前編
ママの『言い訳』を、よく覚えている。
思い出したくもないのに、今でも時折……思い出す。
ママはいつもいつも泣きだしそうな顔をして、私に謝っていた。
「ごめんね、ラティ……ごめんなさい。ママたちにはお金がないから――」
お金がないから、私はいつもダサい服を着ていた。お金がないから、ご飯はいつもマズかった。お金がないからママもパパもいつもいつも惨めで、そしてお金がなかったから、惨めなままに死んだ。
……私は違う。
私は、あんな風に惨めなまま終わりたくはない。
鏡を睨みながらメイクをしていると、ノックの音が響いた。
「……開いてるわ」
そう促すと扉が開き、青い髪の若い男が入ってきた。
「失礼しゃっす……って、あーあー、もー、またこんなに散らかして! ラティーフさん、ゴミを屑かごに入れるくらいはして下さいよー。オナーシャッスよほんとー」
「うるさい、アンタは私の姑かっつーの」
「いやいや、人として当然の節度っすよー」
そいつはガサガサっと私の部屋を片付けて回る。
名前はフリーズ……みんな『ひょう』って呼んでるけれど。ファミリーの下っ端の一人だ。私の身辺警護を任されていて……それは全然構わないのだけれど……凄くお節介焼きで凄くウザい。
私は、からかいの意味も込めて、ひょうちゃんと呼んでいる。
ぱっぱと手際よく片づけをしていた彼の手が、ピタッと止まる。
手には私の下着がつままれていた。
「……はっはーん……? 何を想像しちゃってるのかなァ」
「や……いや何も! 何もっすよ! っていうか脱ぎ捨てておかないで下さい!」
「へーぇ? アンタの恋人……サクヤちゃんっていったっけー。教えちゃおうかなー」
「いやいやっ! やめて下さいよホント! マジでっ! たのんますラティーフさんっ! アイツ嫉妬し始めるとかなり怖くて――」
コンコンッ。
と、開かれたドアを叩く音。
小柄だが、鋭い目つきの女性がそこに立っていた。
幹部のさばみそだ。
「ヘイヘーイ。何をやってるのかな。ドン・マーフォンがお呼びだよ」
「やっ、サミーさん。これはですね……」
「ヘーイ、ひょん君。この状況をそっくりそのままドンに報告すると、キミはチーズみたいに穴だらけになって、明日には路地裏でネズミにかじられる運命なんだけれどね。その上で慎重に言葉を選びたまえ」
「はっ。すんません。ラティーフさん、そういうことなので、早急にドンのところへ向かって下さい」
「……はいはい」
こんな風にひょうちゃんをいじるのは、詰まらない私の日々において、ちょっとした楽しみだった。
詰まらない――本当に下らない、私の人生。
下らない人生を何とかしたくて、そのためにお金が欲しくて欲しくて、けれども持ってる武器は女としての私だけで……。その結果たどりついたのは、下種なマフィアの愛人だった。
ドン・マーフォン。
最近のし上がっている、マフィアファミリーの
やり口は強引で、厚かましく、意地汚い。麻薬販売、人身売買、銃器の密輸に暗殺家業。他のマフィアと共闘、裏切り、節操なく何でもやる。さっきのサミーだって、元はどこぞのマフィアの一人娘だと聞いた。『和睦』の証として、マーフォンに引き取られたのだ。
後ろにペンペン草も残さない、のし上がり街道。
その道中で私は拾われた。
私はアイツの汚い手に抱かれる。
見返りとして、私は不自由なくお金を貰う。
何の問題もない。
金があるのだから。
「……何も問題ない」
「は。なんか言ったっすか?」
「何の用かって言ったのよ。私に。マーフォンが」
「ああ――なんか、人が来るらしいっすよ。人……なんすっけ?」
「おいおいひょん君。減点するのだって楽しい仕事じゃないんだよ?」
「へい、すんません」
「まったく……アレだよ。“硝煙の紳士”」
「あ、そうだそうだ。そうっす。一匹狼の賞金稼ぎ、“硝煙の紳士”――コウキって奴がドンに会いに来るらしいっす。だからその場にも、ラティーフさんを呼べって」
「ふぅん……」
宝石みたいなものだ。
私がいることで、『これだけの女を俺は持ってる』って相手に自慢する。
交渉の材料にする。
男は下らないし、女の私にはその程度の価値しかない。
「まぁ――ラティーフさんも女です。わかるでしょう? すみませんが、ドンの交渉に使われてやって下さい」
自身も女であるサミーは、微笑みながらそう告げた。もしかしたら私以上にハードな人生だろうに、彼女はいつも涼しげだ。
「やー、でもあの生きる伝説を拝めるなんて、俺も楽しみだなぁ! めっちゃハンサムだって聞くけどどうっすかね?」
「どうって、何が?」
「俺よりハンサムっすかね?」
「はぁ――? アンタのどこにハンサム要素があるのよ」
「ちょ……これでも街では結構モテるんっすよ! この間だって――」
「ハイハイ、ここで鉛玉一つも無駄にしたくはないんだけれどね」
「ウッス。すいやせんしたっす」
応接間についた。
ファミリーが使ってるオフィスの中でも、安っぽい方だ。
