第23話 世界の断片


「じゃあ、入るけど準備はいい?」


ファンの問いにピュルテは先ほどとはまるで別人のように、凛とした顔で頷いた。


ファンはその表情を確認して、一歩踏み出す。


『世界の断片』の中はどうなっているか見当もつかない。

どんな過程を経てか、想像もつかない空間に変貌するため、入ってみるまでは誰にも、どんな場所なのかがわからないのだ。


「行くよ……」


今いた世界と断絶した場所に入っていく感覚とでもいうのか、身体に違和感がまとわりついてくる。



ぴちゃり、と水を踏む音がして我に返る。

そこはすでに森の中ではない。

知らない間に、目の前の景色が変わっていた。

今ファンが立っている場所は、「水の上」と称するのが正しいのか。

足元は何もない空間に水が敷き詰められているようにしか見えないが、なぜかファンはその上に立っていた。

足踏みをしても、沈むことなく水が跳ねる音だけが広がる。


「ここは……」


顔を上げ目についたのは空から降り注ぐ、巨大すぎる滝。


どうなっているのか、何もない場所から大量の水があふれ出て、それが勢いよく下へ落下している。

足元に広がる水はあの滝のせいのようだ。


しかし、滝以外には何もない。


滝から落下した水が、視界の先、どこまでもどこまでも広がっている。


飛び散る水しぶきと、水音だけの何もない空間。


明らかに異質。

切り取られた世界がおかしな変化を経た未知の場所。


「ここが、『世界の断片』フラディルーメ……」


あっけにとられたのはファンだけではない。


空に浮かぶ大瀑布を見つめ、立ち尽くしていたピュルテもまた、この奇妙な空間に驚いているようだった。


「外には漏れ出していたのに、魔力感染が広がっていないのか……」


ピュルテの言う通り、どこを見ても魔力感染が広がっている様子がない。

足元を浸す水も、特に問題はないようだった。


『……』


「ロト?」


『不快な場所ね』


二人が目を丸くしてこの妙な空間を見ている中、ロトだけは至極不愉快そうに眉を顰めていた。


「お前たちは、ここに入った経験があるんだよな?」


「こんなに巨大なものは初めてだよ。予想よりもずっと広い……」


ファンたちは旅の最中、何度か『世界の断片』に侵入したことがあったがどれも小規模の場所だった。


宿の一部屋ほどの狭いものから、広くても庭付き一軒家ほどの広さに過ぎない。

視界の先が見えない程の広さがあるこの場所とは比べ物にならない。


「それで、ここからどうする?」


「この空間を閉ざすには、まずここを作り出している原因となっている奴を見つけなくちゃだめだ」


「原因……」


「そう、俺たちが今まで入った『世界の断片』にもそれぞれ必ずそれがいた」


どんなに規模が小さくても、この空間を作り出すものが存在している。


「奴ってことは、敵だよな?」


「そう、それが迷いし者ストレイ。こいつを倒せばこの空間は消えて、俺たちは元いた場所に戻る」


『迷いし者』、どの『世界の断片』にも存在する空間の支配者。姿かたちは枠に定めることができず多種多様な力を秘めている。


「これだけ広いとなると、かなり厄介そうだなぁ……」


これまでの経験上、『世界の断片』の広さと、『迷いし者』の強さを考えると今回はかなりの強さを持ったやつがいることになる。


「関係ない。あたしが絶対に殺すから」


ぎゅっと拳を握り、ピュルテが言い切った。


言葉は物騒だが、今のピュルテは心強い。

先の暴走状態は沈静化し、体に溜めていた魔力もかなり抜けているがそれでもなお、力強い気配を身に纏っている。

こと戦闘に関しては心が不安定だったころよりも今の状態の方が良いかもしれない。


「それじゃあ、とりあえず進もうか」


まずは『迷いし者』を見つけなくては。


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あの後、トラレイトの花をオサに渡したピュルテは森の対処をオサに頼み、ファンと共に『世界の断片』に入り感染を止めることになった。

