中編
あれはいつだっただろう。
きっと、まだ私が世の中に絶望していなかったころだ。
ママにあどけなく聞いてみたことがあった。
「ねえ、どうしてママはパパと結婚したの?」
きっかけは忘れてしまった。
でも、幸せそうな両親を見て、私はそう問わずにいられなかった。
「パパを愛しているからよ」
「ふーん……『愛する』ってなあに?」
「それはね……」
それは……。
……それは、何だっただろう。
もう、思い出せない。
だって、愛なんてお金になりもしない。
愛がなくても死なないが、お金がないと人は死ぬ。
マーフォンは愛などくれないが――お金はくれる。
「愛なんてものは、形に見えねー。その点、金はどうだ。金で物を買い与えてやることに比べりゃ、『愛してる』なんて言葉のなんと白々しいことよ。百万回の愛情表現より、札の一枚だな。そう思うだろ?」
得意げに、私を『買った』男は喋っている。
静かな料理店は、品も良くて料理も美味しい。
けれども、響いている言葉はそれよりずっと粗野に思えた。
「……ふふ」
向かいの男……コウキは、あくまでシニカルに落ち着いた態度を崩さない。
初めうちマーフォンはその態度が気に入らないようだったが、やがて酔いも回ってきたのか、相手のことなどお構いなしに自分の話ばかりをしている。
私は笑みを絶やさず、心の中で「退屈だ……」とため息をついていた。
と。
ファミリーのうちの一人がささっとマーフォンに近づき、耳打ちをした。
よく聞き取れなかったが、
「ジョージさんからご連絡です……」
などと言っていたように思う。
「ん……そうか」
短くマーフォンはそう応えると、口元をぬぐい、残ったワインを飲み干し、席から立ってしまう。
私もつられて立ち上がろうとすると、やんわりと、彼は私の肩を押しとどめた。
「お前はヤツの相手をしてろ」
「……はい」
「――すまねぇな。ちょいと急用が入っちまった」
にぃっと笑みを作り、コウキに言う。
「ちょいと外させてもらうが――こいつはおいていくから、話に花でも咲かせてくれや。荒野の――なんだっけ? くっくっく。まぁ、レストランの代金を気にすることはない。話の続きはまたいずれ、だ。ごゆっくり」
「……ああ」
コウキが軽く頷いたのを見て、マーフォンはさっさと店を出て行ってしまう。
ほとんどの部下が、それについていってしまった。
ひょうちゃんが途中で振り返り、何やらかを訴えかけるような眼でこちらを見た。が、サミーに腕を掴まれて何事かをささやかれると、力なく肩を落とし、みんなについていった。
……なんだろう……。
ジョージ、聞いたことのない名前だ。
ジョルジュ? ジョッシュ? いずれにしても聞き覚えがない。
誰に呼び出されたのだろう……いや、呼ばれたにしては余裕ある表情だったし……。
「お嬢ちゃん、何か気になることでも?」
「あ……いいえ」
表情を覗かれていた。
不安そうに見えてしまったのだろうか。
いや、私が不安そうにふるまうことで、マーフォンへの信頼がなくなってしまう。
私は笑みを取り戻す。
「お嬢ちゃん……元々はこの業界の人間じゃないだろう」
「いえ……はい」
このくらいは、偽っても仕方のないことだ。
緊張をほぐすように、私はワインで唇を湿らせる。
「お金で買われたのです。私のことを、マーフォンが見初めて。この業界では、珍しい話でもないでしょう?」
「ああ、珍しくもない話だ」
「お陰で今は、不自由のない暮らしを送っています」
「そうかい? 俺には随分窮屈そうに見えるがね」
「そんなことは――ないですよ」
にっこり、と微笑んで見せる。
それを見て、コウキはテンガロンハットの角度を少し深めにした。
「あんまりそうやって、寂しく笑わない方がいい」
「あの人は……私に笑っていろと言いますから」
「……やれやれ」
不思議な人だ。
コウキ……この業界において一匹狼と聞いた時は、どれほど無鉄砲な人間かと思ったものだけれど。
案外彼も、この業界の出身ではないのだろうか?
「コウキさん、あなたは――」
バンッ!!
