第24話 届け


「はぁ、はぁ」


ずぶぬれの体を引きずり、倒れているピュルテを抱え上げる。


「感染が……」


掴まれたときに移ったのか、胴周りが薄く感染し始めている。

ピュルテは依然として気絶したまま。だらんと弛緩した身体は力なく、濡れたせいで身体が冷え切っていた。

感染部分に触れないように、足裏とうなじに手を入れて立ち上がる。


「……早く出ないと」


一刻も早くここを出てトラレイトに吸い取らせなければならない。

皆が手分けして持って行った花が今ならまだ残っているはずだ。

一輪だけでいい、それだけ確保できればピュルテの治療をすることができる。


だから、早くここからでなくちゃならない。


それなのに、なぜか『世界の断片』が崩れる気配がない。


「『迷いし者』は、倒したはずじゃ……」


『迷いし者』がいなくなれば、『世界の断片』は形を保っていられずに消滅する。


これまでもそうだった。


『迷いし者』を倒し、『世界の断片』は消滅して元の、入ってきた場所に戻る。


あの『迷いし者』もロトの攻撃に巻き込まれて、死んだはず。


極限まで圧縮された風の力は勢いよく解放され、絶大な範囲を巻き込んで破壊の限りをもたらした。

余波に煽られたファンでさえ防ぐのに消耗した攻撃だ。

あれで死んでいないはずが……。


そこで、違和感を覚えた。


死んだはず……。

それはつまり、『迷いし者』が死んだことは確認していないということ。


あの攻撃なら絶対に殺し切ったと勝手に思っているだけ。

爆風に巻き込まれ、核もろとも消滅したと。


そう、思い込んでいるだけ。


だが頭はそんな可能性を否定する。

あの攻撃をもろに食らい、生きているはずがない。

そう確信できるほどの攻撃だった。

あれは今、ファンたちが出せる最大火力に間違いない。

倒した。

きっと『世界の断片』が消滅するまでに少し時間がかかっているだけだ。

何かの拍子にふっと元の森に戻る。


そうに違いない、と自分に言い聞かせる。


だが、この気味の悪い感覚はなんだ。


身体を這いずるような、この悪寒は。


いくら否定しても、目を背けようとしても無理やりに見せつけられるようなこの気配は……。


――――とぷん、とぷんと嫌な音が聞こえた気がした。


見たくない、

そう思っていても体は脅威を確認せずにはいられない。


『カル、カルルルルラァァ』


崩れかけた核。

だが崩壊する一歩前でぎりぎり形を保っている。

水に包まれ、ゆっくりと形を元に戻すように蠢いている。


叫び声は先ほどより小さい。

身じろぎする動きも精彩に欠ける。

明らかに死にかけてはいる。


――――それでも、まだ生きていた。


それは耳に残って離れない絶望の音……。


湧き出る水を豪快に吸い上げ、二回り以上も大きな体が形成されていく。


「まだ、生きて……」


いくつか水面に水が湧き出てきていた場所。

その穴から引っ張り上げているのだと、ファンはそこでようやく理解した。

この足場、透明な氷のような層を隔てて、その下に水が溜まっている。

その水は表面に見える水とは異なる水。


――――この下に溜まっている水がっ……


あれだけ外の世界に漏れ出ていた感染部分がこの場所に入ったときには見当たらなかった。

中が正常に見えたのは結局のところ、見える部分に存在していなかっただけ。


『世界の断片』が隠していた感染部分。


そしてそれは、今『迷いし者』の力となって顕現する。


「ぶっ」


伸びた水の尾が脇を直撃する。

続いて振りかぶられた前足が構えた腕ごと水面へ叩き付けられた。


肺の空気すべてを強制的に吐き出された。

呼吸にあえぐ間にさらに一撃。

一瞬でめったうちにされ、朦朧とする意識は何を食らったのかさえ認識できない。


水面に転がったファンはうずくまり、必死に空気を吸い込もうとする。


――――やばいっ


あまりにも無防備。

だが何もできない。断頭台に括りつけられたように、目の前に絶望が迫ってくる。


せめてもの抵抗として、『迷いし者』の方をむき睨みつけるがそれ以外にできることがなかった。


来る。


動けないファンを仕留めに、近づいてくる。


大きく振り上げた前足を、ファンに叩き付け――――。


ばしゃ、と目の前で水が弾けた。


一瞬何が起こったのか、ファンにもわからなかった。


だが何のことはない。


振り上げられた前足はファンの顔をすれすれに通り過ぎ、勢い余って水面に叩き付けられ飛び散ったのだ。


――――距離を、見誤った?