ドロに荒らされ、ちぎれてしまった花もまだ魔力を吸い取れるものを拾い集め、森の皆と手分けして感染した部分に対処するということで話を付けた。

暴れていた大半の魔獣は殺し切ったとはいえ、この広い森の中。感染していない魔獣もたくさんいるはず。

この騒動の影響で気が立っている個体もいる可能性もある。

だが今は二手に分かれ、感染の拡大を阻止し感染元を消さねば被害は収まらない。


危険を冒しても、やり遂げなければならないのだ。

オサは、こちらは心配するなと言ってはいたがピュルテはここに来るまで心配そうな顔つきで彼らの方を何度も振り返っていた。


召喚した鉄杭の少年はファンの魔力が切れると同時に消滅した。

特殊な契約を結んでいるロトは魔力が切れても消えないため、連れて歩いているがファンの魔力が回復しない限りは戦力外に等しい。


実質的にまともな戦闘が可能なのはピュルテだけだった。


そんな状態の中一行は『世界の断片』まで足を運ぶ。


「……かなりしんどいな」


ふらふらと歩きながら、時折ファンが深く息をこぼす。

連戦に次ぐ連戦。

絶えず動き続け、息つく暇もなく魔物を殺し続けた先ほどの戦闘の影響がもろに出始めていた。

じんわりと熱を帯びていた身体はすでに相当量の熱気を放ち、汗が滴り落ちる。


身体を一歩動かすごとにまとわりついてくる気だるさが体の異常を訴えてくる。


「大丈夫か?」


進みの遅さに気づいてか、先を歩いていたピュルテが振り返り、声を掛けてくる。


『歩いてる間に回復する魔力に期待しないと、本当に戦えなさそうね……』


最悪気絶さえしなければロトは消えない。

ファンの状態が悪くても魔力さえあればファンの代わりにロトが戦える。

それ故に、意識を途切れさせることだけは避けなくては。


不安要素を抱えながらも、足を動かし続けた。


森の民に位置を教えてもらったピュルテはだてにこの森で暮らしていない。

迷うこともなく、また魔物や魔獣との戦闘もないまま『世界の断片』へとたどり着いた。


『なにこれ……!』


ファンたちの目に入ってきたのはおどろおどろしい雰囲気を醸し出し、辺りを侵食する『世界の断片』。

侵食が進み、中の空間からこぼれ出るように溢れだしている。

近くに倒れている大木はすでに侵食に染まり切り、変色しきった魔物の死体が何匹か確認できた。


「これは、早くなんとかしないと……」


時間がないことはこの状況を見ればすぐに理解できる。


「ここに、入るのか……」


ピュルテがその禍々しい気配にためらう様子を見せる。


無理もない、今まで一度も見たことがないのならば見るからに危険だとわかる場所に入るのには勇気がいる。

未知は怖い。

何があるかわからないところに飛び込んでいくのは本能的な恐怖を伴う。

いくら強がっていたとしても仕方がないことだ。


「時間がない。迷ってる場合も、尻込みしてる暇も。これをどうにかしないと今までの戦いが無駄になる」


だが怖気づいている余裕はない。どれだけ怖かろうと、どれだけ不安だろうと森を救いたいのならば入る以外の選択肢はないのだから。


じっとピュルテの目を見つめる。


「…………そうだな、その通りだ。あたしたちがやらなければ、今森を走り回っている皆の頑張りも無意味になる……」


ファンの視線を受けて、一瞬固まったピュルテは目を瞑り、一度首を振ると気を取り直したように前を向いた。


『そもそも私とファンがいるんだもの、心配する必要なんてないわ』


ここにきてもロトの態度は相変わらずだ。

ほんの少し前まで戦闘に対しての不安を口にしていたことなど忘れたとばかりに、謎の自信に満ち溢れている。


そんなロトの言葉を聞いて、ピュルテは力が抜けたようにふっと笑う。


「その虚言も、今は少し頼もしいな」


『虚言……? さっきまで子供みたいにわめいてた奴が急に賢そうな言葉を使うじゃない』


「っ、あれは……」


言葉を詰まらせたピュルテが口を噤んだ。

同時に言いづらそうに、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。


『あれは? なんなのよ?』


「……っ」


何やら恥ずかしそうに顔を赤らめ、意を決したようにこちらに向き直った。


「なに?」


「その、さっきはありがとう。無様な姿を見せてすまなかった……。じぃも、森の皆もそうだが、お前に背なかを押されて……少し勇気が出た」


言葉はぎこちなく、話している最中に恥ずかしさのあまり顔を下に向いていた。

しかし、その感謝の気持ちは伝わった。


「なら、よかった」


そう返すと、伏し目がちに見ていたピュルテがどこか安心したように頷く。


『まぁ戦闘中にいきなり狂乱でもされたら困るし、しっかりしてもらわないとね~』


ロトが水を差すようにからかいの言葉を入れる。


「誰がお前に言った。しゃべるしか能がない猫が、黙っていろ」


『このっ、偉そうに!』


ぎゃーぎゃーと言い合う声は疲れた身体に響くが、あれも彼女らなりのコミュニケーションなのかもしれない。

黙り込んでいるよりはましか、と言い合う二人をよそに持ってきた背嚢を下ろし、中身を確認する。

すでに使える手札はほとんど切った。

残る装備は心もとないが、だからこそできる準備は最大限やっておく必要がある。


ほぼないに等しい魔力と、ピュルテの力で、『世界の断片』を攻略する。


皆の頑張りを否定しないように。


皆を死なせないように。


腕に銀糸を巻き付け、不要なものを背嚢から出して軽くする。


「じゃあ、いくよ」


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一行は水音を鳴らしながら、水平線の続く空間を歩く。

ロトの索敵も、目立った成果はないまま延々と代わり映えのしない道。


「これ、どこにいるかとかはわからないのか?」


「今まではここまで広いところはなかったから、入ったらすぐに見つかったんだけど……」


今回の場合はそうもいかない。

こうも広いと探すのに手間がかかる。

おまけに道もあるわけではないから、どこを進めばいいかの見当もつかない。


『こっちも感知できないわね』


「なら探知は一旦やめよう、魔力がもたない」


ここは思い切って魔力を残しておく。


「ピュルテ、代わりになにか気づいたらすぐに言ってね」


『世界の断片』を攻略したことがあると言っておいて歯がゆいが、今回のこれは今までとは何もかもが桁違いに違う。

まさか『迷いし者』が見つからない場合は予想していなかった。


こくりと頷くピュルテ。


そして目に映る光景から何かヒントはないかと頭を回す。


上には巨大な滝。

始めにこの『世界の断片』に入った場所から大きく回りこむように歩き、今は滝を横から見える場所まで移動したが、角度を変えてみても何もおかしなものは見えない。

そもそも宙に浮かぶ滝という存在自体がおかしいが、本当にそれ以外におかしいところは見当たらない。


次に今いる場所。

地上と評するよりは水上と呼んだ方が適切な気がするが、見渡す限り遠く、遥か彼方まで続いていそうな水平線が映るだけでその他には別段表すようなものはない。

相変わらずなぜ水の上に立てているのか謎ではあるが。


「となると……」


残るはこの水上の下しかないが、そう思い視線を下に向けたときだった。


「待って、下! 何かいる!」


いち早く気づいたのはピュルテだった。

ファンたちが歩くその下、透き通る透明な水の中にふよふよと揺蕩うを見つけた。

それはまるで氷の層の下を泳ぐ魚のように、こちらに気付いた様子もなくどこかへ流れていく。