私の問いは、乱暴な音に遮られた。
扉を蹴破ったかのような音だ。
思わず振り向くと、青い髪、若い青年の姿が目に入った。
彼はこちらに駆け寄りながら、叫ぶ。
「逃げろ、ラティ!」
「え?」
「ちっ……」
ぐいっと、ひょうちゃんは私の肩を掴む。
同時に、背中をどんっと突き飛ばされる。
へし折れる椅子。
宙を舞う、ソースに料理に、赤いワイン。
ひっくり返る机。
でんぐり返る、世界。
「何――」
刹那の閃光。
それより早く。
視界が遮られて。
――衝撃!!
全身を殴られるような感覚。
息も鼓動もかき消される混乱。
押し潰されるかのような圧迫感。
少し遅れて、それが音だと気付く。
……。
…………。
「……っはぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
打って変わって、周囲は静寂に包まれていた。
「何……爆発……?」
ずる、り。
と、私を覆っていた生暖かいものがずり落ちた。
ぼろきれのようだったが、それはどうやら人間みたいだった。
埃と破片にまみれて判別しづらいが、かろうじて青い髪の……。
「ひょ……ひょう……?」
どさ。
目の前で、彼はあおむけに倒れた。
「へへ……ご無事……ですかい……?」
「…………」
呆けてしまって、口がぱくぱくとしか動かない。
「よかった……へへ……さすが……っすね。噂どおりだぁ……」
さすが?
噂どおり?
わけもわからずきょろきょろとして、私達と反対側のカウンターの影に、コウキの姿を見つける。
そして、焼け焦げたテーブルクロス、バラバラになった机も。
そうか……机ごと私達を壁へ蹴り飛ばして、その反動で、自身はカウンターへ潜り込んだ。
きっと爆弾の仕掛けられていたのは、フロアの何箇所か……。
自らはカウンターを壁にして爆圧を凌いだ。
私は、机とひょうちゃんの身体の、二重の盾によって何とか衝撃を免れた……。
コウキがとっさの判断をしなければ、ひょうちゃんもろとも、私の身体も砕け散っていた。
「……何、クールな男が気付かせてくれたおかげでな」
「あんたほどじゃない……がふっ……!」
ひょうちゃんが血を吐く。
無理もない。
かろうじて人の形をしているとはいえ、ひょうちゃんは重症のようだった。
「ひょう……ちゃん。ひょうちゃん、アンタ……なんで……何で死にかけてるのよ……」
「はは……そんな、死にそうです? 俺……」
「な、なんで、私なんか庇って……」
「なぁんでかなぁ……」
心底不思議そうに、彼は呟いた。
「へっ……ここの床、寝心地よさそうだったから……かな……」
「馬鹿……バカ、馬鹿! アンタなんか! 五月蝿いばっかりの役立たずのくせに!」
「そりゃ……ひでぇっす……」
「バカ!!」
私の目から、涙がこぼれる。
何で私、泣いてるの?
何のために、泣いてるの?
もう泣かないって、決めたんじゃなかったの?
笑ってやるって。
こんな人生笑い飛ばしてやるって……。
「……さくやんに……悪いこと……したなぁ……」
「そ……そうよ! サクヤ……恋人どうすんのよ!」
「ラティ……さん……伝えて下さい。ワリィって……」
「じ、自分で伝えなさいよ……」
気付いてる。
握っているひょうちゃんの腕から、だんだんと鼓動が、ぬくもりが、感じられなくなってること。
気付いてても、否定したかった。
「あ……あと、俺の最期……カッコよかったって……」
「か、カッコよくなんか、ないわよ、馬鹿……」
「どうか……そこんとこ飾って……」
「バッ……」
言葉にならない。
言葉なんか何の力にもならない。
お金ですら……どうにもできない。
ひょうちゃんは、コウキを見上げた。
「コウキ……さん」
「ああ、なんだ」
「ラティ……さん……たのんます……」
「……ああ」
コウキの首肯を見て、ひょうちゃんは深く息を吐いた。
「はぁ……俺……ダッセェ……」
「そんな……そんなことない……ひょうちゃん……ひょうちゃん……?」
「……」
全部吐ききってしまったかのように。
ひょうちゃんは、もう、息を吸おうとしなかった。
「ひょうちゃ……ひょうちゃぁあ……」
私は、声を押し殺して嗚咽を漏らすしかできなかった。
本当に何もできなかった。