よく見れば弾けた前足の他に、身体の至る所が崩れ始めていた。


――――なんだ?


浮かぶ疑問をよそに、『迷いし者』が何故か距離を取った。

崩れ始めた身体を再構築するように水を集めだす。


だが、それは絶望に変わりない。


集まっていく水を止める術はなく、ファンはただその光景を見せつけられる。


背丈をはるかに超える大きさに膨れ上がった『迷いし者』を前に、ファンは立ち尽くす。


魔力はもうない。ピュルテも意識を失ったまま。

ファンはとても戦える状態ではない。

武器も、魔道具も、碌なものはない。

ロトに渡した魔力もすでに先の攻撃で使い果たし、水上でうずくまっているロトも動けない。


何か異常をきたしている様子の『迷いし者』だが、何もできない。


抗う術が、残されていない。


――――死


目の前に膨らんでいく死の気配が、どんどんと場を支配していくのをただただ見つめるしかない。


詰み。


もう、不可能だ。これだけ死力を尽くしてなお、殺しきることができなかった。


最善は尽くした。


それを上回る脅威だと、そう認識するのが遅かった。


準備が足りなかった。


数が足りなかった。


時間が足りなかった。


ファンたちに、希望はーーーー。


「まだだっ!」


諦めるのはまだ早い。


暗くなりかけた思考を振り払い、思い直す。


厳密にいえば抗う手段はある。

魔力がなかろうと、状況をひっくり返す一手が。


反撃の可能性を一つ、残している。


「……」


だが、一度痛い目を見たばかり。それをまた使うにはリスクが高いのもまた事実だ。

下手をすればこの選択がファンたち自身を殺すことになるかもしれない。

まだ思いついていない可能性を摘み、希望を閉ざす結果になるかもしれない。


――――いや、違う。リスクが高いなら、それを極限まで低く。俺が、制御しなくちゃいけないんだ。


望む結果を手繰り寄せるために、心に浮かぶ言い訳を強引に塗りつぶす。


絶対に生き残る。


その意思で、やり遂げるんだ。


「ふぅー」


『迷いし者』はまだ動かず、水を吸い上げている。

やるならすぐに行動に動かす必要がある。


よし。

腹をくくる。

死なないために、死ぬ気でやる。


――――絶対に、こんなところでは死なない。


意識を沈める。

深く、自分の中にある可能性を探しに潜る。


敵を前に無防備をさらす。

その恐怖が鎌首をもたげてファンを襲う。


――――覚悟だ、気合をいれろ……!