『気配が薄いけど、間違いないわね、アイツがこの空間の『迷いし者』よ!』


ロトが言った時にはすでにピュルテは動き始めていた。


「こっちを、見ろ!」


何故立てているかわからない足場に向かい、拳を振り下ろした。

ばしゃっと水柱が立ち、飛び散った水が近くにいたファンの頬を打つ。


「どう?」


音を鳴らして注意を引きつける。単純だが、今のファンたちには時間がない。

『迷いし者』の反応は――――。


「来た!」


ぼんやりとした丸い輪郭のそれはピュルテが出す音に反応して、こっちに戻ってくる。


「浮かんでくる……!」


ファンたちとの間に存在する『層』を容易く貫通し、水面から飛び出る。


それはまるで泡のようだった。

薄緑の中心部分を囲うように透明な膜が張っている。


「これが……?」


それが生き物なのかどうかすら判断がつかない、不可解なものを見て困惑するピュルテが攻撃を一瞬ためらった。


『速攻でいくわ!』


先手を取ったのはロトだった。

生み出した風を薄く、鋭利になるように調節する。

微塵の躊躇もなく、放たれた風刃が浮かび上がる『迷いし者』を真っ二つにせんと飛ぶ。


『迷いし者』は攻撃の意思を感じ取ったのか、小さく震えたかと思うと、足元の水が『迷いし者』に吸い寄せられていく。


「蜥蜴……」


集まった水は『迷いし者』を中心に、形を変形させた。

その姿は色のない、透明な、水の蜥蜴。


蜥蜴となった『迷いし者』の体を風刃が抉る。


「効かないか」


だが、抉り取った部分もすぐさま集まった水が元の形に戻す。

圧倒間に元通りになった『迷いし者』がふるふると頭を振った。


「っはあぁ!」


蜥蜴の形となったことで、ようやく頭が『迷いし者』を敵と認めたのか、ピュルテが動く。

豪快に、腕を背中まで引っ張り、まっすぐ最短距離で掌底を突き込んだ。

パァン、と破裂音が鳴ると共に修復した蜥蜴の体が吹き飛ぶ。


ピュルテの攻撃に耐えられなかった体が、形を保てずにただの水へと戻る。

『迷いし者』の核だけを残し、崩れ去った。


「もう、一回!」


残った核に追撃を打ち込もうと、ピュルテが駆ける。


距離を詰める間に、『迷いし者』はまたしても周囲の水をかき集め体を成形しだしている。


「ヒィィィィィ」


金切り声のような、耳障りな音が『迷いし者』から発せられる。

先ほどよりも速く体を修復した『迷いし者』が向かってくるピュルテに狙いを定め、前足を振りかざした。


「くっ」


体を急停止させ、ピュルテは目の前に迫る前足を受け止めんと、両腕を頭の上で交差させた。

ズンとピュルテの体にのしかかる重み。

その攻撃は凝縮された水が、勢いをつけてピュルテを押し潰そうとしているのに等しい。

森で運んでいた水の比ではない重さがピュルテを襲う。


『切り裂け!』


ふっと、急激にのしかかっていた重みが消えた。

『迷いし者』とピュルテの間を風刃が通り抜け、切断された『迷いし者』の前足が形を崩す。

頭から水を被ったピュルテが体を濡らしながら


「っぱぁ、おい、やるなら声を掛けて……」


『あんたがすぐ突っ込むからよっ』


風刃が乱れ飛び、『迷いし者』を牽制する。

体のあちこちを切り裂かれ、『迷いし者』が少しひるんだ。


「ここ!」


その隙をファンが的確につく。

『迷いし者』の、残った前足を蹴り飛ばし、流れた身体をぐっと引き戻して拳を放つ。

ぐにゃりとやわらかい肉を叩くような感触とともに、冷たい水が拳を包む。


「なっ!? 抜けない!?」


だが『迷いし者』の顎を吹き飛ばすには威力が足りなかった。顎にめり込んだ拳は受け止められ、まるで取り込まれてしまったような姿のまま、動けない。

そうしている間にも、『迷いし者』の体が修復する。

ごぽごぽと音を立て、切り落とされた前足の切断面が膨らんでいく。

二倍は大きくなった前足が、ファンをつかみ上げる。


「うっ、く!」


ファンの胴を掴んだ『迷いし者』は捕まえたファンを眺めるように見ながら、握りつぶそうと力を込める。


ファンはじたばたと手足を動かし、胴を掴む前足を叩くがまるで効いていない。

水面を殴りつけているような虚無感だけが拳を通して返ってくる。


「ならっ!」


腕に仕込んだ銀糸をほどき、伸びた腕の部分へ撒きつけ、思いっきり引っ張った。

文字通り水を切るように、抵抗なく交差する銀糸がファンを掴んでいた前足を切断する。


「ロト!」


『任せて!』


着地したファンの手足をロトの風が包む。

纏った風を叩き付け、加速したファンが再度『迷いし者』の顎に蹴りを放つ。


一発、二発、三発。

連続で放った蹴りは同じ場所を捉え、『迷いし者』の顔が大きくゆがんだ。


「らぁっ!」


一撃。


衝撃を流し切れなくなったところへ振りかぶった拳を叩き付けた。


『迷いし者』の形が崩れる。


しかし、


「もう再生してる……」


形が崩れ、崩壊したそばから瞬く間に水が集まっていく。


いくら攻撃しても無駄だと言うように、元の形に戻る速さは尋常ではない。

削っ手も削っても、何事もなかったように復活してくる。


「はぁああ!」


構わず攻撃し続けるピュルテの猛攻も、すぐに再生する『迷いし者』の前では効果が薄いようだった。


「どう?」


「……やっぱり体をいくら狙っても無駄みたいだね」


一度形を失った『迷いし者』は、再び水を集め蜥蜴の姿に戻る。

いくら攻撃しても、これでは意味がない。


「ってことは、狙うんならやっぱり」


「あの核、かな」


集まった水をいくら蹴散らしても、結局は水。


『迷いし者』にダメージを与えるなら、あの中心部分しかない。


「でも、攻撃をあれに届かせるには水の体が邪魔になるな」


ピュルテの言う通り、あの核へ攻撃が通る前に水の体が威力を殺してしまう。


「それなら、ちゃんと連携して攻撃するしかないよ」


「連携か、そうだな」


頷いたピュルテが続ける。


「あたしがあの核に一撃入れる。ファンたちは水の体を削ってくれ」


このなかではピュルテが一番速い。隙を見て突っ込むなら適任だ。


「わかった。ロトもいいよね?」


『私たちがしっかりサポートするんだから、ちゃんと決めてよね』


駆ける。


――――まずは


銀糸を閃かせ前足を狙うファン。

だが、『迷いし者』はその動きを読んでいるかのように伸びた銀糸を小さく跳ねて躱した。


銀糸は距離があれば、見てからでもよけられる程度の速さしかでない。

遠くから狙うとやはり容易くかわされてしまう。


「ふっ」


それならば、近づくしかない。

先程同様に『迷いし者』の足元目掛けて一直線。

ノコノコやってきた獲物を捉えようと『迷いし者』が前足を振り下ろす。


ーー良く見ろ、良く見ろ……


ファンは避けるそぶりをとらない。

ギリギリまで前足を引きつけて、


「今!」


前足の挙動を操るように手を添えて、後ろに流す。


「まず一本っ」


触れた際に銀糸を巻きつけ、受け流しと同時に力を込めて引き絞る。

前足は水面に足を降ろす前に、水と化した。


ファンは流れるように次の狙いをつける。

体を支える後ろ足。

ここを崩せば体のバランスが取れなくなる。


『迷いし者』の胴の下を滑るように潜り、太もも部分に素早く移動。


同じ手で足を切断しようとするが、


『ファン! 避けて』


ロトの声が聞こえた瞬間に体が自然とうごく。

『迷いし者』の体の外側へ横っ飛び。ゴロゴロと転がり、素早く態勢を戻す。


ずきりと痛んだ右腕を見れば微かに肉が抉られている。

一体何に攻撃された?

確かめようと『迷いし者』の方を見ると


ーー尻尾?