それから。
どのくらい時間が経っただろう。
数分も経っていなかったかもしれない。
足音が聞こえてきた。
傍らのコウキが、自分の銃に手を伸ばす。
「ひょん君!」
もはや扉も何もない空間から姿を見せたのは、サミーだった。
踏み込もうとして、踏み止まり、コウキを見て、両手を上げる。
「……おっと……生きてたんだね。ひょん君もやるじゃないか」
「何か用か?」
「用、ね……。ラティーフさんもご無事なようで。ひょん君は……そうか……」
「用事を早く言うといい。返答次第じゃ、俺もちょっと穏やかじゃいられないけれどな」
サミーは、いささか緊張した面持ちで……コウキと、ひょうちゃんの身体と、私を見て、ゆっくり瞬きをした。
「……ドン・マーフォンからの連絡役さ」
「ほう。ならさっさと報告しろよ」
「その前に、ちょっと個人的なことをしていいかな」
「ほう?」
そろりそろりと、サミーは懐に手を伸ばし、銃を取り出した。
私は身構えたけれど、コウキは落ち着き払った様子でそれを見ていた。
そのまま、そろりそろりと敵意を見せない仕草で銃をいじると、彼女はなんとマガジンを床に捨ててしまう。
弾薬の転がる音……。
空になった銃をこちらに向け、反対側の手で携帯を取り出した。
「何の真似だ?」
「窓から、覗かれてるんでね。演技しておくれ」
「…………」
彼女は銃を向けたまま、電話をかける。
「……はい。二人とも生きています。フリーズは駄目です。……はい。隙をついて先手を取りました。代わります」
そう言って音量を上げ、こちらに携帯を向けながらゆっくり近づいてきた。
向こうから、マーフォンの声が響く。
「はぁーっはっはっは! 驚いたか? 気に入ってくれたか、俺のサプライズは? んん?」
「はじけた余興だったな。眠気も吹き飛んだぜ」
「そうかそうかぁ……心底ぶるっちまっただろう? いいか。そのままそこのサミーって女に従って、俺のところまで来るんだ。次に俺の前で舐めた口を利いてみろ。今度は百万の銃弾がお前を歓迎するぜ」
「……」
「なぁ。俺は別にお前と喧嘩したいわけじゃないんだ。『友好的』に! 協力さえしてくれりゃいいんだ。わかるだろ? くっくっく。賢く生きようぜ」
「賢い奴は、お気に入りのレストランを爆破するのか?」
「ふん。代わりなんざいくらでもあるからな。そうそう、そこに金のかかる女がいただろう」
びくっ、と、私は肩を震わせる。
「ラティーフ。驚かせて済まなかった。また好きなものを買わせてやるから、帰って来い。肌に傷がついてなけりゃーなぁ!」
電子的にかすれて響く笑い声。
「くっくっく……じゃあ、待ってるぜ」
そうして、通話は切れた。
携帯を閉じて、サミーは皮肉そうに苦笑した。
「……ってこと。大人しく従う?」
「まさかだな……」
「だぁよねぇ……ラティーフさんは?」
「あ……あんなやつ……」
私は、震えながら、床の塵を握りしめた。
とがった破片が手を傷つけたけれど、そんなのは気にならなかった。
何もかもが……屈辱的だった。
「あんなやつ……死ねばいい……」
「だぁよねー。よし、なら決まった。ひとまず死角に行こう」
弾の入ってない銃で、サミーは廊下を示す。
私達は、それに従うように廊下に出た。
それから彼女は、さっきの携帯電話で何処かの番号にかけ始めた。
「……あ、もしもし? ダディー? サミーだよっ! うんうん。元気元気。超元気。愛してる愛してる。超愛してる。うん。あ、で、例の物はまだ見つかってないんだけれどさ。代わりに凄い拾いモノしちゃったー」
ちらり、とこっちに目を向けるサミー。
コウキはニヒルに笑いながら頭を振る。
私はただ戸惑うばかりに行方を見守る。
「マーフォンの『元』愛人と、あの“硝煙の紳士”。そう。うん。やる気みたい。例の物もさ、もう潜入捜査とかまだるっこしいことやめて。うん。根こそぎ奪っちゃおうよ。そうしよう。手配よろしくぅ。場所と時間は追って伝える」
ピッ。
と、彼女は携帯を切り、私達に言った。
両腕を広げて、獰猛な笑みを浮かべながら。
「さぁ――
――戦争だぁ♪」
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