だが、腹に穴が開こうとこの集中は途切れさせない。

硬く握りしめた拳の中で、不安を押し殺す。


その門はすぐに手が届いた。


未知の門。

それがなんなのか自分でも理解していない、感覚と本能のみがこの門の力を感じ取っている。

原理や、法則などに縛られないそれはしかし言葉にならぬ力がある。

ファンの中に眠っている可能性。

それをこじ開ける。


扉が開く。


にある不確定な力をこっちに引っ張り上げるイメージ。


――――操れ、力を限界まで制御しろっ


多すぎれば制御できず、もて余す力が身を亡ぼすことになる。

そうならないためには、


――――これは、取りすぎ。もう少し少なく。でもできる限り多く。


手の内に納まる限界を探る。


巨大な力の塊から引っ張り出す意識。

こぼれないように、されど少なすぎないように。


――――来た


「ーー召喚」


陣が浮かび、どこからかあふれた力が現界する。


爆炎を纏い、顕現したのは白髪の老人。


「……なんとも珍妙な場所に呼び出されたものだ」


目を開き、この特異な空間を見て一言。

淡々とした口調だが、その内に秘めた苛烈さは隠れることなく伝わってくる。

いつ暴れだすかわからない凶暴性を閉じ込めたような、危険な空気。


ぱちぱちと舞う火の粉が音を鳴らし、身体からあふれる熱気が空間を揺らめかせていた。


「……っ」


圧にあてられている場合ではない。


取るべき行動はまだある。

制御できない力は害にしかならない、それを強く心に刻んだばかり。


「ふーー」


一瞬気の迷いが生まれた。

自身の傷を見つめ……。


覚悟は決まったはずだ。

召喚に成功し、契約者も出現した。

ならばもう一つ、やらなければならない。


ただの通りすがりの身だろうと、あの想いに応えてやりたい……。


自分の中に生まれた初めての気持ち。

仲間のために、とはいささか気が早い気がして気恥ずかしい。

それでも、悪い気分ではないから。


力になりたいと思えたから。


だから。


「ぐっ。がああぁああああ!」


ファンは自分の傷口に手を突っ込み、緩まりつつあった血の流れを再出させる。


ぼとぼとと再びあふれる血流に老人がが反応した。


「……それは」


「契約だ!」


なりふり構わずファンは叫ぶ。

身体に走る激痛を塗りつぶすように強く、大きく叫ぶ。


「俺が、契約を結ぶ。この血を対価に、お前の力を借り受ける!」


老人には知性がある。

その凶暴性は測れなくとも、協力を求める必要がある。

こちらの意を汲み、共に戦ってくれる可能性を諦めたらそこでお終い。


召喚には対価が必要だ。

鉄杭の少年も、ロトも。

正規の手順で契約する契約者には魔力という対価を支払い、力を授けてもらう。


しかしこの未知の門を使った召喚には明確な対価がない。

呼び出した存在は召喚者として契約しない限り呼び出した召喚者に従わず、暴走する。

あの狼はあの時のファンには制御が難しかった。

対価を払い、契約を迫るという選択肢をはなから除外していた。


だが今回は対価を使う。

即席の、『血』を支払い、契約を迫る。


――――絶対に、諦めはしない


今、ファンに持ちうるすべての力、すべての可能性を使い、あの敵を倒すために。


絶望の闇に、意地と意思を突き立て、希望の光をむしり取る。


「ふむ……」


顎に手を当てる老人が勢いよく血を垂れ流すファンを見て、そしてその目を見て、頷く。


「よいだろう。この儂の力。その目にしかと見せてやろう」


バッと老人の突き出した手にファンから流れる血が吸い込まれていく。


「その死に体の身の代わりに儂が矛となってやる」


血を吸収しきりぐっと拳を握ると、老人は『迷いし者』の姿を見止め、豪炎を体から吹かす。


「刮目しておけ、少年! 儂が汝の希望となるさまを!」


契約はここに成った。

その様を険しい顔でロトが見つめている。


ぷすぷすと水面の水を蒸発させながら、老人は疾走する。


否、疾走と呼ぶにはその姿は力がこもりすぎていた。


「派手に咲け!」


巻き起こる爆炎が身を膨れさせる『迷いし者』に浴びせられる。新たに表れた敵に『迷いし者』が反応する。

肩を大きくあぶられ、体を溶かされた『迷いし者』がしならせた尾を打ち付ける。


「は!」


老人から放たれた熱風が自身の体に寄せ付けるものを許さない。

半ばで溶け落ちた尻尾が水面に落下して消え、その余波が『迷いし者』の体を覆い包む。


『イィィィィィ』


体を焼かれ、構成された水が蒸発して消えていく。


「それがお前の本体だな?」


残った核を見て、老人は手のひらから大きな火球を生み出した。


「ふん!」


『イィァアアアアアア』