胴の下を貫く一本の槍。

それは先端がおそろしく鋭い尾だった。


「あれに抉られたのか」


さっきまではあんなものなかったはずだ。

と、そこで『迷いし者』の前足が修復されていないことに気付く。


――――修復分の水を尻尾に回したのか


自在に体を変化させられる『迷いし者』ならではの防御方法。


『迷いし者』は尾を鞭のようにひゅんひゅんと振り回し、どこか得意げにしている。


「ふぅー」


息を吐き出し、大きく吸い込んで水面を蹴る。


手数が増えたところでやることは変わらない。

すでに前足の修復は終わっている。


近づいてくるファンへ、『迷いし者』が唸りを上げる尾を突きのばす。

空気を切り裂き、ファンの体を捉えようと向かってくる。


「見え見え!」


前進しつつ、体を斜めに傾けることで尾の突きを紙一重で躱す。

銀糸をたゆませ、輪を作るように待ち構えていたところを尾が通過する。


銀糸の輪でとらえた尻尾を脇ではさみながら前へ。『迷いし者』の下へ詰める。


伸びた尾の根元まで来たところで尾を切断。体を翻した『迷いし者』の前足の薙ぎ払いを跳躍して避ける。

背なかに着地し、爆薬をばらまく。


「ロト、頼んだ!」


すばやく『迷いし者』から離れたファンと入れ替わるようにロトが風の塊が射出。

狙いすまされた軌道は『迷いし者』に防ぐ隙を与えず、無防備な背なかに着弾した。


爆発が起こった。


ばら撒いた爆薬に衝撃が加わり、起動した爆薬が『迷いし者』の体を大きく吹き飛ばす。


「ナイス、ロト。タイミングばっちり」


顔に飛んだ水しぶきを袖で拭う。


視線を『迷いし者』に戻すと、水の体は半壊し、核がむき出しになっている。


「ピュ――――」


ファンが合図する前に、すでにピュルテは飛び込んでいた。

移動してきた跡が水面に一本の線を引き、その線が消えるより早くその一撃は放たれた。


「はあああぁぁぁ!」


核を捉えた一撃は刹那の無音を作り出した後、衝撃波を生んだ。

『迷いし者』が激しく叩き付けられ、振動が空間全体に浸透するように広がっていく。

荒れ立つ水面は、衝撃波によって塗り替えられ、束の間の凪が訪れる。


「入った……!」


ピュルテの拳は間違いなく芯を捉えていた。

間に挟まる水もない。

完全に一発食らわせてやったはずだ。


『油断しないで、あれくらいで倒せるようなら苦労は……』


ロトが言い終わるよりも早く、それは起こった。


「ィィィィィィイイイイイイイ!!!!」


『迷いし者』の核がカタカタと震え、再びあの耳障りな音が鳴り響く。


「はっ、ちょっとは効いたみたいだな」


嘲るようにピュルテは鼻をならす。


鳴り響く音は徐々に水面に染みるように小さくなっていく。


片耳を押さえ、経過ししながら『迷いし者』の様子をうかがう。


――――音が止んだ。


ぴた、とわずかに動きの止まった『迷いし者』がブクブクと再生していく。


「性懲りもなくまたそれか。何回再生しようと、何度だってあたしは戦ってやる……!」


闘志をみなぎらせるピュルテの隣で、ファンは再生後の『迷いし者』の姿を見る。


「筒?」


姿にさほど変わりはないが、

先ほどまで何もなかった背中に筒状の突起物が生えていた。

その筒からぽんと、小気味よい音が鳴り、真上に向けて水の玉が放出された。


発射された水の玉は上空でぴたりと動きを止め、そのまま宙へとどまった。

が、警戒していても何も起こらない。

何の攻撃か、見極めるため構えるファンの姿を『迷いし者』はじっと観察している。


「クルルルルルゥゥゥゥ……」


喉をならし、こちらに向けて威嚇でもしているのか。『迷いし者』は動かない。


「来ないならもう一回、さっきと同じ作戦で――――」


しびれを切らし、

攻めようと口を開いた瞬間。


「消えた!?」


目の前にいた『迷いし者』が見えなくなった。

右を見ても、左を見ても、ファンの瞳が『迷いし者』を捉えることができない。


「……っ!」


取り出したのは薬屋で手に入れた踏むと衝撃波を生む粉。

これを周りに散布する。

どこへ消えても、近づけばこの粉で気づくことができる。


「これなら……」


機転を利かせた手の、はずだった。


視界に移ったのは一筋の線。ごうっと音を立てて何かが通り過ぎたかと思うと、


――――身体に穴が開いていた。


「がっ」


遅れてやってきた痛みに膝をつく。

熱く、燃えるような痛みとともに、体を血が伝う不快な感触。


左肩を貫通したのは、水だ。

ファンの体を通り抜け、視界の奥まで伸びた線は勢いよく放たれた水の仕業だった。


――――どこから……っ


「後ろだ!」


鋭い声がするのと同時、勢いよく足場を蹴ったピュルテが飛ぶようにファンの隣を跳んでいく。

低く、打ち出されたように突っ込んだピュルテ。


ファンの背後で距離をとっていた『迷いし者』の開いた口元へ、ひねり上げた掌底が入る。

爆散。


口を開き、水の光線を放ったまま固まっていた『迷いし者』の体は顔の部分から派手にはじけ飛んだ。


「大丈夫!?」


心配するようなピュルテの声が聞こえる。

足元を赤く染め、肩を押さえるファンは歯を食いしばり、痛みに耐える。

ひんやりと涼しい空気が熱を発する傷口に触れ、あふれ出る血は固まる気配もなく流れ続ける。


『次が来るわよ!』


見れば顔の部分をうしなった『迷いし者』の体がグネグネと脈動し、再生し終わった口を開け、構えている。


その矛先は、負傷したファン。

痛みで動きの鈍くなっている瞬間を見逃さず、狙いを定めていた。


水光線が放たれる。


狙われたことに気付いたファンが懸命に体を動かすが、その動きはあまりにも遅かった。

一歩前に踏み込んだ足が思うように進まない。


――――まずっ……


「かがめ!」


ファンの視界に一瞬翡翠の髪が映り、吹き飛んだ。


「ピュルテ!」


間に入ったピュルテがファンをかばうように立ちふさがり、『迷いし者』の攻撃を代わりに受けたのだ。


後ろに飛ばされたピュルテは身体をのけぞらせ、水面に体を打ち付けながら転がる。

幸い、その体に目立った傷は見当たらない。

ピュルテの装甲が『迷いし者』の攻撃を通さなかったようだった。


「ぐ、げほ、危なかった……」


せき込みながら、ピュルテは口を開けたままの『迷いし者』をにらみつける。


今、ピュルテが不正でいなければ確実にファンは戦闘不能に追い込まれていた。

そうならば勝機はない。


仕留めそこなったのを見てか『迷いし者』が口を閉じる。

『迷いし者』の姿がまた薄れ、視界から溶けるように消えていく。


「ロト、探知を!」


このままでは二人して共倒れになる。

なんとかしてファンが動けなければピュルテも身動きが取れない。

そう判断したファンはロトに探知を頼み、次の攻撃に備えて警戒姿勢を取った。


辺りを凝視してもそこには何もない先の空間がみえるだけ。

『迷いし者』の姿は見つけられない。


「あんな攻撃、何度も食らってられない……」


脂汗をかきながら、必死の思いで周囲を見ても動く影すら見つけられない。


『ダメ、どこにも反応がないわ!』


ロトも手当たり次第に風をまき散らし、『迷いし者』の痕跡を探ろうと風を操っている。


「くそ、どこに」


左方向の視界の隅。水面から顔を出してこちらに向けて口を広げている『迷いし者』が一瞬見えた。


しかしファンが視界にとらえたときにはすでに『迷いし者』の発射準備は完了している。


「させるかっ!」


それに反応したのできたのはピュルテ。獣の如き俊敏性で、姿を現した『迷いし者』を認めた瞬間にファンに体当たりをかました。


二人でゴロゴロと転がるそのすぐ上を、空を割く水が通り過ぎていく。


「……っ、あぁぁああ!」


すぐに起き上がったピュルテが『迷いし者』の姿を見失う前にとびかかる。

猫のように、低い姿勢のまま鉤爪のように開いた手を伸ばし、『迷いし者』の喉元を鷲掴みにしようとする。


が、爪が微かに触れただけで『迷いし者』に攻撃することができない。


「くそっ!」


ピュルテが悪態をつき、血眼になっては辺りを見回すがそこにあるのは静かな水面だけ。


ボコボコと沸騰するように水が溢れだす穴以外に動くものは見つからなかった。


「完全に狙われてるね、俺」


あの水光線が大して効かないピュルテより、簡単に殺せそうなファンを狙う。その判断をするだけの知能が『迷いし者』にはある。

言葉を発しないが、ただの獣ではない。


「これじゃあ攻撃する暇がない……っ」


森で育った特殊な体質のせいか、ピュルテの反応速度は通常の人のそれをはるかにしのぐ。

ファンが反応しきれないあの光線も、ピュルテなら躱すことができるだろう。

『迷いし者』が姿を消す前に攻撃してしまえばあの透明化も意味をなくす。

だが、今は負傷したファンを守ろうとするあまり、後手に回らざるを得なくなっている。


先ほど偉そうなことを言っておきながら、この体たらく。

ファンに注意を割いたままでは、ピュルテが力を発揮しきれない。


「くっ、ぅぅぅう!」


動くたびに体に力が入り、血が零れ落ちる。

炎であぶられているような熱い痛みが走り、思わず力を緩めそうになる。

それでも、


――――足を引っ張るのは、ごめんだ……!