マーフォンはいかにも偉そうにソファに腰掛けている。
「おお――来たか。ラティ、ここに座れ」
「はい」
マーフォンの左腕に抱かれるようにして、私は腰かけた。
どことなく、葉巻と酒の匂いが香る。
もう慣れた――眉根を寄せないようにしながら顔を上げると、向かいにテンガロンハットをかぶった男が見えた。
深いかぶり方をしていて、表情はうかがえない。けれど、長い脚をゆったりと組んで、腰には拳銃ではなく――サブマシンガンを二挺、ぶら下げていた。
噂で聞いたことはあるが、あんなものを片手で自在に扱えるなんて――信じられない。
ついつい男を眺めていると、太い指が私の頬を少し乱暴に撫でた。
「こいつが俺の愛人だ。綺麗だろう?」
「ああ――」
「くっくっく、多少はこの部屋も見栄えするようになったろう」
「どうかね。荒野にたった一輪の華が咲いてても、空しいだけだ」
「ふん、気障な野郎だぜ」
少々イラだたしげにそう言うと、マーフォンは私の肌から手を離し、軽く指を組んだ。
「さて――じゃあ、交渉に入ろう」
「……」
「聞くが、コウキさんよ。あんた、あの“
「あいにく、他の仕事については口外しない主義でね」
「ふん――それじゃ、“
「……」
何も言わずに、コウキは軽く肩をすくめた。
裏業界をしきる“
「とぼけるなら、別にいいさ。それ自体は大したことじゃねえ」
「単刀直入にお願いしたいな。あんまりのんびりしてる時間はなくてね」
「ほう、このあと予定が?」
「そこのカフェで、一杯のコーヒーと待ち合わせがね」
「話に聞いた以上に人を舐めた野郎だな……いいだろう。簡潔に言うとだ」
「ああ」
「俺は、“
場が、しん、と静まり返った。
マーフォンはにやにやしながらコウキの表情を伺っていたが、たっぷりと沈黙を味わってから、言葉を続けた。
「くっくっく、イヤァ、荒唐無稽な話じゃねぇ。我がファミリーは、仲の良い友達が多くてな。そのいくつかのファミリー、それからあんたが組んでくれれば、あながち不可能だとは思わねーんだよ、ナァ?」
「へぇ――のし上がりマーフォンは、ついに闇すらも自分の色で塗りつぶそうってわけだ」
「その通り……みそづけファミリーのところが少しグズっちゃあいたが、なぁに、アイツは俺に逆らえない」
ちらり、とマーフォンはサミーの方を見て笑う。
サミーは無表情を貫き通していた。
「で、コウキよ。“硝煙の紳士”、コウキさんよ」
「そう何度も呼ばなくても聞いてるぜ。なんだい?」
「あんたはどうなんだ。この話に乗るのか、乗らないのか。分け前は大きいぜぇ? 悪い話じゃねーと思うんだがな」
「ああ、悪い話じゃないね」
隣の醜悪な笑みが、より一層満足げに深みを増す。
コウキはそれに少しも引かず、むしろ組んでいた足を崩して、やや前傾姿勢気味に両肘を膝についた。
「だが、もっといい話がある」
「――ほう? そいつは一体なんなんだ?」
テンガロンハットの影から、ちらりとニヒルな笑みが覗いた。
「お前の首にも結構な額の賞金がかかってるんだぜ、マーフォン」
「…………」
マーフォンから表情が消えた。
先ほどの沈黙とは違う、ピンと張りつめた空気。
この業界にいると、何度かこういう空気に直面することがある。
満足に呼吸すらできない、息苦しい空気……対処法は、だからこそ自分の呼吸だけは乱さないこと。
サミー達が、音も立てずに懐へ手を忍ばす。
ひょうちゃんも、ワンテンポ遅れてそれに倣った。
この空気をつくりだした当の本人――コウキだけが、少しの緊張も見せていない。
やがて。
「……くっくっく、はーぁっはっはっは!」
マーフォンが大笑いをした。
「今のジョークはちょっと笑えたぜ! ちったぁ面白いことも言えるんだなぁ、コウキよ」
「ジョークね……それで済めば、お互い気が楽だな」
「くっくっく、なーに、今すぐ返答しろとはいわねぇさ」
そう言って、ゆっくりとマーフォンはソファから立つ。
ファミリーの連中も、それを見て懐から手を抜いた。
私は、静かに一度だけ深呼吸をする。
「このあと食事でもどうかね、コウキさんよ。お近づきの証にってヤツだ。その――カフェの褐色美人との予定をキャンセル出来りゃぁだが」
「それがお熱い仲でね。苦い顔をされちまうと敵わない」
「まぁそう言うな」
トン、と、分厚い手が私の背を押した。
――成程、『こういう』意図もあったわけだ。
私は数少ない私の武器――磨きぬいた頬笑みで、コウキに手を差し伸べる。
「そんな、もう行ってしまうだなんてあんまりです、コウキさん」
「……」
「私、ラティーフと申します。よろしければ貴方の武勇伝、聞かせて頂きたいですわ」
「……やれやれ」
彼はゆるりとテンガロンハットの位置を調整する。
「荒野の華を枯らすわけにはいかないな」
やっと光があたったその顔は、確かに渋みのあるハンサムだった。
私の手に、そっと彼の手が触れる。
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