豪火がひび割れた核を燃やし、『迷いし者』の絶叫が耳をつんざく。


もだえ苦しむ声を上げながら、近くの水上から続々と水が集まりだす。

核にまとわりつく火を消すように水がぶつかり、じゅうじゅう音を立てて身体を作る。


「燃えろぉ!」


再び放たれた豪火が『迷いし者』の身体に迫るが、


『キュロロロロォォ!』


足元から噴出した水が壁を作り出し、豪火を受け止める。


二発、三発と放たれる火球がすべて水壁に激突し、わずかな穴をあけて消滅する。


「猪口才な……」


手に生み出した火球の効果が薄いの見て、老人は一つ唸る。


そして唐突に火球を口に吸い込んだ。


「小細工など、ぶち壊せば良い!」


大きく背なかをのけぞらせ、勢いをつけて火球を吐き出した。


続けざま、生み出した火球を吸い込んではポンポンと撃ちだす。


飛んだ火球は先ほどと同じ軌跡をたどり、水壁にぶつかる。


すると、火球は水にあたった瞬間、触れた水を取りこんだ。


穴の開いた水壁を通過し、その先にいた『迷いし者』の胸にめり込み、


爆発。


蜥蜴の上半身を吹き飛ばし、その余波で崩れかけていた水壁をも弾け飛ばした。


後続の火球が残った『迷いし者』の断面に突っ込む。


連鎖した爆発が重なり合い、巨大な爆発と化して核にダメージを与えた。


『さすがに、強いわね』


圧倒的という言葉はこの光景のことを表しているのだといえば、まず否定されることはない。

そう思えるほど、一方的な戦いだった。

再生力の落ちた『迷いし者』ではあの老人の火力の前になすすべがない。


再生すればした分だけすぐに焼かれ、何もできずにただ耐え続けている。


「でも……」


だが、それでも。

あの老人の攻撃でさえもあの核を破壊するには至っていない。

燃やされ、叩きつけられ、溶かされようと『迷いし者』はまだ死んでいない。


「っ――――」


そんな光景を薄目で眺めていたファンが崩れかける。


『ファン……?』


問いかけるロトの言葉はファンの耳には届かない。


――――まずい、意識が……


大量の出血。戦闘のダメージ。枯渇した魔力。

ファンはすでに立っているのもやっとの状態だった。


懸命に意識をつなぎとめる。


ファンがここで意識を失えば、契約者はその存在を保てなくなる。


『しっかりして、あと少し頑張って……!』


耳元で少しでも意識を覚醒させようとロトが必死に呼びかける。


「……あたしは」


その声に反応してか意識のなかったピュルテが目を覚ます。

顔に張り付いた髪をかき上げ、周りを見渡している。


「がはっ」


朦朧とするファンが不意に、込み上げた血を口から吐き出した。


「おい、これ、なんだこの怪我!  ぐっ!?」


ロトの声に起き上がったピュルテが、ファンの惨状をみて声を上げる。

ばっと体を掴もうとして、腹部に走った痛みに動きを止めた。


「あたし、いつ攻撃を食らった……?」


視線を下ろすと、自分の胴周りをぐるりと一周する帯のような跡。

ほんのりと緑がかった感染跡が目に入った。

そして立ち上がったと同時に、体からごっそりと力が抜け出たような感覚がピュルテを襲う。


『降ってきた水に飲まれて気絶してたのよ』


ロトは感情を込めず、淡々と話す。

気絶したピュルテの体からは『世界の断片』に入る前に大量に取り込んでいた魔力がすべて抜け出ていた。

森の中で過ごしていれば、無くなった魔力は漂っている空気中の中から取り込めさえすればすぐに元の体に戻れた。

だが、ここは『世界の断片』。

漂う魔力はすべて魔力感染によって変質し、水と化す。


『気絶して殺されそうになってたあんたを助けるために、ファンはこの傷を負った』


体にいつもあったものが無くなるという異常事態をひしひしと感じ取る。

ピュルテは力の入らない体を押さえながら、一度に入ってくる情報に頭をかき乱す。


「傷って、なんでこんな……」


顔を上げたピュルテはそこで初めて鳴り響く戦闘音の方に視線を向けた。

見たことのない白髪の老人が爆炎を引っ提げるように戦っている。


「誰だあれは」


『ファンの召喚術、前に狼を見たことがあるでしょうそれと同じ類の存在よ』


ピュルテはあの時の記憶はおぼろげにしか覚えていないが、あの兇悪な気配の狼のことはしっかりと覚えていた。

しかし、その狼と同類とは一体どういうことかと、ピュルテは考える。


「……! まさかまたあの召喚を、だってあれは身体への負担が!」


あの後、ファンの体の震えや、その後の後遺症なのか、満足に動けていないファンをピュルテは見ていた。

気軽に使えるものではないとファンは言っていたし。

何よりあの狼のような存在をぽんぽんと召喚する術など、そのリスクを考えればゾッとしない。