息を止め、どこか心配そうにこちらを見つめてくるピュルテに声を掛ける。


「こっちは、自分でなんとかできるから」


「でもお前、その傷……」


「大丈夫。これくらい、余裕だよ……」


「余裕って……」


明らかなやせ我慢。

そんなことはピュルテにも伝わっているに違いない。

だがピュルテは冷や汗を流し、苦い顔をしながらも笑って見せるファンを見て、


「……わかった。あたしは攻撃することだけ考える」


戸惑いながらも頷いた。


「任せた」


ピュルテが目を閉じて、意識を耳に集中させている。

その姿を見て、ファンも気合を入れる。


もう一撃喰らえば、そこでファンは完全なお荷物となる。

戦闘に参加できないファンがいれば、ピュルテもそれに引きずられるのは想像に容易い。


ここで倒れるわけにはいかない。


集中、集中。全身の神経を最大に集中させて、構える。


ファンはピュルテほどの反応速度は持っていない。

ならばせめて、できる限りのことを。


もはやファンがしゃべらなくても、意思が通じるように、

身体を風が包む。

あくまでも念のための保険。

風の衣をまとったところでファンの体ではまともに水光線をくらえばただでは済まない。


自分の呼吸が、大きく聞こえる。

どくどくと脈打つ心音がうるさかった。


――――ぴちゃ


「後ろだぁ!」


水音を察知し、ピュルテが疾走する。

叫ぶことで、ファンに情報を伝えながらも振り返りはしない。


『迷いし者』は接近するピュルテの存在に気付いているのだろうか、口を開いたまま、矛先はファンに向けられたまま迎撃する素振りもなく。


「カッ!」


水光線が、放たれた。


ピュルテの声が、神経を限界まで尖らせていたファンへ届くのは一瞬だった。

ファンが振り返ると、すでに水光線は迫ってきていた。

妙に辺りがゆっくりに感じられる意識の中で、それを目で捉えたファンは考えるよりも先に無心で体を動かした。


風を身に纏った腕を胸に寄せ、小さく折り曲げて盾の形をイメージする。

放たれた攻撃はそのあまりの速度でファンを貫かんと、近づいてくる。

その速度に対応するためには、目視してからの体の動き。

一瞬の間が必要だった。


衣に水が触れる。

一直線に伸びる水が道を阻む壁を壊そうと進むのに対し、風の衣が、ロトの意思のこもった力が、そうはさせないと堪える

ギリギリと拮抗したかに思えたのはほんのわずかな瞬間だけだった。

衣は弾け、無防備なファンの体が晒される。


「っくぁああ!」


だが、そのわずかな瞬間はほんの少し、水の軌道から避ける時間を作った。

紙一重。肌一枚の距離を保ち、ファンが水光線を躱す。

さっき伸びた尾を避けるのと同じ要領で、前進し、倒れ込むように。


そして、つんのめるファンはガンと一歩前に足を踏み出す。


「ロトぉおおお!」


爆風が起こる。

足裏を押し出す推進力が口を開けたままの間抜け面をさらす『迷いし者』の下へファンを運ぶ。


先に動き出していたピュルテよりも速く、ファンの拳が首元に刺さる。


「吹き飛べぇ!」


直後、拳から噴出した風の奔流が『迷いし者』を内部から破壊する。


核が、露わになった。


「消しとべっ!」


後に続き、追いついたピュルテが渾身の踵落としを叩き込んだ。

全体重をかけた全力の攻撃。

剥き身の核では防ぐことも、軌道をそらすこともできない。


水面へと叩き付けた衝撃が周囲の水を上に押し出し、巨大な水しぶきが上がる。


やがて打ち上げられた水がばらばらと雨のように降り注ぎ、髪を濡らし、体を伝って流れていく。


晴れた視界に移るのは、外側の膜に罅が入り、カタカタと揺れる『迷いし者』の姿。


――――あの攻撃で、罅だけ……


『世界の断片』の外ならば大地を割りかねない威力の一撃だと思ったが、あの攻撃をもろに食らって罅しか入らないとは。


一瞬これで終わった、と思ったファンは驚きを隠せない。


「いや、確かに効いてる」


だがピュルテは確かに手ごたえを感じているように、拳を握る。

その証拠に、再生したはずの『迷いし者』は心なしか動きが鈍い。

ひたひたと歩く姿もどこかよろめいて見える。


「本当だ」


全ての挙動に今まで感じられなかったぎこちなさがあった。


それならば、攻めるならここを置いて他にない。


二人は何を言うでもなく、同時に駆け出した。


さきほどよりも『迷いし者』との距離は近い。

全速力で疾走するピュルテに一歩遅れる形で、ファンが続く。


ふらふらと揺れる『迷いし者』にまずはピュルテが一蹴。


「はっ!」


息を吐き出しながら、鋭く蹴りを一閃。

ろくに反応することもできず、再生したばかりの前足の二つを刈り取る。


――――いける!


