、最後の力を絞り背後を振り返りました。


 少女は、それが少女にとって最後の不運であると知りません。


 倒れ伏した少女の視線の先には、自らを見下ろす漆黒の聖獣の、深く澄んだ理知的な眼差しがありました。

 侵しがたい神気を纏う黒獣が音なき声で少女に何かを語ります。

 すると、死相の浮かんだ少女の表情がひときわ大きく歪みました。


 そして黒き聖獣は、少女のそんな絶望に無慈悲に牙を突き立てるのでした。


 黒い獣が大きく頭をひと振りすると、少女の首は脊髄ごと体を離れ、少しだけ軽くなった体はべちゃりと血だまりに落ちました。

 頭蓋の砕かれる音が荒野に響きます。

 けれどそれもすぐに聞こえなくなりました。


 少女は、死んでしまいました」


 ぱたんと本を閉じるような音がして、目の前の光景が掻き消えた。

 胸の悪くなる話だな。ただ気が滅入る。男がそんなことを思っていると、小さな呟きが降ってきた。


「またひとつ、糸が途切れてしまいましたか」


 その声はひどく擦り切れた、疲憊ひはいの淀みを含んでいた。

 どれほどの辛苦を重ねればこのような澱を帯びるのだろう。

 身を苛む苦痛に諦観を覚えつつある男である。ならばこそ、懊悩の上に懊悩を塗り続けたような声の主は理解の埒外にあった。


 そんな感慨も、直後に響く能天気な声に台無しにされる。


「おや? おやおやぁ。もうすっかりお目覚めじゃないですか」


 声質はまったくの同じ。

 けれどこれは本当に同じ人物が発したものなのだろうか。

 まるで女性が少女に化けたかのようであすらある。


 男は疑問を抱いたが、相手の姿が見えないのでは確かめようがない。見えない、どころではないのだが。

 そもそも今の男には感覚がなかった。

 光も音も、痛みも寒さも暑さも、なにか茫漠としたものを覚えるだけ。


「おはようございます、アウサラの迷い人さん。寝覚めは……あはは、あまり良くはさそうですね」


 それはもう、問うまでもないことだろう。

 R20も真っ青、トラウマになりかねないスプラッタ映像を見せられたかと思えば、感覚をすべて失うという恐怖体験を強要されている。

 声が聞こえるから辛うじて平静を保っていられているものの、それがなければ男とて早々に正気を手放していたに違いない。


「寝起きにあれは慣れていないと衝撃的かもしれませんねー。ただ、混線したのは故意ではありませんから、心を大きく許してくれると嬉しいです」


 語られる謝罪の言葉は、どことなく大上段な雰囲気を醸し出している。

 しかし男は余計な口は挟まなかった。

 物理的に口がないので挟めないというのもあるが、声の主の機嫌を損ねて放置されたらたまったものではないという保身が大きい。


 であるからして、男は全身全霊を込めて承諾の意思を示す。


「よきかなよきかな。さて、許してもらえたところで迷い人さんにはお伝えしなければならない重大なお知らせがあります。実は、なんとですね、迷い人さんあなたはすでにお亡くなりになられています!」


 効果音が聞こえそうなほどノリノリな死亡告知に、男がまず思い浮かべたのはベッド脇に積まれたゲームのタイトルの数々だった。

 せめて買ったゲームくらいクリアしてから死にたかった。

 それが病院のベッドの上で半生を過ごした男の、嘘偽り無き本音だった。

 もっとも、購入と攻略のペースを考えれば、積みゲーが尽きることなどありえなかったのであるが。


「……あれ。あまり驚かないんですね」


 男にしてみれば、ついにその時が訪れた、それだけであった。

 正体不明の病で治療法は見つからず、15歳まで生きられないだの18歳は無理だの言われ続けてきた。

 それが23歳まで生きたのだ、上出来とすら言える。


 それで、この怪しい声はなんなのだろう。

 男は内心首を傾げる。


 ここが死後の世界だと言うのなら、閻魔様とかその辺りであろうか。

 行き先は、十中八九地獄だろう。

 功徳なんて積んでいないし、親に散々苦労をかけ、挙句の果てに先に死んでしまった。


 魂だけになっても胸は痛むらしい。

 死ぬ前に感謝の言葉くらい残せただろうか。


 思い返しても最期は痛みの記憶しかない。

 自分はもしかして地獄をもう越えて来たのでは、そう思わずにいられない男であったが、賽の河原行きを告げられるのであれば甘んじて受けようとも思った。


 そんな感傷に水を差しすのはやはり閻魔様(仮)である。


「いやー、私はそんな大層なものではありませんよ。そもそも死後の世界なんて生温いものむだめしぐらいはこの辺りには存在しませんし。あなたのことも偶然に拾っただけですからね」


 男にとってその言葉は、己の死が霞むほどの衝撃だった。戦慄と言っても良い。

 もし肉体があったなら、全身冷汗でぐっしょりだろう。


 声は死後の世界はないと語る。

 では死人である自分はこれからどうなる?

 なぜ存在を許されている?