『でも、ファンが体を張ったおかげで、こうしてまだ生き延びていられてるわ』


ロトが見る視線の先。

火の海と化し、燃え滾る火炎の中で鳴き叫ぶ『迷いし者』の姿。

そして、そんな『迷いし者』に容赦なく攻撃を加えていく老人の背中がピュルテの目に映った。


「すごい……」


だがやはり圧倒しているようには見えても、あの核を破壊するには至っていない。


『核を破壊するにはどうしたら……』


あの火力を持ってして破壊できないとは……。

ファンの意識が途切れるのも時間の問題。


眉を顰めるロトに怪訝な顔をしたピュルテが何か声をだそうとして、


「っ、何かくる!?」


『迷いし者』の方へ向き直った。

ピュルテが感じ取った悪寒。

その直後、謎の揺れがピュルテ達を襲った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


『ィィィィィィ……』


か細い鳴き声を漏らしながら、『迷いし者』は老人に背を向けるように足元にある水面に潜った。


「……なんだ」


異常の前触れを感じ取ってか、戦況を押していた老人の手が止まる。

一瞬、逃げたのかという思考が老人に浮かぶがすぐにそれはないと判断した。

あのか細い悲鳴。決して哀れまれたいがための声音ではない。

恨めしい、憎いという感情をこぼしたかのような、敵意ある声だった。


ゆっくりと水面下に『迷いし者』が沈んでいき、直後。鈍い音をたて、地震のような揺れが大きくなっていく。


『何!?』


「これって!」


否。それは地震ではなかった。

足場が、いや、それよりもっと大きな規模の範囲が揺れている。

水面が波打ち、不吉な気配がせりあがってくる。


「これは、ずいぶんと大きくなりおったもんだな」


「――――っ」


見上げるほど、大きく、巨大な身体を作り上げた『迷いし者』が遥か上の視点からファンたちを見下ろしていた。


揺れていたのは水。

断層によって隠されていた感染済みの水のほとんどを『迷いし者』が自分の体として吸い上げたのだ。


「この大きさ……!」


老人の攻撃も、このあまりに巨大な身体の前ではせいぜい端の部分を焼き焦がす程度。


それはさながらこの空間そのものといってもおかしくはない。


『まだ奥の手があったってこと……』


劣勢の『迷いし者』が取った最善の策。

老人を倒す手段。

この質量でかかれば確かに倒せなくはないだろう。


だが、


『あの水、この世界の大半を占めてるはずよ……。そんなものを使えば、世界の断片自体の存在が危うくなるはずなのに』


いうなればあれはまさにとっておき。

自身の世界の安定を捨ててでも、ファンたちを危険だとみなしたということ。

いよいよ向こうもなりふり構っていられなくなっているようだ。


「勝負に、出たみたいだね」


もはや誰に喋りかけているのか、視点も定まらず、今にも倒れてしまいそうな状態のファンが、独り言を漏らすようにつぶやいた。


「あんなの、どうやって倒せば……」


あのピュルテが、困惑したように弱音をこぼす。

すでに敵は一つの環境と化したようなもの。

人は山とは戦おうとは思わない。桁が違いすぎる相手に対して、闘争心を燃やすのは稀有な人間だけだ。


「一つ。気になることがあるんだけど……」


「気になることって、」


苦しそうに口を開くファンへピュルテが答える。

この状況の中であっても、ファンはまだ戦う気力を無くしていなかった。


「それは――――――――――――――――」


ファンの口から出たのは、一つの賭け。

上手くいけば奴を倒せるはずだと、先の戦闘中に何かに気づいた様子のファンは言う。


「それ、本当か?」


「間違いなく、見た。問題は誰がやるかだけど……」


そこには一つ問題があった。

当然、賭けにはリスクが伴う。

この局面でこの提案をする。それは当然命を賭けなくてはならないということ。


「それは……」


一瞬考える様子を見せるピュルテ。

今聞いた話を反芻するように口元に手を当てている。


「……っ!」


視線を落としていたピュルテが、ばっと顔を上げた。


「あたしが、やるよ」


『本気?』


いつの間にか、ピュルテの顔に活力が戻っていた。

それは覚悟の証か、力強く口にした言葉には並々ならぬ気持が感じられる。


「一番妥当でしょ? それに、このままならどうせ死ぬ。いくらあたしでもあんな化け物は手に負えないし」


だから、と告げるその目は強く、意思を秘めていた。


「なら、せめて少しでもやれることはやらないと……」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ピュルテは水面を駆け抜ける。