確信を得たファンが銀糸をひらめかせ、『迷いし者』の胴へ巻き付ける。

そこでようやく反応した『迷いし者』が宙を飛ぶファンへ尾をふるった。


『キレがないわね!』


速度に先の迫力がない。

振るわれた尻尾はロトの風のよって防がれ、軌道が逸れる。


『おまけよ』


乱れ撃つように数多の風刃が降り注いだ。

無数に切り裂かれた体は糸がほつれるように形をたゆませる。


「これで、どうだ!」


ファンがロトの攻撃に合わせて、巻き付けた銀糸を引っ張る。


ぷつんと、真っ二つに割れた身体は形を保っていられずに水に帰った。


蠢く水が主の下へ集まろうとするが、


「鈍い!」


そんな隙を、ピュルテは与えない。

ガンガンと罅の入った核を殴りつける。


『迷いし者』の再生力が目に見えて鈍くなっている。

攻撃に対し、水の体を構築するのが間に合っていない。


絶対に逃がすまいと殴り、蹴りつけ、切り裂く。


持てる全力を持って、ファンたちは攻撃を繰り出し続けた。




「はぁ、はぁ、はぁ」


息も絶え絶えになりながら、豪快な回転蹴り。


一体どれだけの時間そうしていたのか。


吹き飛ぶ『迷いし者』を見ながら、二人は膝をつく。


身体が限界を訴えるように重く。

一つ一つの動作に一呼吸、間が空くようになっていた


「っしぶとい……」


『迷いし者』の核は外膜がひび割れて、一部が欠け、その他の場所も罅だらけ。

ファンたちの攻撃の跡がこれでもかと刻まれていた。


「クル、ルルゥゥゥ」


再生する速度も地に落ちた。

切り落としてすぐ、元通りになっていた時と比べ、ゆっくりゆっくり散らばった水が戻っていく様は全くといって脅威を感じない。


だが、


「クルルルゥ」


そのタフさが牙をむく。


ポンと、宙へ放たれた水球。

背なかにある筒状の突起から飛び出たそれが宙へとどまり。形を変えていく。

へとへとの二人はその動作に気付きながらも、体を反応させることができなかった。


薄く、平らに変形した水球がファンたちのいる真上を水の膜で包むように広がっていく。


「雨……?」


ぽたり、ファンの頬に落ちてきた滴。

そして雨は勢いを増していく。


「この期に及んで何かするつもりか?」


ピュルテが真上を睨み、警戒する。


勢いを増す雨は豪雨となり、ファンたちの視界を奪った。


「――――! あいつ、まだ!」


精度の落ちた透明化はすでにファンたちには通用しない。

だが、


「やばい、雨のせいでっ」


精度の落ちた透明化が、視界を奪う雨に隠れるように。


「見失った……!」


――――雨が止む


その場に『迷いし者』の姿はない。


「逃げたのかっ!?」


焦りを隠せないピュルテがぶんぶんと周囲を見まわす。


「いや、あそこ!」


後方、ファンがぼやのかかった影が動いている姿を見つけた。


「逃げ損ねたのか、今度こそとどめを……」


言いかけたピュルテが何かに気付いたように動きを止めた。


「なあ、あれ、色がおかしくないか」


「色?」


ピュルテに言われた通り、よく見て見ると確かに『迷いし者』の体が妙に変色して見える。

それは透明な水に何か溶け込んだような、どこか見覚えのある。


『――――!』


風が肌にあたる感触がして、何か声が聞こえたと思った時にはすでに遅かった。


世界がおかしくでもなったのか、視界がぐるんと回転したと思うと景色が一変。

正面に映るのはのはほの暗い、何か。

空などないこの空間で上を見たときにみえる景色が目の前に広がっている。


――――? どうなって?