 なにをさせられる?

 そんな想像が刹那の内に駆け巡り、男の心胆を凍りつかせていた。


 例えばそう、なんとか今のように話し相手くらいで収めてはもらえないものか。

 なんでもするからなどとは魂が裂けても言えないが。


「それは心惹かれる提案ですね。ただどうにもまだ勘違いされているみたいです。言ったじゃないですか、私は大したものではないって。ですから、話し相手が欲しいと思うことくらいあります。まあ、却下なんですけどね」


 どうにも自分の命運はとうに決まっているらしい。そんなことを男が思い浮かべたら、「決まっているわけないじゃないですかー」と妙に白々しい答えが割り込んできた。


「拾ったからと無理やり私事に巻き込むほど傲慢ではないつもりです」


 なんとも殊勝な心がけだと思う。

 世界には他人の家の箪笥やら壺やらから道具を拾っては、当然の如く使い捨てる勇者までいるというのに。

 薄気味悪いという邪念は幾重にもオブラートで包んで隠した。


「そうですね、どこかの世界で新たな人生の旅を始めるなんて良いんじゃないですか」


 おや、と男は疑問符を浮かべる。話の繋がりに違和感を覚えたのだ。

 どうやら台詞をひとつ飛ばしてしまったらしい。そう思ったのも束の間。


「そうですね、どこかの世界で新たな人生の旅を始めるなんて良いんじゃないですか」


 絶句するとはまさにこういう時に使う言葉なのだろう。

 だが男が放心状態から立ち直るのは早かった。

 それはひとえに男がこのやけに俗な案内人の対応にひとつの予感を持ったからだ。


 いやその台詞じゃなくてというツッコミを飲み込み、その提案にあえて『いいえ』を返してみる。


「そうですね、どこかの世界で新たな人生の旅を始めるなんて良いんじゃないですか」


 先と少し調子の違う、どことなく笑いを含んだ、けれどまったく同じ言葉の羅列。

 男は確信する。

 これは選択式の体を取った強制イベントか、と。


 時々あるのだ、選択肢が出て来るのに、物語的に正解の選択をしないと延々と選択肢が繰り返される類のイベントが。

 手抜きタイプでよく見るのは、確認の台詞で延々とループさせるものだろう。

 稀にしつこく繰り返すと進めるタイプもあるが。

 もちろん声の主が同じ言葉を選んで繰り返しているだけなので、本当に強制イベントというわけではない。そういう趣向の提案である。


 声の主は記憶まで読めている節がある。

 男が病に伏せる以前からの生粋のゲーマーであることを知ってのお遊びなのだろう。

 話し相手が欲しいとの先の言も真実に思える。


 『いいえ』を連打したい衝動に駆られながら、本当は何をさせたいのか問うてみる。


「疑い深いですね。本当に他意はありませんよ。私にできるのがそれくらいしかないというだけのことですから」


 DLCは。


「ありません」


 種族選択とか。


「できません」


 せめて支度金を。


「持ち込めなくてよいならいくらでも」


 この運営サービス悪くない?


「ああ悲しいかな、私は脆弱で矮小な元人間でしかないのです」


 俗っぽいのではなく俗だった。


 行き先は人が神の領域に踏み込める世界ということだろうか。それは大層、内ゲバに満ちた混迷極まる世界なのであろう。

 だが男はそういうゲームも嫌いではなかった。

 それに、なによりそんな世界には『奇跡まほう』が存在するに違いないのだから。

 もっとも、好みであろうとなかろうと、男の答えは変わらなかっただろう。


 自由に動ける体、それを得られるのであれば――。


 付け加えるならば、そう、選択をほんの少し後押しするくらいには、男はここまで取り計らってくれた声に感謝をしていた。

 男は躊躇うことなく『はい』と承諾の選択を選ぶ。


「選んで、しまいましたね……というのは冗談で早速始めましょう。アレの眼を誤魔化すのも限界がありますから」


 なにやら不穏な単語が飛び出した。

 男が胡乱な念を向けてみると、「こちらにも色々と込み入った事情というものがあるのです」と、追及を拒絶する声が返ってきた。


「ふふん、半休眠のベルカは防壁もちょろいですね。さてこれで侵入経路の確保も完了っと」


 胡散臭すぎる。正道ではないと予想はしていたが、まさか完全に非正規なルートを行かされることになるなんてな。

 これは悪魔の甘言に乗ってしまったかもしれない。


「ほほぅ、言ってくれるじゃありませんか。では悪魔の先達から助言をひとつ送りましょう。……思うままに生きて、そして死んでください」


 変わらず調子の軽い声が響く。

 だが男は、『死んでください』のところで己の魂が震えるのを感じた。けれどその正体を確かめる暇は与えられず、声は続く。


「それでは良い旅を」


 意識が泥濘の底へと引きずり込まれていく。

 声の告げる祈りにも似た最後の言葉は、男の意識に届くことなく、泥の海に溶けて消えるだろう。


「――願わくば、あなたの行く道が私のそれと交わることの無いことを」

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