傷ついた体を引っ提げて、火炎舞う戦闘地帯にはわき目も降らずに。


正面を向けば、山のように大きくなった水蜥蜴が、体にまとわりつく虫を払うように老人を相手取っている。


『ガルルルルラァアアアア!』


体が押し付けられるような咆哮が頭上から響き渡る。


「うるさいっ、なっ!」


ピュルテはぐっと歯を食いしばり、頭の中を揺らす轟音に耐える。


すると、突然鳴り響いていた方向が消える。


「何が……?」


見上げた『迷いし者』の顔がこちらに向いていた。


「っ」


悟られたと気づいたピュルテはやけくそ気味に加速する。


この水上には避ける場所も、隠れる場所もない。

ならば前へ突っ切るしかやることはない。


『ガラララァァァ!』


『迷いし者』が自身に近づいてくるピュルテに標的を変えた。


その巨大な前足を水面に叩き付け、即席の津波を作り出す。


突如正面に出現した大津波はピュルテのはるか上空までを覆いつくし、逃げ場のないピュルテを飲み込まんと迫ってくる。


加速し続けていたピュルテの足が、眼前の大津波をみて緩みかけた時、


「女! 心配せずに前を向け!」


いつの間にかピュルテの後方へ移動していた老人の檄が飛ぶ。


「その特攻! 策ありとみなすぞ!」


吠える老人は大きく息を吸い込み、扇状に炎を展開させると、どうやってかその炎を蹴り飛ばした。


有に百を超える小さな火の塊が水面で消えることなく、蹴られた勢いのまま転がっていく。

その勢いは距離を進めば進むほど増していき、その大きさはコロコロと水面にあたるたびに倍々に膨れ上がった。


加速し、巨大化した炎の塊が加速し続けていたピュルテをも追い越し、大津波に突撃していく。


炎が着弾すると同時に起きた大爆発が爆風を生み、走るピュルテを吹き抜けていく。


蒸気がはれ、映る視界にはあれだけ高くそびえていた津波が消え失せていた。


「突き抜けろ!」


声を上げる老人に『迷いし者』の標的が再び戻った。


障害が消え、ピュルテはさらに加速する。


身体の下に入り、


前足を抜け、


水面を蹴った。


「はぁぁぁ!」


すべての加速を力と変え、『迷いし者』の身体へと突撃する。


「く、硬い!」


忘れていたが、大きくなったとはいえ『迷いし者』の体であることには変わりがない。

その表面の膜は巨大になったことで分厚くなっていた。

突き進もうとするピュルテの体をぶるんと震える水の膜が跳ね返そうとする。


――――勢いが足りない


この膜を貫くだけの勢いがない。

あの炎の老人が注意を引きつけている間になんとかしなければ……。


その時、

焦るピュルテの体の一部、腰につけていた何かが輝いているのに気が付いた。


「――――?」


手で取ってみれば、それはあの商人の男が持っていた鈴の魔道具。

なぜ光っているのか、疑問に思うピュルテの目の前で輝きが大きくなり、見たことのある陣が宙に展開された。


「これって!!」


思わず、背後に投げ捨てる。

次の瞬間、


大爆発とともに発生した爆風が、水の壁と化した『迷いし者』の体内へピュルテを勢いよく押し出した。




「荒っぽくて悪いね……」


視線の先で起こった爆発を見て、ファンはいたずらが成功したように、にやりと笑みを浮かべた。


一度触れたとはいえ、この召喚は上手くいくかファン自身不安だった。

しかし、目論見通り良いタイミングで後押しができた。

成功したのを見届け、力尽きたように前のめりに倒れこむ。


『ファン! 大丈夫!?』