混乱する間もなく衝撃が体を襲った。


水を切って転がり、勢いが止まるまで、ファンは自分が攻撃されたことに気付かなかった。


「うっ、何が……?」


「ファン! 避けろ!」


大声が耳に届くのと、『迷いし者』が目の前に現れたのは同時だった。


「がっ」


水面へはたくように叩き付けられる。

防御の構えも取れず、無防備にさらされた体に伸びてきた尾が突き刺さる。


「っぁ」


押し出された空気とともに声にならない声が出た。


そのままべちゃりと水面に落下する。


もんどりうって、腹を押さえるファンに『迷いし者』がとどめを刺す。


「させないっ!」


爆速で距離を詰めてきたピュルテが勢いよく回し蹴りを放つ。


だがすでにそこに『迷いし者』はいない。

瞬間移動でもしたのかという速さでその場から消える。

空を切ったピュルテの横からどこから現れたのか突進をかます。


大きく弾き飛ばされたピュルテが宙空へ飛ぶ。


挙動が見えない。


ファンにはその動きを捉えることができない。


「くそっ」


悪態をつくその間にも、近づいてきていた『迷いし者』が前足を鋭い鎌のような形に変形させ、振りかぶっている。


本能が『迷いし者』の姿を認めた瞬間に頭を下げさせた。

頭のすぐ上を鋭利な物体が通過する。


「――――っ」


驚きを口に出す暇すらない。

今度は頭を下げたファンに向かって、鋭い尾が突き出される。

三足で体を支える『迷いし者』の体の下を通り、迫ってくるそれは恐ろしい速度で迫ってくる。

ファンの目にはもはや残像にしか見えなかった。


『調子に乗るんじゃないわ!』


暴風が通り抜けた。

風の渦が『迷いし者』を巻き込んで流れていく。


「げほ、げほ、助かったよ」


おそらくさっきロトが風を纏わせてくれたのだろう。

一度目の尾の攻撃を耐えられたのはこれのおかげだ。

ファンはいまだ痛む腹をさすりながら、感謝の意を述べる。


この風がなければ今頃体に風穴があいている。


「あいつ、急に速くなったな」


動揺しているのか、ピュルテの表情は硬い。


『迷いし者』の色は先ほどよりも濃くなっていた。

少し濁ったような、薄い緑色。


――――魔力感染……っ


感染した水で体を構築したのか、先の『迷いし者』の姿とは違っている。


見覚えがあるはずだ。さっきまで嫌というほどその変色した様をみていたのだから。


「そうだ、ピュルテ! あれが感染した水ならさっき体に触れて……!」


魔力感染は触れたものすべてに感染し、その災厄をばらまく。


「……何ともない?」


ピュルテの体には感染の痕跡はなかった。

突進を脇腹を見てもなにもない。


『あの水、少し特殊みたいね。下から吸い上げた直後は触れても平気みたい』


だけど、とロトが言葉を切る。


時間がたつほどに、『迷いし者』の色はどんどんと変色し、その色を濃くしていく。


『あの状態までいったら、危険ね。攻撃をかすりでもすれば……』


はっきり言われなくても何を言いたいのかは伝わる。

あの状態で攻撃を食らえば、それはほとんど死んだも同然。

だがあの速さで動く『迷いし者』から攻撃を喰らわない。

そんなことが可能なのか。


「でもあいつ、すでにボロボロのはずだ。なんとかあの速さに対応できれば勝てないことはない」


ピュルテの粘り強さはこの状況において頼みの綱だ。

二人して満身創痍。

ここで気持ちを切らしてしまえば、何も救えないのだから。


「カルルルルルッ!」

風の竜巻から抜け出した『迷いし者』が吠えた。


残像を残しながら侵入者を殺すべく駆けてくる。


――――よく見て、動きを追えっ


全ては追えなくていい。視界にとらえ続けることが重要だ。

右。左。揺れる動きに合わせて、


「カルルゥ!」


鎌での攻撃が来る。

目では何とか捉えられたが、体がそれに反応――――。


できない。


身体を鋭利な鎌が撫でるように滑っていく。


「くっ」


衝撃で体が後ろに下がった。


何とか残っていた風が感染からファンを守る。

ロトのおかげで初撃は防げた。

次の攻撃に意識を切り替える。


――――尻尾か、いや


薙ぎ払いが来る。

しなる前足を大きく横に振りながらファンへ向かってくる。


左手で銀糸を掴み、両腕を大きく広げた。


ずんと重い一撃を伸びた銀糸が待ち構える。


「ぅぅぅうう!」


腕の筋肉が悲鳴を上げる。

みしみしと受け止めた腕が受け止めた衝撃でしびれる。


ひとまず一手。捕まえた。


「くそ、近づけないっ」


その隙に近づこうとしたピュルテだったが、振り回される尾の牽制のせいで攻撃に回れないでいる。


『迷いし者』の口が開く。


「――――っ」


足元の水ごと消し飛ばす水光線が油断していたピュルテに向けて放たれた。


「あっぶな――――」


間一髪全身の細胞を総動員して、それを奇跡的にかわす。


「まずっ」


だがその拍子にバランスを崩し、体が流れた。


ひゅんひゅんと動き回っていた尻尾が動きをとめ、隙を見せたピュルテを狙う。


『っ、風よ!』


急いでロトが風壁を展開。

伸びてきた尾がピュルテに触れる前に防ぐ。


「カルルルル!」


『迷いし者』の咆哮が耳を貫く。