「はぁ、大丈夫大丈夫、まだ、もう少し絶えれる……」


これで、ファンにできることは意識を失わず、どうなるかを見届けるだけ。


『……あとはピュルテ次第ね』



爆風により加速したピュルテは『迷いし者』の体内を泳ぎ進む。

視界いっぱいの水は感染していることもあって薄緑に濁っている。


――――ファンめ、あたしの扱いが荒くないか!?


爆発で少し焦げた肌がひりひりと染みる。

しかしおかげでこうして体内に潜り込めたわけで、沸き立つ感情をどうすればいいのか。

ピュルテは持て余した怒りを原動力に、水を蹴る足に力を入れた。

外では、あの老人が激しい戦闘を行っているはずだが、水の中にはなんら影響がない。

進むには都合がいいが、全く影響がないというのはこの巨体の焦る業か。

複雑な思いで水を掻く。



深い水の底に潜っているような感覚。

大きすぎる『迷いし者』の体は真横に向けて進んでいるはずなのに先が見えない。

進めば進むほど薄暗くなっていく。


おまけに


――――さっそく始まったか


感染した水の中にいれば当然、魔力感染を受ける。

全身の外側から常にはない違和感を覚え始めた。

これはきっと感染が進行しているのだろう。

泳ぎながら、しかしピュルテは動じなかった。


感染した水の中でももはや関係ないとファンの作戦に同意したのはピュルテだ。

この感染症状は直す手段がないが、すぐに死ぬこともない。

じわりじわりと侵攻していって、じきに体が崩壊するのだ。

ピュルテはすでに気絶している間に胴に感染を食らっている。

そしてファンの立てた作戦を遂行するにはこの中に入る必要があった。

不幸中の幸いか、今ピュルテの体には魔力がない。

その分感染が侵攻する速度も鈍い。


――――もっと、進まなきゃ


作戦はあの核に近づく必要がある。

外側から、体の中心部分まで泳ぎ勧めなければそこで終わりだ。


作戦を伝える際この勝負は、ピュルテの行動によって決まるとファンは言った。

事実、あの奥の手の召喚で呼び出した老人の力でも、『迷いし者』を倒すには及んでいない。

あの火力をもってして、倒し切れないならばピュルテとファンにはどうすることもできない。


ひたすらに前へ、前へ。

足を曲げて、水を蹴る。伸ばした腕をいっぱいに広げて、水を掴む。


呼吸が、徐々に苦しくなっていく。

先に進んでも、暗さは増し、自分から闇にのまれていくような錯覚に陥る。


――――やばい、息が……!


息継ぎはできない。

ここは『迷いし者』の体内。

外に出ている時間も、余裕もない。

どくどくと、激しくなる心音が静かな水中の中で轟くように鼓動を速める。


無我夢中で、先へ進む。

引いてはならない。

逃げることは許されない。


これは、元はピュルテの戦い。

森を守るための戦いだ。

それなのに、こうしてピュルテに協力してくれる者がいる。


ファンは、あんなにボロボロになってあたしを助けてくれた。


森で待つ皆はあたしに任せたといってくれた。


ここでピュルテが力尽きれば、そこで終わってしまう。

皆の期待を裏切ってしまう。


そんなのは嫌だ……!


足が、腕が、身体の中にある力が無くなっていく。


前へ突き進む力が失われていく。


どうすればいい。


かすむ意識の中もがくように水を掻く。

生まれた推進力がわずかに体を進ませるが、核まであと少し、距離が足りない。


身体が重たい。


胸が苦しい。


力が。


抜けていく。


この水さえなければ……。


……。


……。


……。


――――そうだっ!


かっと目を見開き、花弁が身体の周りに浮かぶ。


やがて回転し始めた花弁は辺りの水を分解し、魔力と化してピュルテの身体へと取り込んでいく。


――――水が邪魔ならば、消せばいい!


この水はこの『世界の断片』が作り出したもの。

そしてこの水は元は魔力を含んだ水が感染したもの。

すなわちそれは魔力であることには変わりない。

ならば、身体に取り込める。

たとえ、感染した魔力ごとではあっても。


力が、戻ってくる。


同時に激しい痛み。

身体を壊されているかのような、意識すべてを奪う勢いの痛みの洪水が魔力と共に流れ込んでくる。

瞬く間に変色していく身体に目を向け、しかしピュルテは正面を見据えた。


身体に戻った魔力で大きく腕を動かす。


想いを、希望を託されている。

ここで死ねば目的は果たせず、協力してくれたすべての思いを無にしてしまう。


だから、


――――届け


諦めるわけにはいかない


――――届け!!


挫けるわけにはいかない


――――届け!!!!


光が、見えた気がした。


その瞬間、懐に手を突っ込み見えた光に手を伸ばす。


――――くらえぇぇええええええ!


握ったのはファンから受け取った瓶。。その瓶をひび割れた核の膜へ叩き付けた。


中に入った濃紺の液体が水に流れ出す。


それは森の民の集落でオサがファンへ渡した魔力液。

飲めば魔力を発生させ、使用した者の魔力の回復を促進する希少品。

だが、使用方法はそれだけではない。


変質した液体は核の膜へ触れる。

染み込むように中へ浸透していく液体が、どんどんと変色し、感染していく。

魔力液の生み出す魔力は高い濃度を誇る。

『迷いし者』の操る感染水と一線を画す濃度の魔力液が感染すれば、その感染威力もそれに伴って上がる。


二層の核の内部が染み込んだ魔力液で満たされる。


『――――――――ァァァァ』


水の中に『迷いし者』の絶叫が広がった気がした。


――――やっぱり、感染したっ!


ファンがピュルテに伝えた情報は正しかった。

ファンが気づいたのは『迷いし者』の体の異変だった。

戦闘中、攻撃が当たっていないのにもかかわらず体の先が崩壊し始め、崩れていった。

隙を見せたファンに対し、止めを刺す寸前だった『迷いし者』がそこで自身の体の崩壊に気付いたのか、急に距離を取り、体を再構築したのだ。

あと少しで詰みという場面で、どうして急に引いたのかファンには疑問だった。

『迷いし者』は獣ではない。

知能がある存在だ、行動には何かしらの理由があって然るべき。


なら何故か。


それは、


――――引かなければならない何かがその時に起こっていたから。


そもそも魔力感染とは必ずしも世界の断片に感染するものではないという。

感染は世界の断片が生み出したものではなく、どこからともなく現れる世界全体の謎現象だ。


元々『迷いし者』が感染に強いということはあり得ないのだ。


そこでファンは閃いた。

あの回避行動をとった意味を。


――――もしかしたら、『迷いし者』にも魔力感染は感染するのではないか


魔力感染は防御など関係なく、体を蝕む死の病だ。


魔力を持つものすべてに特攻を持つ。

あの『迷いし者』の強固な核を打ち破るのに使えるのではないか、と。


ここで問題だったのは、その確証は何もないこと。

そして、『迷いし者』の核に魔力瓶を叩き付ける役を誰がやるのかということ。


しかし、この無謀に思える賭けにピュルテはのった。


ここでやらなければどうせ死ぬ。

ならば少しでも可能性のある方に賭けたいと。


――――核が、崩れてく


そしてピュルテはやり遂げた。

叩き付けた魔力液は核にしみこんだ後、瞬く間に感染水に侵されて変質した。

変質した魔力液は高濃度の感染水となり、核の崩壊をもたらした。


『カ、ルル――――』


声が消えていく。

それと同時に外側に向けて、水が流れ出す。


―――――――やっ


もう息も限界だった。

かすんでいく意識の中で、ピュルテは自分の体がどこかへ流されていく感覚とともに、核の崩壊していく様を見続けていた。

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