一拍の後、頭の先に冷たい空気を感じ取った。


『二人とも、離れて!』


ちらと視界の上に映るのは巨大な水の塊。

先ほどの雨とはまるで規模が、桁が違った。


――――なんだあれ……!


動き出した水がこの場所めがけて落下してくる。


ここらすべてを飲み込む水の塊が、動く動作すら許さず着水した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


津波にのまれたかの如きありさまとなった『世界の断片』内。

水に満ちていた足場は決壊した川のように荒れ狂っていたが時間とともに、次第にその波が引いていく。

あちこちで起きていた激流のぶつかり合いがおさまり、元の状態に戻りつつある。


「ぷはっ」


繭状の風に包まれたファンが中から転がり出る。

激しい水流にもまれ、全身を水浸しにしながらも、何とか生きていた。


『危機一髪ね……』


同じく風の繭で水を防いだロトが安堵したようにため息をついた。


『ファン?』


「寒い……」


包まれていた風が溶け、肌にあたる空気がファンの体を急激に冷やす。

がくがくと、体の震えが止まらない。


体に空いた傷跡からは未だ血が流れ続けている。

そのせいもあってか、ファンの体は異常なまでに冷え始めていた。


ふと思い出したように、辺りを見回す。


「ピュルテ……?」


同じように水に飲まれたピュルテはどこにいったのか。

自分の身すら危うい中で、同じ攻撃を食らったピュルテがどうなったかなど把握しいるはずもない。


「ぅ……」


そんなファンの耳にうめき声が聞こえる。


声に振り向くと、『迷いし者』に掴まれたピュルテが今まさに殺されようとしていた。

力なく四肢を投げ出し、ピクリとも抵抗する素振りを見せない。

溺れでもしたのか、目を閉じたまま動かない。


「ピュルテ! ピュルテ! やばい、起きて!」


ファンが必死に叫ぶが返事がない。

目の前に迫る死の権化にも構えず、なすがままに成っている。


「はっ、く!」


震える体がうまく機能しない。

足は重りを付けたように鈍く、力の入らない体がもどかしい。


――――間に合わない


ファンの今の状態ではピュルテを助けることができない。

そう判断してからのファンは素早かった。


全身を流れる魔力の流れから絞りつくすようにかき集め、唯一繋がっているロトのラインへ流し込む。


『ファン!? この量は』


「やって!」


満身創痍の体から魔力とともに生気まで抜け出ていきそうだ。

ふらふらと体を揺らし、水面に手をつく。


一言叫んでから、何も言わないファンを見て、ロトは口を噤んだ。


『…………』


水面を揺らす風。その質が変わった。

契約者の力は召喚者の持ちうる力に比例し、強大になる。

ロトが扱う風は、様々な用途に利用できる器用な力だ。

普段ファンから流れる魔力の量はその用途ごとに異なり、極力不必要な分の魔力を流さないのが二人の間での常だった。


だが、この瞬間普段の何倍もの魔力がロトへ流れ込んだ。

この窮地を覆す一手。

自分では不可能だと判断したファンの頼み綱。


ロトはそんな期待を託されたことを承知し、風を生み出す。


『――――』


まず手始めと言わんばかりに、ピュルテを掴んでいた『迷いし者』の前足がちぎれとんだ。


「……?」


攻撃の気配を感じなかったのか、首を傾げるような動作を取った後、


――――ボトッ


とその首が落ちた。


ごぽごぽと再生する『迷いし者』の周囲を囲う風の渦。


再生する水を阻むように、渦が水を散らす。

再生できないことに焦りを覚えたのか周囲から続々と体を修正するために水が集まってくる。


だがそれらすべてを、徐々に強まっていく風の渦が包み込むように水を閉じ込めた。


『やらせないわよ』


ロトが冷たく言い放ったのと同時、異質な一つの渦が生まれた。


耳を通り抜けていく風が『迷いし者』の周囲に吸い込まれるように集まっていく。

時々渦の外にこぼれる水は集まってきた水を防いだものなのか、中の『迷いし者』を切り裂いたものなのか判断がつかない。


発達した風は際限なく、広く、巨大になっていく。

外側からその様を見ているファンが吹き飛ばされそうなほどの風の勢いに、体勢を低くせざるを得ない。


渦は竜巻へと発達し、成長を続けていく。


あれほど大きかった滝をも越え。


やがて、それは見上げてもその全貌を捉えられない程に巨大なものとなった。


まともに目を開けられない程の豪風。


吹き飛ばされないようにするのがやっとだというのに。

一体あの竜巻の中はどうなっているのか、想像もつかない。


『私の、ありったけ。存分に味わうといいわ!』


広がった竜巻が瞬く間に狭まっていく。

自然ではありえない、ロトの力によって圧縮されていく竜巻が内部の全てを壊しながら縮んでいく。

急激に抑え込まれた風の力が行き場をなくし、

ぶつかり合い、おびただしい破壊の力の行き先を求める。


ざわめく水面すべてを弾け飛ばしそうなほどの豪風が互いにぶつかり合い、小さくなっていき。


抑えきれなくなった力が爆風と共に。


世界を飲み込んだ。


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